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連載小説『J-BRIDGE』16.

「いらっしゃい」
 無愛想な店主の声がなんとか耳に聞こえる。声のする方を見ても人はおらず不思議に思う明石だったが、隙間から年老いた男性の姿が見えた。腰が曲がりきっているせいで、その姿はまたすぐにカウンターの陰に隠れる。
「あの辺座ろっか」
 リリーが指差した方には、壁に向いてL字のカウンターがあった。全部で七席ほどしかない店内は、明石達の他に客はいない。
「空いてて良かったですね」
 明石にだって、こんなことを言うくらいの気遣いはできる。
「時間帯かな? ちょうどピークが過ぎたくらいのはず。市場って朝早いもん」
 リリーが率先して店の奥に進み、後に続いた明石が隣に腰掛ける。メニュー表が見つからずきょろきょろとする明石に、リリーが焼き肉定食でいいかと声をかけた。
「美味しいよ、おすすめ。……私は飲むけど海くんもいる?」
「えっ……。はい、いただきます」
「わかった。すみませーん!」
 声を張ったリリーが三度呼んで、やっとカウンター内からもそもそと老人がやってきた。
「焼き肉定食二つと、あと瓶ください。グラス二つで」
「あいよ」
 手元のメモ用紙に最小限の動きで注文を書き殴った老人は、近くにあったフリーザーから瓶ビールと栓抜き、小さなグラス二つを手に戻ってきた。それらを無言で二人の傍に置くと、またもそもそとカウンターに帰って行く。
「さっ、飲もっか」
 慣れた手つきで栓を開け、トクトクと明石側のグラスめがけて瓶を傾けるリリー。その動きは実に滑らかで、大げさに言えば演舞を見ているようだった。
「ありがとう、ございます。すみません俺も注ぎますよ」
「ほんとだよー。お姉さんに注がせるなんて、いけないやつだなあ」
「あっ、そうですね。ほんとすみません、気がつかなくて」
「そんなに謝らなくても良んだけど……」
 リリーがそう言いながらビール瓶を渡してくた。受け取る明石は、年齢を偽っていることがばれていなくてほっとする気持ちと、一つ下でも違和感が無い悔しさを入り混じらせながら、リリーのグラスにビールを注ぎ入れる。
「はい、お疲れ様」
「お疲れ……、様です」
 グラスを合わせると鳴ったカチンという音を合図に、それぞれ小ぶりなグラスを傾ける。
「ぷはあ」
 慣れてきたとはいえ、昼夜を逆転させて働くことによる疲れは、頭に鉛が溜まったようになる。今日はそこに加えて、失敗による落ち着きの無さが生んだ心労が、ビールをいつもの何倍も美味しく感じさせた。
「美味しい?」
 リリーのグラスはもう空っぽだった。手酌で次の一口分を注いでいる。「美味いです。そういえばリリー、お酒は苦手やったんじゃないんですか?」
「別に苦手じゃないよ。飲むのが嫌なときはあるけど」
「嫌なとき、ですか」
「そう。……それで海くん、今日のことだけど」
 リリーが切り出す話に少し身を固くする明石。そのために誘われたのだとはわかってはいても、気持ちよく聞ける話では無かった。酒があって良かったと明石は思う、自分の中でもまだ整理が着いていないのに、他人から、ましてや年下から叱られる状況など、耐えられたものじゃない。
「すみませんでした。グラスも割った上に、オーダーを忘れてしまっていて」
「それだけ?」
 口調は冷ややかながらも、責めたいわけでは無いことを伝えるようにリリーの表情は穏やかだった。
「えっ、それだけって……」
「グラスを割ったこと、これは本当にどうだっていいの。海くんに怪我が無くて良かったと思うだけ。けどね、良くないのはもう一つの方」
「はい。……ですよね、オーダーを忘れるなんて接客業として……」
「ううん、そうじゃない」
 静かに首を振るリリーは一度グラスを傾け、続く言葉を、とても優しく話した。
「やってしまったことは仕方ないの、けどその後ゲンさんに謝った?」
 答えのわかっている問いかけを、すまなさそうにリリーが問う。
 明石の頭からは、失敗を犯した自分を責めるのに忙しい余りに、そのことがすっかりと抜け落ちていた。ここで素直に反省すればまだいいものを、張りぼての矜持がここぞとばかりに邪魔をする。
「すみません。けど、謝ってすむことじゃないと思ったんで……」
「でも、謝ることが始まりだよ」
「えっ? あっ……」
 間髪を入れないリリーの返答は、考えていたであろうものでは無かった。日常的な思考が反射的にはみ出したかのように素早く、滑らかな言葉は、時として考えて出したものよりも力を持ち得る。
「海くん、失敗するの怖い?」
「……はい」
「どうして?」
 何故自分は失敗が怖いのかなんて、明石にはわかっていた。何か一つ汚点が生まれた瞬間に、人はいとも簡単に離れていくということを明石は身に染みている。
「失望、されるからです」
「失望なんて、勝手にさせておけばいいんだよ」
 リリーはまたも反射で言葉を返した。が、納得していない様子の明石を見て、何かを思うように少し目を瞑り、再び口を開く。
「ごめん、言葉が足りなかったね。海くんが本気でやって、丁寧にやって、それでも失望する人なんて、放っておけばいいと私は思う。信じるとか信じないとかは、その相手を知らないとできないもの」
「まあ、リリーは強いですから……」
「強くなんか無いよ」
 リリーが首を振る。
「とにかく、私が言いたかったのはちゃんと謝ろうねってこと。その後落ち込んで暗くなってたのは……、まあ仕方ないや」
「……はい」
 その仕方ないことについて怒られるものだと考えていた明石からすれば、それが何よりも残酷な指導だった。そこを怒るにも値しないと言われたかのような明石にとっては、怒ると叱るもまだ、区別のついていないものだった。
「できたよ」
「わっ!」
 世界は明石がこれ以上黙り込むのを許さない。突然耳元で聞こえるしわがれた声に、飛び跳ねる勢いで叫んだ明石。気持ちと行動の歪みにバツの悪さを感じながら振り向くと、店主の老人が両手に長方形の盆を持って立っていた。
「ありがとうございまっす。さあ海くん、食べよ」
 盆を受け取ったリリーが明石の前にそれを置く。やめてくれよという老人の表情に、明石も盆を取ってリリーの前に置いた。
「どうぞ」
 老人はぼそりとそう言って、穴蔵に戻る動物のようにカウンターへと戻っていく。二人の前に並ぶ料理から漂う湯気と鼻に入り込む脂っこい匂いが、明石のお腹を盛大に鳴らした。
「あはは。いただきまーす」
「……いただきます」
 焼き肉定食は二人ともすぐに無くなった。瓶ビールは二本空けた。店を出るともう太陽が本気を出していた。

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