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湊のかたりべ(民話集)

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湊町に語り継がれる民話集です。 「湊かたりべの会」は、失われつつある昔話を保育園や学校で語ることで、 この伝統を後世に伝える役割を担っていきたいと考えています。
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記事一覧

笹(ささ)山原(やまはら)の狐

笹(ささ)山原(やまはら)の狐

これは昔話っつうよりも、「大正五年」のごどつて伝わってる話なんだげんじょも、湊村の笹山(ささやま)で十一月八日のお八日(ようか)様(さま)の御馳走(ごっつぉ※)買いに、仲間で若松(わかまつ)さ行っての帰り、日が短ぇんで強清水でとっぷり暮れっちまったんだど。んだげんじょ、腹がへったんで茶屋で一杯(いっぺえ※)飲み、名物の蕎麦(そば)ぁすすってがら帰ぇりがげだんだど。もう辺りはすっかり暗ぐなってだ。

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原(はら)村(むら)百姓馬の祟(たた)りを受けし事

原(はら)村(むら)百姓馬の祟(たた)りを受けし事

昔、湊の原村(はらむら)にあんまり心根の良くねえ馬方(うまかた)がいだ。

欲ばりで乱暴なこの男は、馬さ餌もろぐにくんにぇで、昼も夜も駄賃取りにこぎ使ってだ。

 貧乏していでそうまでしねぇでは暮らさんにぇっつうわけでもねえのに、あんまりにも馬の扱(あつけ※)ぇが酷(ひで※)ぇもんだがら、村の者は誰(だ※)ちぇもこの男のごど良ぐ言わねがったそうだ。

 ある日のごど、この男が馬ぁ引いで赤井(あかい

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夜泣き石

夜泣き石

会津地方が武士によって支配されるようになったのは一一八九年(文治五年)の佐原(さわら)義連(よしつら)がらど言わっちぇんのは、歴史が好きな人は知ってらんべげんじょ、この義連(よしつら)は源頼朝(みなもとよりとも)の奥州征伐で手柄を立で、その恩賞どして会津の地頭職を与えらっちゃんだ。そして、義連(よしつら)ははじめ三浦氏を名乗ってだんだげんじょ、後に佐原ど称し、義連(よしつら)がら数えて三代目の光盛

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瀧つぼのおばけ

瀧つぼのおばけ

みなとの田代(たしろ)の奥にあるナミ瀧にこんなおっかねえ話があんだよー
 ざーっと昔、大昔、原の村から一里ほど離れたところにある村の話で、布引山(ぬのびきやま)から流れてくる川がちょうどこの村のあたりでストンと落ちて、でっかい瀧になっていたんだと
 昔からこの瀧つぼには年老いた雄亀が住みついているって云われて、村人はめったに近づかなかったが、ある暑い夏の日に野良仕事につかれた六兵衛と云う男がおっか

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擂鉢(すりばち)沼(ぬま)の主

擂鉢(すりばち)沼(ぬま)の主

 昔、西田(にした)面(づら)の白旗(しらはら)八幡宮(はちまんぐう)から西へ、背炙(せあぶ)り峠にかかる手前の源氏(げんじ)屋敷(やしき)跡(あと)を沢に沿って入るほどに、擂鉢(すりばち)沼のほとりに着く。

 この沼は八幡(はちまん)太郎(たろう)が屯田兵(とんでんへい)の村を作った時の用水池で浅瀬がなく、擂鉢(すりばち)のように切り立って、中央の底がなんぼう深いかわからないといわれている。

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竹は酒 どぶろく改め

竹は酒 どぶろく改め

むかしなあ 湊でもさつき始まっと 何でかんでどぶろく作ったもんだ
 苗取様(なえとりさま)は 雨が降っても槍が降っても飯前から苗代(なあしろ※)さ入って苗取りしんなんねえ 苗代(なあしろ※)は深ぐって体も冷えっから 何でかんで朝飯前から酒飲まねえどしょうがねがったと
 そんじえ五月にはどぶろく作ってただ
 んだげんじょあの頃はどぶろくつくってなんねべした
 んじゃから村さ酒造官(しゅぞうかん)入っ

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恋が崎伝説

恋が崎伝説

むがぁし昔のごった。
 原の村西(むらにし)がら赤井(あかい)谷地(やじ)の北まで細長え湖があってな、これを上ノ湖(かみのうみ)ど呼んでだんだど。それがらもう一づ、今の猪苗代(いなわしろ)湖(こ)さつながる崎川(さっか)の辺りを中ノ湖(なかのうみ)ど呼んで、二っつの湖を隔ででる山々んどごを合いの山って言(づ※)ってだんだど。オラが子めらん時のごど思い出してみっと、田んぼが基盤整備される前は、湊はど

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