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【短編】鶏卵(前編)

 三連休明けの出勤は気乗りしない。午前のオフィスでは、あちこちでため息が合唱していたが、昼過ぎになればいつも通りのオフィスに戻る。人間の適応力は凄い。

 午後三時十分——今日中に処理しなければいけない仕事をひと通り終えた僕は、一息つこうと席を立ち、コーヒーマシンへ向かう。

 紙コップをコーヒー抽出口の真下に置き、現金投入口に十円を流し込む。ドトールのブレンドコーヒー(HOT)を選択した僕は、ちょっとした贅沢にしては大きな優越感を得る。無料コーヒーもある中で、あえて有料コーヒーを選んだ僕はコーヒーの違いが分かるデキる男に違いない、と。マシンの隣に設置されたスタンドに肘を乗せ、コーヒーを啜る。

 何やら目の前の喫煙スペースが騒がしい。古木課長が坂本を叱っているようだ。社員がそこを隠蓑として仕事をサボらぬよう、透明なアクリル板で仕切られた喫煙スペースの内側は、通行人からも丸見えだ。

「本当に申し訳ございません」

 ラグビー部出身で体重百キロを超える坂本が、冷蔵庫に入れたナスみたいに縮こまっている。

「だからちゃんとメモしとけって言ったろ?」

「メモはしてたんですが、お客さんを前にすると緊張してしまって、つい……他の聞きたい話を聞いているうちに、いつの間にか頭から抜けてました……」

「何回同じこと言ったら分かるんだよ」

 古木課長の指示を坂本がすっぽかしたらしい。

 たぶん納期確認のことだろう。坂本が担当するM社には、工場で使用する一年分の薬品を例年九月末にまとめて納入している。その納期を守るためのタイムリミットが今日なのだ。

 課長の気持ちもよく分かるが、坂本の気持ちも痛いほど分かる。

 M社の購買担当はその道三十年の大ベテランで、製品知識のない若手を少し蔑んでくる。僕もさんざん苦しめられた。入社二年目で文系出身の坂本にとって、手強い相手であることは間違いない。

 しかし、課長はその購買担当と同期入社ということもあり、お互いを「ちゃん付け」で呼び合うほどの仲良しなのだ。坂本にとってのハードルと課長にとってのハードルは、幼稚園児の初めての買い物とベテラン主婦の買い物くらいに違う。

「お前の将来が心配だわ」

 お前の将来が心配だわ——大学一年時の家庭教師の記憶が蘇る。

「ほんっと、あなたの将来が心配……」

 独り言として呟かれたその言葉を、僕とタケシは何度聞いただろう。不意に耳に忍び込む独り言は、意図的に投げかけられる言葉よりも時にたちが悪い。無防備な体に、背後からいきなり豪速球が飛んでくるようなものだ。

 お母さんは、全然勉強しない息子の行く末をいつも心配していた。

 たしかにタケシは全然勉強しなかった。学力は、小学五年生の全国平均を悠に下回った。

「僕はどうせ何をやってもだめなんだ」

 タケシは、お母さんから飛んでくる豪速球をこの一言でするりとかわしていた。その一言がなぜか今でも耳に残っている。

「もういいよ。俺が直接聞くから」

 おもむろに胸ポケットからスマホを取り出した古木課長は、慣れた手つきで画面を数回タッチし、スマホを耳に運ぶ。

 しばらく沈黙が流れる。

「……あ!たけちゃん、久しぶり〜!元気?……うんうん……へえ〜……そんなことより今度いつ東京来るの?飲みに行こうよぉ!……」

 坂本の表情は暗い。今日は一緒に帰ろうかな。

*

 ちょうど二人分のスペースが空いた。急いで座ろうとする僕の隣で坂本は動かない。その体格からは想像もできないつぶらな瞳が、坂本の心情を代弁している。たしかにここで二人が座ると、隣の老人が皺寄せをくらってしまう。

 僕たちはおとなしくつり革にぶらさがることにした。

「課長に叱られてたけど、大丈夫?へこんでない?」

「……へこんでます」

「そりゃ、あれだけ言われたらそうなるよなぁ……」

「僕、何やってもだめなんすよ」

 ——僕はどうせ何をやってもだめなんだ

 坂本の野太い声が、タケシの甲高い声と重なる。その旋律は調和を成すが、耳に残る余韻は一刻も早く拭い去りたいほどに汚らわしい。

「……それは違うね」

「え?」

「お前、言わされてるだけ」

「……どういうことですか?」

「だから、それはお前の言葉じゃない。課長に言わされてるだけ」

 タケシも、お母さんに言わされてるだけだった。

 ——僕はどうせ何をやってもだめなんだ

 お母さんの接し方が問題だった。『どうせ何をやってもだめな子』としてタケシに接するから、タケシは『どうせ何をやってもだめな子』になったのだ。『何をやってもできる子』として接したならば、『何をやってもできる子』になったはずだ。

「プロ野球選手って何月生まれが多いか知ってる?」

 突拍子もない質問に、坂本は若干の動揺を見せる。

「……知らないです」

「四月生まれだよ。なんでだと思う?」

「すみません……分からないです」

「別に謝ることじゃない」

「プロ野球選手って、だいたい小学校低学年のときに野球を始めるんだけどさ。例えば、同じ一年生でも、四月生まれと三月生まれでは違うことがあるよね?

「……体格ですか?」

「そうそう。体格も含めて、発育度合いが全然違う。当然、四月生まれの方が、同じことやらせてもうまくできるわけ」

「……なるほど」

「そうすると、育てる側は、同じことやらせてもうまくできる子にもっと機会も与えるんだよ。無意識のうちにね。逆に、うまくできない子には『この子は無能だ』って決めつける。本当は無能でもなんでもなくて、単純に発育度合いが問題なんだけど。それで、そういう子に対してはそこまで機会を与えない。だからどうなるかっていうと、機会を与えられた子はもっと成長するし、機会を与えられない子はそこまで成長できない。二人の差は、どんどん開いていくってわけ」

「へえ……」

「んで、何が言いたいかっていうと、育てる側の責任がそれくらいデカいってことだよ。課長さ、『坂本は無能だ』って決めつけて接してくるだろ?あれがいけないんだよ」

 坂本の表情が少し和らぐ。肩を持ってもらって嬉しいのだろう。

「それでさ、課長の決めつけを打ち砕いてやろうぜ」

 その瞬間、電車が急ブレーキをかけ、立っている大人たちが倒れそうになった。

 明日は面白い日になりそうだ。


(後編に続く)

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