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連載小説『J-BRIDGE』10.

ガチャガチャと鳴り響いた音に包まれて、からりとした秋風と共に店へ足を踏み入れた明石。見渡すくらいには広さのある店内に人の姿は見えず、薄暗い。泣き疲れたドアベルが静かになると、入れ替わりで無音が鳴り響く。時代に取り残された寂しげな空気が、ふんわりと明石の体を覆った。
「お客さん? ごめんなさい、まだ開いて……」
 バーカウンターを跨いだ先の、ちょうど真ん中辺りにぶら下がったカーテンが横滑りする。リリーがそこにいた。
「こんばんは……」
「……ああ、あのときの子」
 空いた一拍で記憶を遡ったリリーは、先日とは装いが違っていた。彼女の麗しさを際立たせるのに一役買っていたメイク、それに比べれば今の彼女はいささか地味。地味なのだけれど、それが彼女の魅力を損なっていることはない。むしろ、透き通った中に伺えそうな芯の強さが、ひと味違った誘引力を感じさせる。
「明石、明石海です」
「へえ、そんな名前だったんだ」
 名前などさほど気にしていないようなリリーの声。明石自身、名前を名乗ったのが、熊沢に対しても含め今がやっとだったことに気がつく。「それで、働くんだっけ」
「はい」
 明石は自分でも意外なほど素直にそう答えた。
「ならこっちおいで、入ってきて」

「ごめんね、ちょっと散らかってるけど」
 リリーに手招きされてカーテンを通り抜け、三日ぶりにj-bridgeの事務所を訪れた。物の住所がきちんと決まっているその部屋は、リリーのいう「散らかっている」を感じさせない。強いていうなら、明石が先日転がっていたソファーの端にくるまった先ほどまで使われていた様子の毛布と、無骨な灰皿に収まった数本の吸い殻くらいのこと。
「さっきまで寝てたの、どけていいよ」
「寝てたんですか……」
 何故かと聞くことを明石は躊躇った。理由を知ることがより良いことでは無いと、普段は信用していない第六感みたいな感覚が、その瞬間強く働いた気がした。
「ちょっとだけ待ってて」
 ちゃんと申し訳なさそうにそう言ったリリーは、手元にあった鞄からひとつのポーチを取り出す。中から出てきた化粧品の類いが机にいくつか並んだかと思うと、それらを巧みに操り始める。そんな彼女の様子に明石が思い浮かべたのは、ベルトコンベアから次々に流れてくる商品を適切に仕分ける工員の姿。
 卓上の手鏡にリリーが集中しているのをいいことに、明石はその後ろ姿を観察していた。金色をして長く伸びた髪は、まとめられるまでもなくひとつの意志に従うようにまとまりを持ち、しゃんと伸びた背すじを装飾する各部位の丸みは、女性らしさを改めて認識させる。
「なで肩やなあ」
 いったい何と比較してなのかと自問し、一拍遅れてそれが声になっていたことに気がついた明石。手を口元にあてる古典的な動作で取り繕おうとしてみたところで、その手で抑えたかったものはとっくにリリーの鼓膜まで到達している。
「いや別に変な意味じゃなくて……。そう、滑らかだと思っただけなんです」
「ふふっ、何それ」
 明石の豆鉄砲のような援護射撃は、その力を遺憾なく発揮した。ほっと聞こえてきそうな明石の吐息が、緩んだ空気に溶けて混ざり合う。
「……これから海くんって呼ぶね、年はいくつ?」
 メイクを終え、リリーになったリリーが櫛で髪を梳かしながら尋ねる。高校を卒業してから四年と少し、学年によって行動が変わる事も無くなってからしばらく経つと、年齢もその意味を大きく薄れさせる。
 幼い頃に想像していた二十二はもっとはっきりまともだった。定職に何年もつかずふらふらし、挙げ句酔った勢いで絡んだ相手にボロ布のように扱われる。せめて二十歳になりたてなんかであれば、まだなけなしの格好はつくのだろうけれど。
 そう考えたところで積み重ねた時間は歪ませようが無い、その重さがどれほど軽かったとしても。
 そこまで考えたところで、明石は「いや、待てよ」と自分に待ったをかける。会話の歯車がカチリと噛み合うように、世界に後押しされたリリーが言葉を続けた。
「ちなみに私は二十一ね。なんとなく、海くんはひとつ下くらいかと思ってるんだけど」
「そうです」
 明石はそのたった四文字で時空を歪ませた。
「えっ、当たり?」
 髪を梳いていたリリーの手が止まる。
「そうなんですよ、二十と半年ほどです。ええっと……」
「リリーでいいよ。年なんて気にしないで、なんなら敬語じゃなくてもいいし」
 明石の心を見通しているかのようなリリーの言動。咄嗟に口をついた自分の言葉に、明石は軽く感謝した。彼女よりも年を食った人間として傍で働くなんて、きっとどこかで耐えられなくなると。
「それはちょっと……、リリーって呼び捨てるだけで精一杯です」
「ふうん。いい子だね」
 梳いた髪をひとつに束ねたリリーは、年上らしい口調でそう言った。

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