処女、官能小説家になる【第九話】【最終話】
第九話
【咲子、30歳】
ジリジリと、焦げたアスファルトの匂いがする。街を歩けば、浴衣姿の若者たちが浮足立つ。もう、盆踊りの季節か。
スーパーの袋を両手にぶら下げた腕は、鉛のように重い。額一面に覆われた汗を、咲子は腕でグイッと拭う。
こんな時、パートナーがいれば手伝ってもらえるのだろうか。残念ながら、咲子はもうすぐ色恋沙汰のないまま、30歳の誕生日を迎える。
——女として、このままでいいのかしら。誰とも交際しないまま、年をとっていいのだろうか。
すれ違う若いカップル達を眺めては、ふぅと思い溜息が出る。
30歳になった咲子は、OLを続けながら副業で月野のゴーストライターを書き続けていた。
隣の月野は、咲子に「それは違う」「もっと文章に捻りを入れて」と、横やりを入れてくる。ちょっぴり面倒だけれど、素晴らしいストーリーを作るには、月野の存在は欠かせない。
それに咲子は、あくまで月野のゴーストライターだし。彼女のアドバイスなしでは、作品を完成させることはできない。
咲子と月野が世に出した作品は、次から次へとヒットした。そんな中、咲子がゴーストライターを担当した作品「処女、官能小説家になる」が重版続きとなり、ベストセラーを達成する。大きな賞も受賞し、作品は映画化される運びとなった。
ある日咲子の元に、担当した小説が映画化されたご縁で、出版社よりインタビュー取材の話が届く。出版社によると、主演俳優の古池巧が小説のファンで、どうしても作者に会いたいらしい。
著者の月野マリアは、すでにこの世にはいない。だが、表向きには月野がまだ生きており、執筆活動を続けているという形で公表している。
インタビューで、その事実をうまく誤魔化せるだろうか。いや、下手に誤魔化そうとすればボロが出るだろう……。
咲子は、出版社から届いたインタビューの誘いを丁重にお断りした。月野の死がバレる恐れのあるお仕事は、避け続けていくしかない。
「咲子、いいの?古池と会えるチャンスだったのに。もしかしたら、恋愛に発展したりして」
月野はそう言って、ケラケラと笑う。
「やめてよ。揶揄うの」
古池巧は、20歳になったばかりの俳優だ。10歳も歳が離れているような、爽やかイケメンが私なんか相手にする訳ないじゃない。咲子は、月野をキッと睨む。
「冗談なのに、そんなにムキにならないでよ。でも、それがあなたらしさなのかもね。いつも真っ直ぐで、嘘がなくて」
「どういうこと?」
咲子が尋ねると、月野は「ううん、なんでもない」と言って、ニコニコと笑った。
「教えてよ。ちょっと濁されるのが、一番気になるの」
「しつこいわね。まぁ、それも咲子らしさではあるんだけど。
わかった。教えてあげる。私が言いたかったのは、真っ直ぐで純粋なところが、咲子のいいところだということ。
そのままでいれば、いつかきっと理解してくれる人が現れるわ」
これまで、ずっとそのままで過ごしてきたから、いつまでも彼氏ができなかったというのに。月野は、一体何を言っているのだろう。咲子は、首を傾げた。
「本当に私、このままでいいの?」
恐る恐る咲子が尋ねると、月野は自身たっぷりにこう答えた。
「大丈夫。こんなに真っ直ぐな女性、他に絶対いないもの。この世のどこかに、きっと咲子みたいな女性が好きな人は現れると思うわ。
だから、自信を持ちなさいよ」
そう言って、月野は咲子の背中をポンと叩く。咲子は照れ臭くなり、ぽっと頬を赤らめた。
手紙
街路樹の色が、うっすらと橙色に変化していく。秋も近づき、咲子は相変わらず忙しい日々を送っていた。
そんなある日、咲子の元に一通の手紙が届く。白い封筒には、筆記体のように波打った文字で、住所と名前が書かれている。
この文字、懐かしい。咲子は、封に書かれた文字を丁寧になぞる。
咲子はぴりぴりと丁寧に封を破り、手紙を開く。手紙は、咲子がかつて思いを寄せていた片桐からだった。
自分が、片桐の恋愛対象ではないことは、とうの昔から理解していた。
気持ちはわかっていたけど、でも諦めきれなかった。彼は、ずっと優しかったから。困っていたら優しく声をかけ、ボロボロのハンカチだって差し出してくれたっけ。でもそんな優しさ、ずるいだけだ。そんなの、本当の優しさなんかじゃない。
もっと早くに、この手紙のように文字で気持ちを形にしてくれていたなら。もっと早くに、彼を諦められていたのではないだろうか。微かな希望がある限り、ずっと諦められなかった。
文字とは、残酷だ。朧げだった彼の記憶も、うっすら美化された思い出も。全部、真実へと塗り替えられていく。
——片桐君。遅い、遅い、遅すぎるよ。もっと早くに、あなたの気持ちを文字で知りたかった。
咲子の手紙を持つ手が、わなわなと震える。咲子は手紙をそっとポケットにしまい、涙をぐっとこらえた。
辛い気持ちを抑えつつ、咲子はキーボードに向かってカタカタと音を鳴らす。原稿の締め切りが近いし、月野マリアの新たなアイデアが浮かんだ様子だから、早く形にしないと。
咲子は、隣にいる月野が完全に成仏するまで、彼女の代わりにストーリーを世に送り出すと決めている。それが「自分の使命」なのだと、咲子は考えていた。
ゴーストライターの仕事と並行しているOLの仕事は、これからも続けるつもりだ。理由は、地に足のついた考え方が、小説を作るプロセスには必要だと、咲子自身が感じているからに他ならない。
月野のアイデアは独創的だが、義務教育をしっかり受けていない分、どうも世間一般的な女性の視点が抜けている。
そうなると、読者からの共感を得づらいストーリーとなってしまう。咲子がOLの仕事を続けることで、客観的な目線を持つ作品が誕生する。兼業は大変だけど、素晴らしい作品を作り上げるには欠かせないプロセスだ。
月野は時折、OLの傍ら小説ばかり書いている咲子に対し「咲子、恋はしないの?」と、心配そうに声をかけた。
今の咲子は、仕事が忙しいあまり、恋をする暇がない。もしかしたら、仕事が忙しい時は、恋をするタイミングではないのかも。
恋のタイミングがきたら、自分も幸せな恋愛ができるだろうか。だったらいいな。ならば、いつかそのタイミングが訪れるまで、目の前にある仕事を誠実にこなさなきゃ。
そうすればきっと、私の真摯な姿を見て、声をかけてくれる男性があらわれるかもしれない。それに月野だって、いつか理解者が現れるはずと言ってくれたし。
まずは、目の前の仕事を頑張らなきゃ。咲子は、ノートパソコンを開き、カタカタと小説を執筆し続けた。
【終】
※長いストーリーでしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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