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連載小説『J-BRIDGE 』15.5

初の著書、『桜咲く頃』についてはこちらの記事をどうぞご覧ください!

明石が地蔵のようにカウンターに立ち尽くして一時間が経った頃、リリーは彼に店内の掃除を命じた。
 はじめはダーツホールのテーブル辺りを拭き上げていた明石。その次は椅子の脚、ビリヤード台、トイレへと、導かれるように店の隅へと向かっていく。辰野たちの帰り際に彼らと顔を合わせることも無く、リリーがそんな明石に何か言うことも特になかった。

「ありがとうございましたー! おやすみなさい!」
 午前五時のおやすみが響き渡り、店とリリー、それに明石の一日に終わりが訪れる。売り上げを数えるリリーの傍を、一刻も早く帰宅したい明石が幽体の如く静かに横切ろうとした。
「ちょっと海くん、油ものは洗って帰ってよね」
 事務所のカーテンに手をかけていた明石の手を、リリーの言葉が引き留める。相手に届くかなんて気にしていないおざなりの返事で、のっそりとシンクへと方向転換した明石に、リリーが吠えた。
「ねえ! 海くん!」
 冬の寒さで研磨されたように鋭い声は明石の体を瞬時に強張らせる。
「すみません……、すぐやるんで」
「違う! あなた、お腹空いてる?」
「は? いや、別にあんまり……」
 食欲など今の明石は微塵も沸いていない。ただ早くここから逃げ出して、一度気持ちを整えないことには前に進めないと、その考えで見事に凝り固まっている。
「お腹、空いてる?」
 聞こえていなかった相手に言い直すようにリリーが言った。
「……少しだけ」
「うん、そうだよね」
 その答えが当然だと言わんばかりに、彼女は頷いた。
「少し待っててね、これだけ終わらせるから」
 リリーの電卓を叩く指の速度がにわかに上がったように聞こえ、明石は逃げられないことを悟った。先に作業を終えた明石に、店を出たところで待っているようにとリリーが告げる。
「お疲れ様ー」
 普段と同じ調子でリリーにそう言われ、階段を上がる明石の足取りは重たいものだった。さっきの態度が良くなかったことも、仕事中に黙り込んだ自分が役立たず以下だったことも、彼にはきちんと理解できていた。辰野にも今度会ったときに詫びなければと、自省を始めればきりが無い。
 最後の段差の越えると、出番を待ちわびて張り切り気味の太陽が東の空を照らし始めていた。白と青の混色で覆われた世界は、今から始まりを迎える多数派の人々にとって肯定的な色をしている。
「お待たせ、行こっか」
 上がってきたリリーは、営業中には常にひとくくりの髪が無造作に広がっていた。二人して店先に停めている自転車を押して歩く。
「こっち、五分くらい歩くけど大丈夫?」
「はい、問題ないです」
 店に辿り着くまでに交わした会話はたったそれだけだった。これまでは自転車を漕ぐだけで歩くことの無かった明石は、早朝の街の姿をひとつずつ目に映す。
 大阪ミナミの中心地がすぐ傍にあって、そこでは整えた身なりのビジネスマンがもうすぐ出勤し始める。休日には百貨店やファッション街にたくさんの買い物客が訪れる。その影に広がるこの街は、汚い、治安が悪いと揶揄されることも珍しくない。
 大通りを我が物顔で横切る野良猫。名前のわからない鳥が発声練習のように囀る声。点在する飲食店の傍に立つ電柱にそれぞれ積まれたゴミ袋。カラスによって漁られて、道路に散乱しているものもある。空き缶集めに精を出すホームレスは、綿の飛び出たダウンを着込んでいてもまだ寒そうだった。
 ウォーミングアップ中の太陽の光は、キラキラと輝く表通りにも日陰者の集う街にも平等に降り注ぐ。道端に生えた雑草の朝露が、室外機のホースや散らかった缶ビールからこぼれる液体が、光を反射して負けじと輝きを見せているけれど、明石の目にはまだ映らない。
「着いたよ」
 リリーがそう言ったそこは、映画館や服屋、結婚式場までもを備えた複合施設の裏手にある魚市場の一角にある定食屋だった。
「こんなとこに、市場なんてあったんですね」
 複合施設のことは、当然明石も知っていた。昔働いていたときの彼女と映画を見に来たことだってある。屋上や施設内部が緑化されたその建物は有名な建築家かなんかが考えたらしいと、その彼女がにわかな知識で語っていたことを思い出す。
「そ、朝から開いてるお店でお酒も飲めるよ。明ちゃんともたまに来るの」
店の前の車を停めるスペースに二台並べて自転車を停め、のれんのかかる引き戸を、リリーがガラガラと音を立てて開いた。

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