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『ラストレター』 無限の可能性と人生の選択肢があった頃

2020年/日本
監督:岩井俊二 
出演:松たか子・福山雅治・広瀬すず・神木隆之介


1. 未咲をめぐる乙坂の旅

未咲の葬儀後、未咲宛の同窓会の案内が届いたことから物語が始まる。

妹の裕里は、未咲が亡くなったことを伝えるために同窓会に出席する。そこで裕里の高校時代の初恋の相手で生物部の先輩でもある乙坂と再会した。

同級生たちは裕里を未咲と勘違いし、成り行き上、彼女は姉のふりをすることに。そして同窓会後、未咲になりすました裕里と乙坂との文通が始まる。しかし姉になりすましていたつもりが、乙坂は同窓会で会った時からそれが未咲ではなく裕里であることに気づいていた。


乙坂は高校時代から未咲を想っていた。
大学時代に二人は恋人同士になるものの、未咲は阿藤という得体のしれない男と駆け落ちのように結婚し、乙坂の元を去った行った。

一方、未咲のことを忘れられない乙坂は彼女のために書いた「未咲」というタイトルの小説で賞をとり小説家になった。
しかし、その後も未咲のことしか書けず、小説を諦めかけていた。


そんな乙坂は、同窓会で再会した裕里に未咲の消息をたずねる。
そして、未咲が1ヶ月前に死んだこと、それが自殺だったことを知る。

未咲との思い出から解放されずにいる売れない小説家の乙坂と、主婦として平凡な日々を生きている裕里。
高校時代からはずいぶん遠いところまで来た彼らをつなぐのは、今は亡き未咲だ。

彼女にまつわる思い出がそれぞれの胸に刻まれている。

お姉ちゃんのふりして手紙を書いてたら なんか お姉ちゃんの人生がまだ続いているような気がちょっとしました

誰かがその人のことを思い続けてたら 死んだ人も 生きてることになるんじゃないでしょうか


「未咲の死」という現実は変えられなくても、心で未咲を想うことで共に生きることはできる。

「人は二度死ぬ」とはよく言われる言葉。
一度めは肉体的な死、そして二度目は忘れ去られることによる死。

残された人間には「思い続ける」ことでしか死者に寄り添うことはできない。

しかし、未咲亡き今、乙坂は消化し切れない自分の想いをぶつける場所を失った。


2. 輝かしかったあの頃には戻れなくても

優しさとせつなさに包まれたこの物語に、暗い現実を見せつける場面がある。
それが未咲の元夫阿藤と乙坂が再会する場面だ。


高校時代の未咲は輝いていた。
生徒会長だった未咲は学年の憧れの的だった。
そんな彼女に乙坂も惹かれた。

しかし阿藤は彼女をボロボロに傷つけ、追い込んだ。
彼はいわばヒモのような存在で、妻と娘に暴力までふるう男。
輝かしい未来を選ぶこともきっとできたのに、未咲は阿藤を選択したのだ。

過去の未咲との思い出が美しければ美しいほど、阿藤を許せない乙坂。
でも、彼女が選んだのは自分ではない。

乙坂は考える。
自分は彼女にとってどんな存在だったのか。
阿藤の言うように、彼女の人生に自分は何の軌跡も残せなかったのか。
阿藤の方が未咲の人生に消せない傷を負わせた分だけ何も残せなかった自分よりマシだというのか。


答えは、未咲に瓜二つの彼女の娘、鮎美から告げられた。
父親からの暴力や母親の自殺を経験した鮎美にとっても、乙坂の小説「未咲」は意味を持っていた。


乙坂は、かつて小説「未咲」を一章書き終えるごとに、未咲にそれを送っていた。
なぜならそれは未咲のために書いた小説だから。
高校時代、「小説家になれるよ、きっと」と言ってくれた彼女のために書いた文章だから。


鮎美は箱に大切に保管された、乙坂からの手紙の束を前に言う。

「これが母の宝物だった」と。

母をモデルに 小説を書いたこの人が いつかきっと 母を迎えにきてくれるって気がして 

 

乙坂の想いは未咲に届いたいた。
未咲が亡くなった今、どうしたってやり直しはきかないし今更何も変えられない。
でも、未咲の人生に乙坂が居たことは確かな事実だとわかった。




一方、鮎美は今まで開封する気になれなかった未咲の遺書をついに手に取る。


母から娘への遺書。

それは未咲が高校卒業の時に全校生徒の前で読み上げた卒業生のことば。
乙坂が未咲に頼まれ添削した原稿だった。

未咲にとって尊く輝いた場所だった高校時代。
生徒会長として読み上げた「卒業のことば」を娘への最後のメッセージに選んだのだ。

それは彼女の追憶であると同時に、鮎美には「無限の可能性と数え切れないほどの選択肢がある」と伝えたかったのだと思う。

そして、未咲の想いのすべてが込められた「ラストレター」にもまた、乙坂の存在があった。


3. 過去と距離を保つのはなぜか

この物語を鑑賞後、自分の「過去」や「思い出」について考えてみた。

私はあまり思い出に執着しないタイプだ。
こういう態度は情緒に欠けているような気もするが、わざと思い出に浸らないようにしているところがある。

憶えておきたことも、思い出したくないことも過去は過去でしかないし、そこに執着しても過去に戻れるわけでもない。

それに時間の経過と共に過去の記憶は少しづつ形を変えてしまう。自分にとって都合よく、あるいは心地よいものへと変化する。それ自体は人間の本能だから致し方ないと思うけど、だからこそ思い出とは一定の距離を保っていたいのかも。

実際に、中学時代や高校時代それぞれについて、自分の中では「色」みたいなものがある。その頃の空気感や「色」は鮮明に覚えているけれど、その時々に起きたであろう出来事や芽生えたであろう感情を追憶することはしない。

もちろん、何かのきっかけに記憶が蘇ることはある。でもそこに思い入れはない。過去の自分は今の自分とは別の人間であるような感覚。
過去に対して妙に客観的になってしまう癖があるのだ。

思い出にそれほど興味がないのは、現在や未来の方が大切だと思って生きているからというのもある。そして過去に縛られたくないとも思っている。過去の経験が今の自分自身を形成していると理解はしていても、現在が未来の私をどう変えていくかの方に関心がある。つまり、私は未来に「可能性」を見出しているのだと思う。

人は変化する生き物だし、私自身、変化し続けたいと常に思っていることもあるけれど、「無限の可能性や選択肢があった頃」は過去ではなく、今も続いていると感じたいのかもしれない。

実際のところ、年を経ることによってに失っているものがあるのも事実。
そしてその分思い出が増えているのだとしたら、「それらを顧みないことは、人生における大切な何かに蓋をしてしまうことなのかもしれない」と、この映画を見てふと思った。


4. 最後に

この物語には、未咲の自殺や、ヒモの暴力夫との不幸な結婚という重たい話が含まれているにもかかわらず、全体感として美しく、静かで、サラリとした作品に仕上がっている。

それは、松たか子演じる裕里の存在があるからだと思う。

裕里の明るさや無邪気さ、そして平凡さが、物語に現実味をもたらしている。
彼女の自然体なところがリアルなのだ。
どこにでもいる平凡な主婦として描かれる裕里は、姉が死んだからといって大げさに泣いたりしないし、葬儀場で騒ぐ子供達を叱り飛ばす姿は哀しみに沈んでいるようには見えない。

人は悲しい時に悲しい顔をするとは限らないし、たとえ悲しみや苦しみを抱えていても始終憂いてはいられない。
食事もすれば睡眠もとる。仕事にも行くし、子育てもする。

そんな淡々とした日常の描写が、作品を無駄にドラマティックにすることなく、鑑賞者があるがままに物語を受け入れられるよう誘っている。

そして、この「自然体」である裕里の存在が、未咲の思い出を包み込んでいるからこそ、観る者は、思い出のもたらすせつなさや、自分自身に無限の可能性があると思えた、人生の選択肢があると感じられた「あの頃」に思いを馳せ、静かにそれに寄り添うことができるのだ。


さて、岩井俊二監督の傑作「ラブレター」に通づるのがこの物語。
作品全体の雰囲気が似ているだけでなく、「ラブレター」に出演していた中山美穂と豊川悦二が登場人物として起用されている。これは岩井俊二作品のファンには嬉しい限り。

また、祐里の娘のを演じた森七菜が、「ラブレター」で中学時代の樹を演じた酒井美紀とよく似ているところも「ラブレター」を彷彿させる要因のひとつとなっている気がした。



   
(day 91)


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