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33歳、東京から三島への移住を決めた。

東京から離れ、縁もゆかりもない静岡県三島市へ引っ越すことを決めた。

大学入学で福岡から上京し、14年間東京(と神奈川)で暮らしたけど、いよいよ今月、東京から離れて暮らしてみることにした。

リモートワークにより「東京で働きながら、東京から離れて暮らす」を検討し始めた人は増えていると思う。

私は2年前から働き方と生き方を自分なりに選択し始めて、今回ついに移住を決めた。

これまで何度も引っ越しを重ねてきたけど、東京を離れることはこんなにも感慨深いのか。と荷造りするよりも東京の思い出を書き残したくなってしまった。段ボールの束はもう届いてるのに。

今日、33歳の誕生日なのだけど、なんにも予定がなくなったので、東京で過ごした日々を振り返ってみる。

33歳の半生。お付き合いください。

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上京してから14年間で住んだ、7つの街。

2006年、18歳の時に一人暮らしをスタートさせ、その時には既に4回目の引っ越しだった。親の仕事で転勤族だったので、海外も含めて転々としてきた。

なので、引っ越しには慣れているほうだと思う。

ずっと育ってきた家も特にないので、どこかに永住するという感覚がそもそも無くて、その時々に住みたい場所に住むという生き方がベースにあるのだと思う。

それにしても、
本当に色んな街で、
色んな経験をしてきた。

かっこよく言うと「住む街とともに、人生のフェーズが変わってきた」みたいなことが言えるんじゃないかと思う。

福岡から、上京。

私が通っていた高校は、福岡県内の大学への進学が9割の、中の上レベルの進学校だった。

当時はスマホも無かったし、ITリテラシーも皆無で、欲しい情報は自分で探しにいくという発想もなかった。なので、学校で立教と青学の大学案内のVTRをたまたま見せられて、青学に決めた。

この決断が人生を大きく変えるのだから、面白いというか恐ろしいと言うか…それくらい目の前に現れた選択肢の中でぽろっと決めた進路だった。

「滑り止めでもいいから県内の大学を受けてほしい」と最後まで私を説得しようとした母を完全に無視して、東京の大学だけを受験した。

青学からの補欠合格の知らせを受け取った時には、母と2人で泣いた。一緒に喜んでくれたあの時の母はどんな気持ちだったのか、私も親になればわかるだろうか。

2006年の春。
晴れて上京することになった。

初めての一人暮らし、淵野辺。

最初は大学近くの、神奈川県の「淵野辺」駅。

まさか青学に入ったのにキャンパスが渋谷じゃないなんて、直前まで気付かなかったというのはほんとにほんとの話。

今思うと驚きだけど、高校の先生の多くが「MARCH」すら知らなかったので、東京の大学のキャンパスが神奈川にもあるなんて誰も教えてくれなかった。

物心ついた頃から海に囲まれて育ってきて、海が好きだったので、初めての自分だけの家でこだわったのは、サーフブランドROXYのシーツだった。

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海からは遠かったけど、どうしてもマリンスポーツがしたくてウィンドサーフィンサークルにも入り、毎週末鎌倉まで通った。

鎌倉から淵野辺まで帰る長い電車の帰り道も、サークルの同期や先輩と、日焼けで火照った体に眠い目をこすりながら語り合って過ごした。

サークルのみんなでタコパをしたくらいしか思い出が無い狭いワンルームだったけど、夜な夜な大騒ぎしても誰にも文句を言われなかったのは、周りに学生しか住んでいなかったからだと思う。

人生初のアルバイトもはじめて、その居酒屋も名前に"海"がついていたから決めたんだった。笑 

店に置いてあった『できる人とできない人の小さな違い』という店長お気に入りの本で、初めて自己啓発というものも知った。

自分のマインドや性格を自分で認識し、変えることが出来ると知って衝撃を受けた。

基本的に根暗でネガティブで、真面目だけが取り柄で生きてきた面白くない人間だったけど、東京に出たかったのは、そんな自分を変えたいからでもあった。

ウィンドサーフィンと大学生活を通して、自分を変え、新しい世界で「なりたい自分」になってみたいと思った。

海、海、海、の鎌倉ライフ。

入学後間もなくウィンドサーフィンにどっぷりはまってしまい、大学2年生の春に、海から徒歩3分の「鎌倉」駅の材木座へ引っ越した。

引っ越したい!と思った時に、はじめて賃貸契約が一般的に2年間であることを知り、母にお願いしたら『キャンパスが変わるまでは我慢してほしい』と言われた。そうだよなと思った。

だけど当時、ウィンドサーフィンで学生日本一を目指したいという目標が芽生えてしまい、夢の青学キャンパスライフのすべてを捨てて熱中していた。

『日本一になるために、1日でも多く海に出て練習したい』と懇願し、親に諦めてもらい、鎌倉に引っ越した。

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2007年当時、鎌倉は今よりもっとヨソモノに厳しかった。景観の関係で大きなマンションも建てられないし、物件は少ないのに今も昔も人気エリアなので、学生も住めるような手頃な家賃で綺麗な良い物件というのは、当時なかなか無かった。

私がなんとか選べたのは、駅から徒歩25分、海から徒歩3分の、8.5畳和室、築48年の木造アパートだった。

隣人は、目の不自由な白杖の老人男性だった。

木造なので生活音も丸聞こえだったのだけど、彼の生活はいつもとても静かだった。

サングラスをして杖をついてゆっくりと歩く目の不自由な彼に、真っ黒に日焼けした金髪の女子大生は見えていなかったと思う。きっと。

当時付き合っていた彼と半同棲で、海か学校かバイト、寝るために帰るだけ。そんな隣人を、彼はどんな人間だと思っていたのだろうか。

その老人とほとんど会うことはなかったけれど、一度、彼が2階の階段から転げ落ちてしまったことがあり、大きな音に驚いて駆けつけた時には、階段の下で人が倒れていて動かない様子を見て、怖くて心臓が止まりそうになった。

駆け寄り「大丈夫ですか?!!」と声をかけると、特に流血なども無さそうで、なんとか立ち上がることが出来て、すぐに彼はタクシーで病院に向かった。当時の自分には、付き添う勇気はなかった。

私が引っ越すときにも彼はまだそこに住んでいた。でも、数年前にそのアパートは取り壊されてしまって今はもう無い。まだ鎌倉で元気に暮らしているのだろうか。

鎌倉でのアルバイトは、国道134号線沿いのトラジと、今はなき鎌倉デニーズ。

トラジでは、湘南店としてのこだわりで、店長セレクトのサザンの曲がエンドレスで流れていた。

おかげで一度はサザンが嫌いになり、一週回って大好きになった。笑 今でもサザンは大好き。

当時私はホール担当で、キッチンでいつも美味しいまかないを作ってくれたかっちゃんは、当時の夢を叶えて、今は湘南の海を描くアーティストとして生計を立てていることはすごく感慨深い。彼の描く湘南の風景は大好きで、富士山がうっすらと見える"材木座の朝焼け"を我が家にも飾っている。

トラジでは、ウィンドサーフィンの先輩と同期も一緒に働いていて、夏になると大会や遠征で誰もシフトに入れなくなるので、かなり店を困らせていたと思う。

だけど、『頑張れよ!』といつも寛大にウィンドサーファーの私達を全力で応援してくれた当時の店長は、今では独立して自分の焼き肉店を開いている。

みんな、それぞれの道を少しずつ前に進んでいる。

ウィンドサーフィン漬けの日々だったけれど、湘南新宿ラインで渋谷のキャンパスまで一応通っていた。

大会も多く、浜名湖、沼津、蒲郡、新舞子、鳥取、琵琶湖と、年間2か月半くらいは車に道具を積み込んで、地方に遠征していたと思う。

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目指すは、毎年11月の沖縄での全国大会だった。

沖縄には、結局3回行くことが出来た。

おかげでかなりの貧乏学生で、新品のネジやビーサン、日焼け止めを買って喜ぶような大学生だった。

なので、渋谷で遊んだ記憶はほとんど無い。
渋谷はいつも工事中で、何かを建設中の殺風景な風景しか記憶にないほど、授業が終わるとすぐに帰り、海で過ごした日々だった。

卒業後、通学路の工事現場には渋谷ヒカリエが出来た。

大学4年間、青学生として表参道でマカロンの新作を楽しみにネイルを煌めかせるような、華の女子大生ライフは全て捨て、鎌倉で真っ黒に焦げて手のひらをマメだらけにして、砂だらけになりながら青春を謳歌し、大学日本一を目指した。

結果は、2年連続個人3位で終わった。

表彰台の1位と2位に立つ同期たちに「勝てる!」と心から思えたことは無かったかもしれない。

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でも、一緒に表彰台に立ったその2人は、オリンピック強化選手と、オリンピック選手になった。彼女達のその後の努力のおかげで、私のやるせない3位は"一生誇れる3位"になったのだ。

2回も彼女たちと並び、表彰台に上がれたことは、人生で最も誇りに思えることのひとつだ。

最後まで2人のライバルにはなれなかったけど、圧倒的に強すぎた2人のおかげでスパッと気持ちを切り替えて、私は迷わず社会へ出ることにした。

就職と同時に、戸塚の寮へ。

その後、私はシステムエンジニアになった。
就職と同時にいよいよ東京生活!

にはならず、神奈川県「戸塚」駅の会社の寮へ入った。

まだ遠い東京ライフ。
線路沿い、約5畳の狭いマンション。

同期と時々話すことはあったけど、みんな帰る時間もバラバラで、あまり交流も出来なかった。

夜な夜な貨物列車が走って騒音もひどかったけど、初めての社会人生活と東海道線での通勤にだいぶ疲れていたので、ただただ帰って寝るだけの日々だった。

東京満喫!初台へ。

確か、1年も経たずに狭い寮を出て京王線「初台」駅へ引っ越した。

新宿、渋谷、六本木、品川、恵比寿、、、と、ようやく「東京で暮らし、東京で働き、東京で遊ぶ!」を満喫し始めたのはここから。

東日本大震災が起きたのもこの頃だった。

当時、調布で働いていて、会社の先輩と一緒に甲州街道を3時間半くらいかけて歩いて帰ったのを思い出した。あの時の記憶はあまりない。

日常が戻ってきてからは、原宿のゴールドジムや、表参道のエステに通ったり、街コンに繰り出したり、当時はランニングにハマっていて、初台から東京駅やスカイツリーまで走ってみたこともあった。

東京の街を走ると、路線図の駅名で区切られていた街がゆるやかに繋がっていった。その頃から、都内で1駅2駅はよく歩くようになった。

福岡を離れて6年目でようやく東京を楽しみ始めたし、親友も近所に引っ越してきて、2人で終電を越えて新宿で飲み、恋愛話をしながら歩いて帰宅するようなこともあった。

真夜中に、別れた元カレから『新宿で友達と飲んでる』と呼び出されたこともあったっけ。

突然フラれて、まだ気持ちを引きずっていた私は、もうヨリが戻ることも無ければ、たとえ戻っても幸せになれないこともわかっているのに、真夜中に男に呼び出されて新宿へタクシーを飛ばすようなダメな女で

聞かなくてもいいことを聞いて、受けなくてもよかったダメージを受け、結果的に傷をただグリグリえぐっただけで、夜中の3時に駅前のGAPの前にふさぎこんで大泣きした忘れられない夜になった。

しかもその夜は猛烈などしゃぶりだった。

雨の音のほうが大きいくらいだったけど、悔しくて悲しくてやるせなくて、なりふり構わず大泣きした。

スマホを握りしめて、こんな夜中だし出るはずないよね、、と思いながら電話をかけた親友が、電話に出てくれて、さらに泣いた。日本語にならないくらい泣いた。

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傘も持たず、午前3時に濡れながら嗚咽している20代の女のこを誰も気にも止めないほど、新宿は冷たかった。

とも言えるけど、新宿の懐は広いと思えた。
思う存分泣かせてくれた。

今思うと、あのぐっしゃぐしゃな大雨と大泣きのおかげで、引きずっていた元カレをふっ切ることができたような気もする。

初台ライフは、新宿を拠点に東京の色んな面を知り、刺激的な日々だった。

だけど、自宅に警察を呼ぶほどの事件が起こり、再び引っ越すことになってしまった。

代々木警察署の対応は忘れられない。当時はまだ若くて自分が悪いのだと自分を責めたけど、今なら警察署で一発殴ってるかな。。。いや、出来ないか。

眩しいネオンでよく見えてなかっただけで、この時初めて、東京を知った気がした。東京の怖さを知った。

静かな西大井から、日本中を飛び回る。

事件の後すぐに引っ越し先を探した。新宿近くの東京満喫ライフから、治安の良い静かな住宅街を求め、海に通いなれた横須賀線の「西大井」駅へ引っ越した。

25~6歳のこの頃は、本当にエネルギーとバイタリティーに溢れていて、仕事も恋愛もしながら、全力で遊びつつ、3か月でTOEICを200点UPさせるくらいには勉強もして、転職も決まった。

東京もまだまだ探検している途中だったけれど、羽田から日本中を転々とする日々になった。

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北海道から沖縄まで、四国や仙台、富山や鹿児島には生まれて初めて訪れたし、秋田で日本酒に感動して大好きになり、紅葉に染まる松山城の美しさに惚れて、南から北へ桜を追いかけ、日本のお城を巡るようになったりした。

お気に入りの場所が日本中に出来た。

ただ、土日休みではなくなったので友達と遊ぶことも難しくなり、仕事も毎日覚えることばかりで必死だったので、休日は品川のカフェで、数時間黙々と仕事の勉強をするような生活になった。

常連になった品川のカフェでは、私がいつも勉強を仕事だと言うので、なぜか『教員』だと勘違いされ、店長から『先生』と呼ばれ、アイスをサービスしてもらえるようになった。

この頃から婚活も始めて、色んな出会いを求めるうちに、当時好きだった人をきっかけに「ソーシャル」な世界の人達に出会う。

NPOだとか、その他の団体やプロジェクトなどで、仕事以外で世の中の課題に対してアクションするような、社会活動をしている人達だ。

世の中には、あの3.11をきっかけに何かを始めた人達も多いということを初めて知った。

そんな出会いをきっかけに、東京で消費活動をして遊び倒すことに少しずつ飽きていたことにも気付き、大袈裟に言うと、仕事以外でも世の中に何か価値を生み出してみたいと思うようになり「2枚目の名刺」を持って活動するようになった。

休みの日に、ボランティアでイベントのお手伝いやミーティングに参加したりして、仕事以外で社会と繋がり、アクションするということをスタートした。

そんな忙しい日々の中、
また引っ越すことになった。

西大井のマンションに決めるときに、治安の心配から、不動産会社へ『このマンションにはどういう人が住んでるんですか?』と聞いていた。

もちろん個人情報だから今の住人については答えてもらえなかったけど、『このお部屋は、良い気が流れているのか、ご結婚で退去される人が多いんです』と言われていたのだけど、不思議なことに私もそうなったのだ。

27歳の時だった。

水天宮前から、世界中へ。

そして、半蔵門線「水天宮前」駅近くのマンションでの2人暮らしへ。

この頃には、成田空港へも通うようになり、今度は世界を転々とするようになった。

幼い頃に住んでいたインドネシアのジャカルタへ、20数年ぶりに降り立った時には、なんとも言えない感動があった。

中国、韓国、タイ、マレーシア、シンガポールなどのアジアから、オーストラリア、ドイツ、イギリス、ハワイなどなど、アメリカ本土も、ニューヨーク、シカゴ、ワシントン、サンフランシスコ、ロサンゼルス、、、と、とにかくあちこちへ飛び回る目まぐるしい日々になった。

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羽田・成田の両方へアクセスも良く、通勤ストレスはかなり減ったけど、とにかくハードな仕事で、休日は疲れ果てて家で寝て過ごすようになった。

たまに出掛けても、平日の東京、銀座、日本橋エリアを散歩したり、六本木のスタバで相変わらず勉強をしたりと、ゆったりと少しだけ大人びた東京を楽しんだ。

GINZA SIXが出来てからはスタバはそっちへ行くようになり、東京の東エリアからなかなか出なくなった。

仕事は毎日本当に充実していて、アドレナリンが足りないくらい日々刺激的だったけれど、緊張感溢れる毎日に疲れが溜まっていった。

友人ともなかなか会わなくなり、
社外活動もフェイドアウトした。

仕事と休日のエネルギーの落差も大きすぎて、あちこちの時差で眠れなくなり、体調を崩して、とうとう鬱状態になった。会社もしばらく休んだ。

そして、自分の人生においての幸せが何なのか、もう一度改めて考えてしまうくらいにまで落ち込んだ。

心も体も時間も、
何にそれを割くか、
バランスが大切だと知った。

仕事も結婚生活も終えるという大きすぎる決断をしたのは、31歳の誕生日を迎える前だった。

周りでは、次々に出産する同級生や後輩たち、2人目出産も増えていたし、念願叶って結婚する友人達もいた。

そんな中で1人に戻ることは、一生1人でいる覚悟を持って決めたことだった。

浜町で、一人で生きるをリスタート。

そんなこんなも全部包み隠さず伝えながら転職活動をして、拾ってもらえるベンチャー企業への転職が決まった。

東京の東エリアは気に入っていたので、水天宮前から近い都営新宿線「浜町」駅近くのマンションへ引っ越した。

また、一人暮らしと、新入社員に戻った。

もう一度、「自分一人で生きていく」と覚悟を決めたからには、きちんと稼いで社会で自分を試さなければとベンチャーに飛び込み、がむしゃらに働きつづけた。

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もう、何かがプツリと切れるようなことにならないように、大好きで大切なものまで手放してしまうほど限界まで振り切ることがないように、心も体も時間も、バランスを取れるようになりたいと思った。

そして、2019年。
正社員から契約社員へ変更してもらった。

契約社員の週休3日に

正直、いつ潰れても仕方がないと思えるくらいの覚悟がなければ、大企業からベンチャー企業への転職なんて決められなかった。なので、別に正社員であろうと契約社員であろうと、保証される内容にそんなに関心は無かった。

それよりも、日々大切なことを大切に出来るような心の余裕を持って、好きなことを好きなまま続けられるような生活を送りたいと思った。

そこで、週休3日を希望したところ、契約社員でしかそれが叶えられなかったので、自ら選んだ。

契約社員になって失う社会的信用や保証よりも、自由や余白を選んだ。結局、今のところ契約社員だからといって失ったと感じるものは無い。

そんな週休3日生活を約1年続けて、やっぱり生まれた心のゆとりと、時間の余白によって、日々の生活が豊かになってきた。

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たった1日生まれただけで、そこに収まらないくらいに、やりたいことがどんどん溢れてきた。

新しい社外活動もスタートさせた。
それまでの活動も辞めずになんとか続けられている。

noteでの文章も沢山書くようになった。
こんなに沢山の映画を人生で初めて見ている。

新しいパートナーも出来て、大切な人との時間を大切にしようという思いも忘れずに、日々過ごしている。

そんな中で、新型コロナがあっという間に広がり、ついに東京から離れてみようと思った。

豊かな暮らしのために、三島へ。

新しいパートナーが、付き合って間もなく一人で三島へ移住した。なので私も月に1度程度三島へ通うようになった。

それまでは、海が好きなので、東京を離れるなら鎌倉や逗子、三浦海岸近くも良さそうだし、茅ケ崎や鵠沼だとサーフィン後に出勤も出来るしなぁと、海を中心に妄想を膨らませていた。

親友が引っ越した逗子へ心が揺らいだりもした。
静岡は考えたこともなかった。

ただ、三島に通ううちに、徐々に魅力を感じはじめた。

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新幹線を降りてからの空気が違う。

駅前はほどよく賑わい、閑散とした寂しさは全く無くて、子供たちが水辺で遊び、天気のいい日には富士山が見える。

美味しい飲食店は沢山あるし、水がとにかく綺麗で、街中を流れる河では蛍まで見れる。

家賃は東京よりも安いので広い家に住めるし、
そしてなぜか天気は晴れが多い。

何よりも、"人"がとても良かった。

外からの移住者にオープンで、フレンドリーな人達と、沢山知り合うことが出来た。

自然とともに四季を感じ
広い家で映画や料理を楽しみ
川沿いを散歩して夕涼みをして
地域の人と地域のお祭りを盛り上げる

そんな生活を想像出来た。
ここなら住めそうだと思えた。

三島に通うようになってから、料理も、絵を描くことも始めたし、電子ピアノのキーボードを買って弾くようにもなった。

文化的な豊かな生活というものがそこにあった。
豊かとはこういうことか、と思った。

コロナの自粛期間もあいまって「あぁ、こういう暮らしをもっとしていきたい」と思うようになった。

新幹線通勤は想像以上に快適で、週4日なら通えそうだと感じたことも大きかった。欲を言えば、臨時で導入したリモートワークが正式に制度化されれば、なお嬉しい。

これからも、試行錯誤。

一度結婚生活を経験した教訓として、一番大事にしたいことは「日々の暮らし」だということを忘れないようにしている。

大切な人と、日常の中に幸せを感じながら生きることが如何に尊いかを、いつも言い聞かせてる。

好きなことをしてよく働き、
美味しいご飯を食べて、
談笑しながらお酒を飲んで、
休日はワクワクすることをして、
色んな場所に行き、
夜は静かにゆっくり寝る。

そういう毎日の営みを、しっかりと大切に味わって過ごしたい。

そう思った時に、大好きな東京から離れてみようと思った。

色んな決断を重ねる度に、"人と違う選択"をすることが以前よりも怖くなくなった。

「東京からの移住」は、2年前にリスタートした時の人生の大きな決断を、後悔にしないための選択のひとつ。

結婚生活を終えることも、大好きな仕事を辞めることも、最後は自分で納得して決めたこと。
それまでの選択も全て、自分の選択。

だからこれからも、色んな過去をひっくるめて自分の人生を愛せるように、自分で未来を選んで、つくっていきたい。

沢山のことを経験させてくれた東京での暮らしはこれでいったん終わり。でも、これからも新幹線で通いながら、少し距離を置いて、東京を楽しもうと思う。

33歳も日々大切に、
沢山の経験と周りの人に感謝したい。

この記事を書いた33歳の誕生日から3年。
つい先日、36歳の誕生日を迎えました。

三島に移住して、アフターコロナという新しい日常の中で、戦争が起こったり、AIが身近になったり、世の中は相変わらず想像もしなかった未来を現実にしながら、めまぐるしく変化し続けている。

東京のカオスに揉まれ、振り落とされないように必死にしがみついていた私は、三島で移住や観光をPRするアンバサダーになり、一児の母になった。

東京には、今でも仕事で時々行くのだけど、東京も、私も、お互いにすっかり変わってしまって、まるで初めましてみたいに行儀がいい。

自分で出ていったくせに少し寂しい気もするのは、身勝手だろうか。

静岡県三島市生まれの我が子もいつか、東京に出ていくと言うのかな。その時が来たら、またその懐の広さで、多くのものを与えてあげてほしい。

そんな風に思えるくらいには、
強くて優しい母になりたい。





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