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この世界が仮想現実であることが証明された。

そうなのではないかと常日頃から思っていた。
マトリックスの一作目をDVDで観たとき「これだ。すごくよく分かる。この感じ」と思わず膝を打った。郊外の街に住む高校生だった自分にとっても、まさに仮想現実という概念こそがガチでリアルな現実だった。ヤバいよヤバいよ、と激しく興奮したことを覚えている。

つまり、この世界は仮想現実なのだ。

それが今朝、ほんのつい数時間前に5月の朝陽が入り込むリビングにおいて証明されてしまった。

もう一度言おう。
この世界が仮想現実であることが証明された。

さて、それがどのように証明されたのか。
読者諸兄におかれては、まず知りたいのはそこであろう。それでは経緯などは後回しにして、ズバリその結果だけ言ってしまおう。


紛失したと思っていた家のカギが、カバンの底から出てきたのである。


さあ、どうだろう。
君は「なんだよ」と一気に白けて、プラウザの戻るボタンなど押そうとしているかもしれない。それから誰か他の人気アカウントのライフハック記事だとかほっこり日常マンガ、リリカル私小説めいた日記などのお気に入りを巡回、あるいは休日の日中からエロサイトに飛んで行こうとしているかもしれない……ちょっと待った! 君はそのクリックあるいはタップをとどまり、このページをスクロールすべきだ。私は大変に重要なことを語ろうとしている。ほんとだよ。

なくしてたと思ったものが、思わぬところから出てくる。
その現象だけ切り取れば、それはたしかによくある失敗談であり、人騒がせな間抜けの症例でしかない。そう思われても仕方がない。
しかし、そうではない。
この記事のタイトルにもう一度戻ろう。

この世界が仮想現実であるということが証明された。

そうなのである。

この世界は昨今大いに流行っている量子力学的SF世界観に基づいて、精細に作られた仮想現実、バーチャルリアリティー空間なのである。だから揺らぎとか波形とか光子とか素粒子とかパラレルとかヒモ理論、そういう様々な影響が複雑に難解に絡み合い、その結果として世界は仮想現実である。どうやら、そのように証明されたっぽい。
その理論に基づいて考えると、紛失したカギは、ずっとカバンの底にあったというわけではない。昨日必死になって探していたときには、たしかに存在しなかった。そうとしか考えられないそれが今朝になって私の手が改めてカバンの底をかき回したとき、その場に出現した再構成されたと言い換えてもいい。
つまりシュレーディンガーの猫とか観測者問題だとか、いわゆるそういうことですよ。それを我が身を持って体験したということなのです。

詳しくは、この動画で解説している通りだ。どこかいかがわしそうな雰囲気を漂わせ(私は感じた)、さらに映像はハリウッド映画やアニメ、ゲームからの(恐らくは)無断引用、キャプチャーによって構成されている。作った人はYouTuberなのか? 他人がアフィリエイト等で儲けることは気にくわない。私だって儲けてみたい。とても悔しい。しかし内容自体はとても興味深いものだった。とくに印象に残っている部分は以下である。

オープンフィールドのゲーム(主にGTA5)を例に挙げての解説が非常に分かりやすい。プレイヤーの周囲何メートルの「触れることが可能な世界」はきっちりと細密に描かれる。だから遠くに見えている風景も同じように存在しているとプレイヤーは錯覚するのだが、実際はその範囲に自分が近づいたときに改めて構成される。そうやってデータ容量やCPUにかかる負荷を抑えつつ、広大な世界を表現している。例えば高台に登って、遠くの都市に見える車のライトを狙ってロケットランチャーを撃ち込んでも、いくらエイムが正確でも命中しない。その車は本当には存在しない、あるいは存在(プログラム)の仕方が簡略化されているのだ。
また「光速に近づくと時間の流れが遅くなる」という特殊相対性理論の現象についても、世界を巨大なコンピューターゲームとして考えれば「演算や処理が追いつかない」という理由がつけられる。(個人的には地球防衛軍シリーズをプレイ中、大量の巨大昆虫とマザーシップが出現するステージで多弾頭ミサイルを撃ち込み続けたときの画面が思い出された。カクカクとフレームが飛んで、全体にスローがかかる。いわゆる「処理落ち」だ。マシンスペックの不足するPS2時代には、その現象はより頻繁に起こっていた。)
「この世界は仮想現実である」この理論は近年、学者たちの間でも説得力を持って支持されているらしい。それにはコンピューターゲームの普及が影響しているのではないかと、この動画でも解説されている。

「我が意を得たり!」動画を見て十数年ぶりに膝を打つ私。たしかにゲームをしていると仮想現実的な考えに自然と親しむ。昨今のオープンワールドゲームの大流行はどうだ。ここ数年で幾つの世界が出現したのだろう。そこでは何万ものAIが暮らしている。そのAIは自分がAIだと自覚しているだろうか。自我のある人間だと思っているんじゃないか。我々の暮らす世界もそのようなものだと言われても、否定することは難しい。ところで、これを書いているうちに、大長編ドラえもん「のび太の創世日記」が想起された。あれも子供向けとは思えないSF設定だから知らない人は要チェックや! 相田彦一。

さて、もともと人間には虚構と現実を混同する性質がある。
だから物語や宗教、あるいは他者という存在全般に対しても臨場感を持ち、感情を移入することができる。それによって人類社会は発展してきた。そう考えると虚構と現実の区別なんてもとより曖昧だ。
宇宙だって虚構かもしれない。そこに存在している人間が虚構なのも当然で、その人間それぞれに宇宙がさらに内包されて、これはなんというフラクタル。手塚治虫の『火の鳥』的なコスモゾーン。あれだって虚構とは思えないほどにリアルな設定、そして説得力。そんな考えも止まらなくなる。

ここ数年、もしかしたら人類全体がその意識を上部世界にアップロードして……というアセンション、またはシンギュラリティが全世界的に近づいているのかもしれない。SF的な技術開発とスピリチュアリズム、あるいは仏教的な解脱思想、それらが一気に我々を包囲している。そんな時代感覚があるような。伝統的にオカルティックなもの、あるいは黙示録とかオウム的な終末論とは違って、もうちょっとポジティブというか乾いている感じのもの。
逆に言えば、ゲームという虚構の世界観に侵食を受けて、どこかの時点で物質的な現実が再解釈されたのかもしれない。そうとも考えられる。まずゲームありきの世界、そしてSFに現実が追いついてきたみたいな。全人類的ゲーム脳(わりと肯定的な意味で)こそ、いま現在最新式のリアル。そのような考えが自分の頭にも浸透しているのか、先日こんな短編も書いていた。→「新藤とサマーランド」 (気が向いたらクリック。アフィリエイトではありませんよ)
それから、いま話題の「レディ・プレイヤー1」。これもゲーム脳みたいな話じゃないのか(違ってたら謝る。まだ観てない。来週行く予定)。

とにもかくにも、そういうわけで「世界は仮想現実である」と証明された。
異論、反論あるかもしれない。しかし私はTHE文系クソ野郎であるから、ちゃんとした数式とか理論とかそういうことは大変によく分からない。だから細かく突っ込まれたり、理路整然と反論されても困るからしないで。

「とまあ、そんなわけだよ」
「昨日から散々大騒ぎして、ずっと機嫌も悪かったのに」
「……すまぬ」
「それがカギ見つかった途端にテンション上がって、こんな話を延々繰り広げちゃってねー」

最前から詫びている私を、ハナコが責める。しかしカギをなくしたりすると大変に動揺して焦ってしまう。それは仕方のないことだ。

先日も、このような記事を投稿したばかりである。TOKIOメンバー山口達也の騒動に便乗して書いたものだが、その要旨としては「おれはいくら酔っ払ってもカギ、財布、携帯。この三つは絶対になくさないもんね」というものだった。その舌の根も乾かぬうちにカギをなくしてしまう自分。とても吃驚する。これは大騒ぎしても仕方ない。

「ねえ、カギなくす人。食器洗って、生ゴミも出してきて」

妻が私に命じた。食器を洗いながら、私は毅然として反論する。

「カギをなくした人じゃない。カギを再構成した人だ。あるいはその場にカギという存在を生み出した人。間違えるなよ」

そしてゴミ出しに行く私は恐妻家。
とにかく言葉は正確かつ慎重に扱わなくてはいけない。言葉によって世界は解釈され直し、いくらでも再構成されるのだから。
そういうわけで、私は断じてカギをなくして慌てふためく間抜けな男ではない。消失したカギを再構成した男なのである。
何故なら「世界は仮想現実だ」と証明されたのだから。それに基づいて考えれば、そういうことになる。いや、そうとしか考えられない。だって昨日もあんなに必死で探したのに出てこなかった。もちろんカバンの中だって何度も。それでも見つからなかった。そして今朝になって突然出現。これはやはり私自身が現実を書き換えたに違いない。そんなことが出来るというのは、つまり「この世界が仮想現実」だから。計らずして私はそれを証明してしまった。書いていて自分でも論理がループしているようにも感じるが、そうなのだから仕方ない。

昨日の夜、カギの不在に動揺しながらさっきの動画を見ていた。そのタイミングでこれだから、そう思い込んでも無理はないでしょう。やはり世界は仮想現実です。私の妻がスマホにインストールされたアプリであったり、実態のない婚約者、すでに亡くなっている恋人、呪術を心得る姉であったりと設定が揺らぐのも、そういう仮想現実や多世界解釈、複雑な量子力学によるものなのです。もはや現実と虚構の区別に意味がなくなる世の中になっていくかもしれませんね。SFも民話も現実も、すべて誰かの私小説なのだと言えなくはない。というのが最近の私の考えなのです。もうわけがわからなくなってきた。

とにかく駅前の交番に行って、遺失物届を取り下げて来ようと思う。

お読みいただき、ありがとうございます。他にも色々書いてます。スキやフォローにコメント、サポート、拡散、すべて歓迎。よろしく哀愁お願いします。