私たちが気づかずに手に持っている凶器の話【3】



シスヘテロの方や、精神的・肉体的な障害を持っていない人を「普通の人」という言葉で指す人がちょっと苦手だ。




「普通の人」を、「常識的な人」という意味であったり褒め言葉的な使い方をするのは良いことだと思うのだが。
「マジョリティであること」を「普通」と指すのは、なんの罪もない心の綺麗な人を傷つけることにも繋がってしまうんじゃないか?と心配になる。



シスジェンダー・ヘテロセクシュアルであることや何らかのディスオーダーを持っていないことが必ずしも「普通」であるということは無いと思うんだ。



私は過去に、元知人に「(私や他のマイノリティの方と比較した上で)俺は”まとも”な男性なので!」と言われてとても傷ついたことがある。



難しいことなのかもしれないが、なんというか、もう少し言葉を愛して使って欲しかった。



言葉を愛して、大切にして扱って欲しかった。



なぜならば、物理的な武器(刃物や力技など)よりも、よっぽど私たちが一番身近に扱っている武器は、”ことば”であるからだ。



言葉は時にすごく柔らかくて繊細で優しいものになったり、時に何よりも鋭利で相手に致命傷を負わせるものになったりする。



じつは、いつも片手に包丁を持って振り回している状態と何ら変わりなくなってしまったりする。



今一度、誰もに、自分の普段扱っているものの恐ろしさを確認してほしい。
何を選び、何を発したかに、もっと責任を感じて欲しい。
そう思う時もある。



私は、言葉のことを本当に愛してる。
誰かを優しく包み込むようであったり、鋭いナイフのようになってしまったりする自分の所有物を、私は愛するべきだと思い、実際にとても愛している。



でも愛していても、使い方を時には大間違いすることもある。

きっと、愛していても愛していなくても、この所有物の恐ろしさは無くなることがないのだ。



無くしたいと願っていてもそうなるように扱おうとしていても、どうしても棘の抜けない部分があったりと、なんだかとても難しいのだ。



多分いつまでも苦戦し続けるのであろう。自分の一番身近な愛するものを凶器に変えてしまわないように、言葉を想うことは、やめたくはないのだが。



これを読んでくれている方は、普段、あなた自身で、あなたの使う言葉を、愛せていますか?

私は愛しいものに感じる時もあれば、とても悲しいものに感じる時もあります。



私は極端に言えば、言葉を愛している人のことが好きだし、まったく愛していなくて責任の一つも感じることが出来ない人は、嫌いです。



好きだとか嫌いだとか、なんとなくそこまでにはっきりとした物言いをすることを少し避けていた気がするのだけど、これに関してはちょっとはっきり言いたかった。



なんだか今日はそんな気分だった。
不快にさせてしまうようなことがあったら、ごめんなさい。





P.S.
今日まで大好きな漫画を読む気力が生まれなかったのだけど、なんとなく今ひょこっとそれが生まれて「漫画を読みたい!」という気持ちになれたので少し嬉しい。
心理士の課題の提出期限が迫っているから、それもちょっと頑張って着手しないと。
みなさんは、お元気ですか?
また、noteやTwitterにてお会いできたら嬉しいです!



深夜に失礼しました。
おやすみなさい。



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