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左側マンの松葉杖生活。経過観察56日目(手術後26日目)

左側マンの松葉杖生活~怪我人のライフスタイル~手術後23日
みのってぃ。チャンネル更新しましたので是非ご視聴くださいませ。

#Youtube #みのってぃ #松葉杖生活 #DIY #リハビリ生活

本日の右膝

直立で撮ってみた

なるほど。直立で撮影して正面から見ると全く違う。
だいぶ筋もくぼみも出てきたけど、確かにこれは8カ月くらいかかるのもうなずける。本当に普段の過ごし方がカギになるのがわかる。
食事、睡眠、リハビリ、トレーニングすべて出来ることに力を注いで休息とのバランスを整える。
ちなみにこの状態での痛みは少し感じる。半月板の外側の痛みだが気にするほどでも無いだろう。加重50%も全く痛みが無い。
来週のMRIの結果が楽しみである。吉報(問題なし)を待とう。


『多様性』

本日は多様性についての内容である。
もう大人気のフレーズだ。まさにトレンド。
あまりにも取り沙汰されすぎて違和感を覚えるフレーズは、”あのウィルス”を筆頭にたくさん出てきた。多様性もその一つである。

そもそも多様性とはなんなのか。

幅広く性質の異なる群が存在すること。 性質に類似のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。

wikipediaより

世の中には膨大な種類の人間がいるということで良いのか。
あまり釈然としないで自分で解釈するしかない。
では、ここ近年で『多様性が認められてきた』という最も私が違和感を抱く言葉を少し調べてみよう。
まずは『なぜ多様性が必要なのか』という点だ。

人種や身体の特徴、感じ方や考え方、そして得意、不得意。 これらがみな異なるからこそ、私たちは互いに助け合うことができ、新しいアイデアを生み出すことができ、結果的に種として繁栄することができる。 つまり、私たちひとりひとりの多様さは、この社会全体にとって、必ず意味があり、不可欠なものだ。

IDEAS FOR GOODより

こんな文献がトップ記事に上がってくる。
驚いた。これが今まで社会的に見て認められてこなかったってことでなのか。
私が違和感を感じていた理由はこれだ。
これ当たり前のことなんじゃないんですか?

#多様性を考える


なぜ多様性が認められてこなかったのか。

いやそれは違う。多様性が認められてきた環境も必ずある。
多様性を調べてみると、個性という意味がなんなのかもハッキリさせたいと思い改めて調べてみた。

個性とは・・・個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴。

とある。
多様性というのは、個性を認めるという解釈としておこう。
そういった意味にすると、確かに多様性が認められてきたとは言えないのかもしれない。学校教育がそうだからだ。
高校卒業のタイミングで『教員免許取っておけ』とアドバイスを受けたが、素直に教員の道に進まなくて良かったと心底思う。この環境でもし教員になってたら耐え難い環境に屈していただろう。
私はその子が持つ個性を長所だというのを前提として捉えていきたいが、自分が教員となるならそうもいかないからだ。同調圧力を求める学校内で、仮にその個性が輝かしいものだと自分が感じたとしても、『みんなと協力しようね、同じことやろうね』と言わざるを得ないからだ。これを協調性と感じてしまう人とは、おそらく馬が合わない。

だがそうじゃない教育現場も、きっと増えつつあるのではと思う。
この場合は必ずしも教育現場で無くて良い。
学校で子供が同調圧力を本能的に感じているのならば、別の環境でそれらを育めばよい。放課後の遊びだって良いし、スポーツクラブだっていい、帰宅してから家族で過ごす時間など、教育現場にいない大人たちがそれらの環境で子供たちに手を差し伸べれば良い。


今でも覚えている

小学校の授業で書道をやってきた人も多いだろう。
私にとって忘れられない記憶がある。小3から小4へ進級する時に春休みに出た書道の課題を、休み明けに教室の後ろの壁に全員分貼っていくのだが、当時の担任に
『みのってぃ。くんの字は私の言われたこと守れてないね。』
と言われたのだ。
当時の私はもう心底『え?そう?特にみんなの字と見栄え変わらないし、ななんらちょっと上手く書けたと思ったけど。』と強く感じていた。
癖のある先生だったので、何か主張するとすぐ『あーいえばこういう』で返してくれる先生だったので子供ながらに『めんどくさい人だな』と思っていた。
だがその私の作品はその年に『銅賞』を取った記憶がある。
『それみたことか』なんて思わなかった。嬉しくもなかった。ただひたすら

『あの先生は何でああいう評価をしたのか』

と疑問だけが残った。
私は書道の階級も持っていないし、人並みの字で書けてたくらいなのでマグレの銅賞だったことは間違いない。みんな努力して一生懸命、学校側が課題として出したものに取り組んで提出してきたものを『自分の意にそぐわない』からといって否定的なコメントを出してくるのだろう。
教員側にも一定数、そういった人達がまだまだいる。学校側の問題ないだけでなく、その教員の本質的な部分にも大いに問題があるのだろう。


本当に多様性が認められているのか?

多様性が認められる時代。
多様性を認めなければならない時代。
もうそんなフレーズにはうんざりしている。
メディアが騒いでいる。
政治家たちが口を揃えて言う。

今頃ですか。
違うでしょ。多様性を認めてしまったら統制を乱すからでしょう。
そんな時代が長く続いた。

だから正直言って
多様性が認められる時代』が存在しているとは思えない。
存在しているのは『多様性が認められている環境がある』というのと、『その環境に問題なく溶け込める人達』である。
真逆の人もまだまだいる。
そうでなかったら、あらゆる誹謗中傷やイジメなんて存在しない。
日本だけでなく各国には歴史背景がある。人種差別も無くそうとしても、イジメ撲滅も、天下りも無くなる気がしない、それを無くしていこう本気で行動している人達は淘汰されていっているからだ。これで多様性を認めましょう?
嘘を付くな。


受け入れる覚悟

ちなみに私は多様性を認めることに関しては肯定的だ。
そもそも多様性が認められていないこと自体に疑問を持っている。

私が高校入学一年目、サッカー部に入部して寮生としての活動が始まってすぐの4月から一ヶ月ほど、同学年の寮内で軽度のイジメ(当時は省きという言葉があった)を受けた。

特別暴力を受けたわけでないが、ほぼ無視され続け、寮の食事の時も一人だった。

これも今までブログなんかに散々書いてきたのだが、当時は

『スポーツ推薦で入学させてもらっているし辞めるわけにはいかない。いつかこれも終わるだろうし、絶対負けてたくない』と必死に耐えた。と同時に、中学時代にも色んな人に迷惑かけたり女子にいじわるしてみたりして学校側から説教されたという過去もあるので『そのツケが今回ってきてるんだな』と高校生ながらに思っていた。

結局これは寮にいた先輩方のおかげで解決されたのだが、あとで同学年の奴らになぜ自分を省いていたのかを聞いてみたことがある

すると

なんか気持ち悪かったから』

これが理由だった。

正直に言った。

えー!?なにそれ!?

俺の姿はみんなから『気持ち悪く映っていたのか』

衝撃すぎて笑うしかなかった。

ちなみに今ではその当事者たちと連絡を取ることはほぼ無いのだが、もし何か連絡が来ても特別な感情もなくコミュニケーションは取るようにしている。

『気持ち悪かった』と言われても、『なんだそんなことだったのか』と何故だが受け入れたし、どちらかというとそんなことでイジメ期間が終わって『ホッとした』方が強かったので、どうでもよかったからだ。
今更『あのときの仕打ち忘れねえぞ』というのも可笑しな話で、自分にも少なからず落ち度があった可能性があるんだからそうなったわけだ。

おそらくこれから同じような経験をする若い子たちもいるかもしれない。

これは不可抗力だ。君が思う自分の長所や個性は環境次第で淘汰される。

まだまだそんな時代は続くので、そうなった時に受け入れる覚悟を持っていた方が良い。
多様性を認めるということは、必ずしも自身がみんなに認められるという意味をなさない。そうじゃなかったから誹謗中傷なんて起きやしない。

当時は上下関係を初めて知ったのだが、これもまた疑問だった。
なぜ年齢が1つや2つ違うだけでこんなにも人は変わってしまうのか。
自分語りが過ぎるのでもうエピソードトークはやめておこう。

もしみなさんが本当に『多様性が認められる時代になってきた』と思っているなら期待しない方が良い。
これまでもそれを訴える先人たちはいたが、それを大々的に報じなかったのがメディアだ。我々はそうしてメディアに幾度となく踊らされてきてる。
だがメディアではない現場の人達と触れてきた人達はとっくに気付いている。個性は認められるべきだし多様性なんてのはそもそもあったから。
そりゃ同調しちゃえばラクだろう。
だがそれに嫌悪感を抱く人もいる。
そりゃラクな選択をしない人を煙たがるわけだ。

自分でよく考えて、認知して、判断して、決定していくしかないのだ。

もう一度言います
多様性の認められている時代は存在しません。
多様性を認めてもらえる環境に飛び込む、もしくは自分で創ること。

それが今の社会に順応、対抗するために必要なことです。

ひとつよしなに。


みのってぃ。

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