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書くということ:1年目のまとめ

春学期が終わった。そして1年目が終わり、長い夏休みに突入した。

秋学期の終わりもそうだったけれど、強烈な解放感というものはない。じんわりした達成感はあるけれど、3つの授業の3つのペーパー (計2万wordsほど)を出し終わっても、翌日も、その翌日も、結局朝起きて何かしら読んでいた。なんなら最後の統計のペーパーをポータルで出した後、一旦出しましたが分析をもう少し発展させられると思うのでフィードバックを頂けると嬉しいです、とメールを送ったところ、30分後に"Sure"ときて、更にまた30分後、本当にコメントが送られて来たので、結局最後のペーパーを出した数時間後にはまたゴソゴソStataを開いていた。

修士を取ったら一旦アカデミアは終わり、というマインドセットでいた時とは感覚が随分変わったなぁと思う。あれは短距離だったけど、これはマラソンなんだろう。仕事を辞めてまで来るようなテーマなので、シンプルに気になってやってしまう、ということかもしれない。まぁバーンアウトの話も耳に挟むので、そんなに根を詰めようとは思っていない。夏休みは遊びたいと思う (まぁ"旅先で読みたいリスト"も作っているのだが…)。

忘れる前に、せっかくなので、4月後半からfinal終了までがどんな感覚だったかを記録しておきたい。

なんだかとても、万華鏡みたいだった。読めば読むほど、考えれば考えるほど、見えてくるものがより色鮮やかになり、世界がどんどんクリアになるのが本当に楽しかった。ベースの思考タイプは人によって違うと思うのだけれど、私は元々とてもマクロ思考だ。マクロというか、メタというか (だからCritical Theoryとかやってたのだと思う)。だから、big pictureをつかむのはスルッといつもできる。逆に、ミクロな仔細を詰めていく作業から、学部の時も、ロンドンの修士の時も、逃げがちだった。ちょっとずつ歳を重ね、経験を積むうちに、そういう地味で、細かくて、でも土台を作る大事なところに逃げずに向き合えるハビトゥスを少しずつ作ってこれたように思う。
でも、ミクロな論理をびっしり積み重ねていける人たちと比べたら、まだまだ、荒削りな論理構成しかできないなぁと思う。
まぁだから、そこをトレーニングしていけばいいのだと思うし、そのプロセスは楽しみだ。
3本を書く作業は、ミクロをしっかり詰めていき、論理の網目を幾重にも重ねていく根気のいる作業の、いいトレーニングになったように思う。終わってみれば、ザルだな…という部分もボロボロ見つかるのだが、夏は長いのでまたちょっとずつdevelopしていければいいかなと思っている。

この"幾重にも重ねる"作業には、推敲の数をとにかく重ねること、何度もサイクルを回すことが大事らしい。「錬成」の意味が、わかったような気がした。それにパンを発酵させ、お米を半日浸水させるように (コストコのカリフォルニア米を食べているのだが日本の感覚の浸水時間だと岩のような炊き上がりに仕上がるのでいつもフヤフヤになるまでつけている)、思考も一定ねかせておくといいらしい、ということも学んだ。でもその「ねかせる」も、こねくり回した後のステップな訳で、サイクルを何度も回し、更に合間でねかせる、という贅沢タイムラインで「書く」という作業は全体として考えた方がいいものが出来るらしい。

「書く」ってなんだろうね、ということは友人と話したりした。クラスでも議論になった。別に論文の本文を書く行為だけを指すわけではなく、本文を作るためには色んな思考の整理が必要で、それに効果的なのは必ずしもまとまった文章を書くことではなかったりする。自分にあったそういう作業をまるっと含めて「writing」と言い、それは誰かに教えてもらえることではなくて、あれこれ試して自分のスタイルを確立する必要があり、できるだけ早い段階でそれを見つけることが大事だよね、という話になった。友人は「赤ちゃんを産む」的な表現をしていたが、私には、毎日ヒトとして食べて出すように、たまったアイディアを吐き出して(書き留めて)おく、ことが肝要なように思えた。3本を書く作業は、ゼロベースで3本書き上げたというより、アイディアの材料の違う組み合わせによって3本書いた、という方が感覚に近い。
アイディアを散在させておいていつか本当にconnecting dotsするんだろうか、という心配はしなくていいと思う。一人の人間から出てきたアイディアだ、どこかで繋がっている。コツは、それを自分の内部だけに、言語化せずに溜めておくと、中々形になりづらいのだが、言語化してアウトプットしておくことでその化学反応を人為的に起こしやすくできる、という点にあると思う。

4月後半のひたすら「書く」作業が楽しかったのは、今後やりたいことも明確になったからだ。以前、プロマネもしかりだけれど、どういうプロジェクトを設計してパイプラインを走らせるか、までできるようになる「筋肉」が、個人事業主としての研究者には必要だと思う、と書いたが、そのパイプラインが見えるようになった、という感覚だ。
あれを書いた2月は結構ゼツボー的に暗中模索をしている感じだったのだが、「大丈夫、なんとかなるよ」と当時に自分に言ってあげたいし、 このブログを読む未来の悩める一年目のPh.D.同志の皆さんがいたなら、そう伝えたい。なんでなんとかなったのかは自分でもよくわからないのだが、なんとかなった。一山越えられた感じがする。

あと、コンサルジャーゴンを引っ張り出すついでに付け加えると、スコープコントロールの感覚に関しては、シニマネとかディレクターとかパートナーの仕事だと思うのだが、同じで、先生のアドバイスを聞きに行った方がいい。そのスコープがfeasibleかどうかの勘は、まだひよっこには鼻が効かない分野だ。

ついでに更にコンサルっぽい話をすると、なんだかんだmodern institutionとしてcompanyは、効率化の牙城なので、そこで得られるハビトゥスは結構どこでも通用する有用なものなんだなと振り返って思う。もちろん別にわざわざ会社で働かなくても個人でそのabilityをdevelopできる方々もいると思うけど、organization studies (組織研究) が存在するくらいなので、組織がユニークに持つパワーというか利点というか、というのはあると思う。イギリスとかアメリカの大学にいると、別に会社に行ってからアカデミアに戻ってくる人も全然いるのだけど、なんだか日本にいると、アカデミアはアカデミア、ビジネスはビジネス、という一回分断されたらもう戻ってこれない敷居が存在してしまっているような感じがして、もったいないなと思う。
….という発想は、ちょっと、かなり、Sociologistっぽいかもしれない。

さてこれから3ヶ月ほどの長い長い夏が始まる。
どんな夏にデザインできるか、とても楽しみだ。

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