みんなと湊まちづくりネットワーク
みんなと湊まちづくりネットワークの事務局からのお知らせです。 まちづくり活動の様子などをお伝えします。
湊町に語り継がれる民話集です。 「湊かたりべの会」は、失われつつある昔話を保育園や学校で語ることで、 この伝統を後世に伝える役割を担っていきたいと考えています。
【湊町の製鉄の歴史】 みなとネットワーク(教育環境部会)では、 湊町の製鉄の歴史について様々な調査を行ってきましたが、 今回もまた新しい発見がありました。 湊町の、人が入らないような山の奥に 大昔に行っていたと思われる数々の炭焼き窯跡地と、 たたら炉の跡地(大量の鉄滓が見つかる)が見つかりました。 「一体なぜ、こんな場所で炭焼きが行われていたのか...??」 そんな謎を解いていこうと、 今回の調査の発見で、ワクワクする内容となってきました。 調査した時の様子をYout
TIS株式会社様による、ロボット配送実証実験が湊町にて行われました。 遠隔でお買い物をし、ロボットが商品を自宅まで届けてくれる未来なんて、 夢のようですね!まだまだ実現には時間がかかりそうですが、 今回は、ロボットが自主走行し、 湊公民館から湊小学校まで野菜を運びました! その様子を動画にてご紹介しています。
湊町の田代地区では、昔ながらの技術で、 炭焼きを仕事とする人が多くいらっしゃいました。 田代地区では、たたら炉の跡地も見つかっていて、 昔々に、高度な技術をもった鉄づくり職人たちが住んでいたと考えられています。そのため、鉄づくりに欠かせない、「炭焼き職人」が田代地区には多くいたのだと思います。 また、田代地区には田んぼが無かったので、 米ではなく炭で年貢を納めていたそうです。 湊町の鉄づくりを追っていく中で、湊町の炭焼きに辿り着いたわけですが、 この湊町の炭焼き
ルート294湊翔会(湊町青年団)の皆さんが、 ゴジてれChu!の人気番組『ブンケン歩いてゴミ拾いの旅』に出演しました。(5月31日に放送されました) 現地へ到着すると、テレビ局の皆さんから、「お家でも使ってね!」と、番組オリジナルのマスクと、ゴミ拾いトングをプレゼントして頂きました!とっても可愛くて、嬉しかったです♪ 今回は、福島県郡山市と福島県須賀川市の境界にある峠【勢至堂峠】にてゴミ拾いを行いましたが、 とんでもなく、信じられないようなゴミの山の光景でした・・・。
4月24日に、教育環境部会で、湊町の製鉄の歴史を探るべく 砂鉄を運んだと思われる道を探検に行ってきました! 主に、崎川地区~中田地区を調査してきましたが、 この周辺の山からは、やはり鉄滓がゴロゴロと出てきました! また、裏白河街道周辺でも、以前鉄滓が見つかったとのことで、 今回も調査へ行ったところ、川の中からまた鉄滓を見つけることができました! 「いつ頃作れらたものなのか」というのは、まだわかっていませんが、 湊町の至る所で製鉄が行われていたことは分かってきてい
湊まちづくりネットワークでは、2度にわたり、たたら実証実験を行い 鉄づくりに挑戦してきました! 2度目のたたら実証実験では、玉鋼1.3kgを作ることに成功したわけですが、 玉鋼とは日本刀をつくる上で欠かせない原料となります。 とゆーことで、 2019年9月21日に、【藤安将平】刀匠による 日本刀作刀実演が開催され、見に行くことができたのですが そのときの様子を動画にてご紹介できることになりました! ぜひ、達人が日本刀を作っていく貴重な映像を ご覧ください。
湊町を、33年間盛り上げてくれていた人形劇サークル「ぴっころ」が この度、解散することとなりました。 湊町だけでなく、たくさんの子供達を笑顔にしてくれたぴっころのメンバーのみなさん、 長い間本当にお疲れ様でした。 そして、ありがとうございました。 今回の解散について、 ぴっころのメンバーの皆さんから挨拶がありますので、 ぜひ動画をご覧ください。 動画では伝えきれなかった言葉を、 こちらに記載しておきます。 <メンバー 星洋子さんより> 33年間、毎年新しい演目
これは昔話っつうよりも、「大正五年」のごどつて伝わってる話なんだげんじょも、湊村の笹山(ささやま)で十一月八日のお八日(ようか)様(さま)の御馳走(ごっつぉ※)買いに、仲間で若松(わかまつ)さ行っての帰り、日が短ぇんで強清水でとっぷり暮れっちまったんだど。んだげんじょ、腹がへったんで茶屋で一杯(いっぺえ※)飲み、名物の蕎麦(そば)ぁすすってがら帰ぇりがげだんだど。もう辺りはすっかり暗ぐなってだ。 やがで笹山(ささやま)原(はら)に差し掛がっと、何じょしたごどが仲間の次郎衆
昔、湊の原村(はらむら)にあんまり心根の良くねえ馬方(うまかた)がいだ。 欲ばりで乱暴なこの男は、馬さ餌もろぐにくんにぇで、昼も夜も駄賃取りにこぎ使ってだ。 貧乏していでそうまでしねぇでは暮らさんにぇっつうわけでもねえのに、あんまりにも馬の扱(あつけ※)ぇが酷(ひで※)ぇもんだがら、村の者は誰(だ※)ちぇもこの男のごど良ぐ言わねがったそうだ。 ある日のごど、この男が馬ぁ引いで赤井(あかい)村の村はずれにある石橋の際さ来た時、「ひひーん、ひひーん」つて盛んに馬がいなな
会津地方が武士によって支配されるようになったのは一一八九年(文治五年)の佐原(さわら)義連(よしつら)がらど言わっちぇんのは、歴史が好きな人は知ってらんべげんじょ、この義連(よしつら)は源頼朝(みなもとよりとも)の奥州征伐で手柄を立で、その恩賞どして会津の地頭職を与えらっちゃんだ。そして、義連(よしつら)ははじめ三浦氏を名乗ってだんだげんじょ、後に佐原ど称し、義連(よしつら)がら数えて三代目の光盛(みつもり)の時に蘆名(あしな)氏ど称するようになった。会津蘆名(あしな)氏は、
みなとの田代(たしろ)の奥にあるナミ瀧にこんなおっかねえ話があんだよー ざーっと昔、大昔、原の村から一里ほど離れたところにある村の話で、布引山(ぬのびきやま)から流れてくる川がちょうどこの村のあたりでストンと落ちて、でっかい瀧になっていたんだと 昔からこの瀧つぼには年老いた雄亀が住みついているって云われて、村人はめったに近づかなかったが、ある暑い夏の日に野良仕事につかれた六兵衛と云う男がおっかあと赤ん坊と一緒に涼みに来たんだと、 さすがに瀧つぼのあたりは涼しくて、六(
昔、西田(にした)面(づら)の白旗(しらはら)八幡宮(はちまんぐう)から西へ、背炙(せあぶ)り峠にかかる手前の源氏(げんじ)屋敷(やしき)跡(あと)を沢に沿って入るほどに、擂鉢(すりばち)沼のほとりに着く。 この沼は八幡(はちまん)太郎(たろう)が屯田兵(とんでんへい)の村を作った時の用水池で浅瀬がなく、擂鉢(すりばち)のように切り立って、中央の底がなんぼう深いかわからないといわれている。 沼の落ち口にある古い笠松からの眺めは、四季それぞれの風情(ふぜい)を見せて、
むかしなあ 湊でもさつき始まっと 何でかんでどぶろく作ったもんだ 苗取様(なえとりさま)は 雨が降っても槍が降っても飯前から苗代(なあしろ※)さ入って苗取りしんなんねえ 苗代(なあしろ※)は深ぐって体も冷えっから 何でかんで朝飯前から酒飲まねえどしょうがねがったと そんじえ五月にはどぶろく作ってただ んだげんじょあの頃はどぶろくつくってなんねべした んじゃから村さ酒造官(しゅぞうかん)入ったつうどな 一番早く気付いた人が太鼓ぶっだど ドンドコ ドンドコ ドンドコ
むがぁし昔のごった。 原の村西(むらにし)がら赤井(あかい)谷地(やじ)の北まで細長え湖があってな、これを上ノ湖(かみのうみ)ど呼んでだんだど。それがらもう一づ、今の猪苗代(いなわしろ)湖(こ)さつながる崎川(さっか)の辺りを中ノ湖(なかのうみ)ど呼んで、二っつの湖を隔ででる山々んどごを合いの山って言(づ※)ってだんだど。オラが子めらん時のごど思い出してみっと、田んぼが基盤整備される前は、湊はどごもかしこも谷地(やじ)っ田ばっかだったがら、上ノ湖(かみのうみ)、中ノ湖(なか
湊地区縁結び支援事業というのが令和2年に発足され、 湊町の独身者に対してアンケート調査の実施なども行い、 状況を把握するなどの活動を行ってきました。 今後、どのように湊町の独身者の方々へアプローチし、 交流の場を提供していけば良いのか等・・・たくさんの課題がある中、 縁結び事業で数々の実績を残している【太田コミュニティセンターみらい】へ、今後湊町でキューピット役を務める方々が、視察に行ってきましたので その時の様子をご紹介したいと思います。 喜多方にある【太田コ
湊町の戸ノ口にある「十六橋水門」。 ここは、日本遺産に登録されています。 かつて郡山市は、水不足に悩む、不毛と呼ばれる原野でした。 人々は、遠くの猪苗代湖に水源を求めました。 それが、安積疏水です。 奥羽山脈を貫いて全長130㎞の水路を拓きました。当時の国家予算の3分の1を費やす、大事業でした。 安積疏水開削でまず作られたのが、十六橋水門でした。これを作ることで、人間が水を管理できるようになったのです。 当時は、会津方面にのみ流れていた猪苗代湖の水を、郡山方面に