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裸の王様ならぬ裸の上司

ほぼ1年ぶりに友人と会った。彼女らは、全員が私の元部下であり、今は友人だ。そのうちの一人が、転職することになり、送別会が催されることになった。私は、そこにお呼ばれしたのだ。皆相変わらず、元気そうで安心した。

それはさておき、やっぱり話題は上司の話になる(私のことではない。統括責任者のほうである)。それはどこの職場でも同じだろう。しかし、就任直後から2年過ぎても、ごくごく一部のスタッフを除き、大半のスタッフから未だに1mm足りとも信頼も信用もされず、上司として統括責任者として認められない人も、なかなか珍しい。
幾つもの会社を渡り歩いてきた私ですら、ここまで責任者として機能してない人は初めてだった。

仕事のできる出来ないは、その人の力量や適性に合ってるかによって違ってくる。だから、Aの職場では散々でも、Bへと変わった途端にぐんぐんと伸びる人もいる。その逆もあるけれど。

そのため、それはその人だけに全ての原因があるとはいえない。誰をどこで働かせるかを決めるのは、会社だからだ。

だが、それと人間性は全くの別物だ。
気に障ることがあると、すぐに怒鳴る上司。
自分の意にそぐわなければ、すぐに拗ねる上司。
相手によって態度を変える上司。
自分の非を認めず、何かと責任転嫁してくる上司。
感謝と労いもなく、自分の手駒としか部下を認識してない上司。

どれもこれも書いていてなんとも情けないが、相手との距離感を見誤っている。
部下は、上司の操り人形ではない。
けれど、私の元上司のように、無自覚でそう思っている人は多いのではないだろうか。

たしかに、部下は会社に貢献するのが仕事である。会社と部下と自分の区別ができていない上司は、自分の手足となって働くのが部下の義務とでも言わんばかりだ。しかも、それに反抗しようものなら、会社への忠義や部下としての在り方を懇々と言われる。

だが、よくよく聞けば、上司である彼らの言葉は、自分の気持ちをよく言い表している。
会社や組織を主語にしているが、すべて「上司である私」に置き換えてみると、正直な胸の内が吐露されてることに気がつく。

部下から信頼も信用もされていない上司ほど、間抜けなものはない。
しかも、そうした上司ほど、自分を過大評価する傾向が強い。逆に、部下から信頼され信用されている上司は、自分を過小評価しがちだ。

自分を過大評価してしまうのは、小心者としての自分を隠すための鎧なのかもしれない。
けれど、そんな鎧は本人が身につけているつもりでも、周囲からすれば透けて見えているものだ。
それで威厳を保とうとしても滑稽なだけ。

そんな恥ずかしい姿を晒してまで、自分を大きく見せるよりも、部下の目線に立つ上司へとシフトしてみてもいいのではないだろうか。
上司だからと、部下を高みから見下ろす必要はない。
部下をサポートし、彼らがフロントで存分に力を発揮できるようにしてやる。これもまた、上司の仕事だはないだろうか。

それに、部下はいつだって上司からの「ありがとう」と労いの言葉を待っている。
部下からの厚い信頼を望むなら、まずは「いつも、頑張ってくれてありがとう」と言ってみる。
最初は照れくさいかもしれないし、なぜ上司の自分がと思うかもしれない。けれど、ありがとうと伝えているうちに、部下たちの表情は和らぎ、自分の顔も優しい顔つきになる。

ありがとうは、魔法の言葉だ。
この言葉を部下に言えない上司は、いずれ不要な人材だと思われても致し方ない。
なぜなら、時代は奉仕型や共創型のリーダーを求めているからだ。

自分で自分の首を真綿で締めるような真似は、そろそろやめにしようではないか。

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