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玄奘、旅の終わり

 667年3月7日、62歳で玄奘は亡くなった。衰弱死だ。
 則天武后は、玄奘を国葬で送った。約束をしていた訳ではない。
 だが長安の民衆は、自然に集まり、すでに国葬状態だった。
 三蔵法師と民衆に慕われ、天竺に渡った偉いお坊さんと言われていた。
 「国葬ねぇ……」
 ブタの💝様は、河岸の葬行の列を眺めながら、嘆息していた。
 「……とても悲しい結末ですね」
 女の童がそう言った。猿渡空は一足先に帰り、沙悟浄は行方を晦ました。
 「俺らの時代でも、国葬で送られる奴はいたが、地獄行きだな」
 吐き捨てるように言った。そして『西遊記』の文庫本をパタンと置いた。
 「この本の謎が、ようやく分かったような気がする」
 玄奘は、かなり頼りない人物として描かれている。ダメダメだ。
 道教の人が、仏教を貶めるために書いたとも言われるが、真実は異なる。
 「申し訳ないけど、俺らのお師匠さんは、天国には行けない」
 お釈迦様からも連絡はない。だが玄奘は最期まで翻訳していた。
 「努力は認めるが、テキストを改変しちゃ、ダメだろう」
 天上界から霊夢で何度も警告があった。玄奘は少しだけ譲歩した。
 「それからこの世的にも成功し過ぎた」
 玄奘は、生前絶大な人気を誇った。これも落とし穴になっている。
 頭が良く、鉄の意思で、物事を貫徹する。だが最後に道を誤った。
 「とりあえず、世話になったな……」
 ブタの💝様は、全身からシャボン玉を飛ばしていた。金色に変わる。
 「……天帝に代わりましてお礼を言います。ありがとうございました」
 女の童が、猪八戒を見送った。もうこの時代に現界する事はない。
 
 玄奘は独り彷徨っていた。足元に濃い霧が立ち込める。視界が悪い。
 「……玄奘よ」
 見上げると、鳩摩羅什がいた。初めて見たが、一目見て分かった。
 「……なぜ警告を無視した」
 鳩摩羅什は、50センチくらいの光輪に包まれていた。天使?
 「警告は無視していない。アレ以降、意訳していない」
 玄奘は譲歩したのだ。だがそれ以前に書いたものは直していない。
 「……もうそなたも分かっていると思うが、追加で修行が課された」
 玄奘は項垂れた。何が悪かったのか?そんなに意訳が問題なのか?
 「鳩摩羅什よ。何が悪かったのか、教えてくれ」
 少しの間、間があった。何か考えているようだった。
 「……これから見せるのは、今から600年後の景教の話だ」
 「景教?600年後の話?」
 玄奘は驚いた。なぜ他の教えの話をするのか?しかも未来の?
 「……その男は、政治家で詩人、そして霊能者だった」
 ダンテ・アギリエリと言う。13世紀、イタリアの人物だ。
 政争に敗れて、牢獄に囚われるが、その中で『神曲』を執筆する。
 ルネサンスの嚆矢にして、旧約の預言者もかくやという内容だ。
 18世紀のスェーデンボルグに先駆けて、霊天上界を克明に描写した。
 だが重大な間違いを犯した。仏陀とムハンマドは地獄にいると描いた。
 玄奘にも、明らかにおかしいと分かった。だがそれ以外は問題ない。
 「……真理とは、98%、99%の正解ではダメなのだ」
 鳩摩羅什は言った。玄奘は息を呑む。ダンテは死後、地獄に堕ちた。
 これほどの才能の持ち主が地獄の炎で焼かれる。悔しい。玄奘は涙した。
 「この者は惜しい。その天与の才が惜しい。許してやってくれないか?」
 玄奘はダンテのために懇願した。だが鳩摩羅什は静かに首を振った。
 「……厳しいが、真理とは、100%の正解を求めるものなのだ」
 「いや、待ってくれ。これは未来の話でまだ確定していないのでは?」
 「……『法華経』を訳したのなら、並行世界は知っているだろう?」
 数多の世界があり、数多の仏が存在する。永遠の仏陀の世界だ。
 過去・現在・未来だけでなく、多重多層に世界が幾つも重なっている。
 その中で因果の流れがあり、数多の出来事が循環している。円環だ。
 「では、未来は確定していて、拙僧もこうなると分かっていた?」
 「……やってみるまで分からないが、本人の考え方が運命を決める」
 妖怪にも悪魔にも負けなかった。だが自分の心に勝てなかった。
 「考え方が変わらない限り、この円環から抜け出せないという事か」
 「……そなたはまだ考え方を変えていない。だから追加の修行が必要だ」
 何カ所か、原文から削って翻訳した。それが仏典の内容改変に繋がった。
 「……あの者ほど悪い訳ではない。だが良い仕事をしたとは言えない」
 玄奘は黙って、示された道を見た。遠く、暗い。遥か先まで続いている。
 だがそこに道があるなら、歩く事はできる筈。玄奘、旅の終わりだ。
 
 慈恩寺の本堂では、異変が起きていた。
 玄奘のお通夜を邪魔する者が現われたのだ。
 何と、行方を晦ましていた高昌の従者だった。
 もう年相応の顔をしていたが、その表情はおかしい。
 「……玄奘め!やっと死におった!ざまぁみろ!」
 高昌の従者は土足で踏み込むと、大声で怒鳴った。
 「来ると思ったよ。妖怪BBA!」
 猿渡空が現われた。iPhoneを真横にかざして、霊装を装着する。
 「斉天大聖孫悟空、ここに見参!」
 だがいつもの力がない。もうこの時代での活動限界が近い。
 「いや、愛と勇気の戦士、キュアモンキー、ここに見参!」
 だから猿渡空は言い直した。魔法少女らしく最後まで戦いたい。
 「……何がキュアモンキーだ。笑わせる!未来の世界に帰れ!」
 高昌の従者は嘲笑した。猿渡空は如意棒で突く。だが躱された。
 「最後のご奉公だよ!お師匠様はやらせない!」
 「……無駄だ。呪ってやる!来世、この者の妻として、転生してやる!」
 「え?奥さん?それは何で?」
 「……無論、意地悪をして、何が何でも妨害してやるためだ!」
 猿渡空はちょっと思考が停止した。意味が分からない。
 「……この者は、過去世でも、幾転生重ねて、修行一筋で、女性を遠ざけてきたため、妻の縁を持つ運命の守り手が少ない。だからわらわがそこにつけ込む隙があるのだ!」
 「意地悪するためだけに奥さんになるの?」
 呆れた。そんな発想があるなんて、夢にも思わなかった。
 「でも何でわざわざそんな事を……」
 「……面白いからに決まっている!復讐とはそういうものだ!」
 仏敵とはこういうものか。初めて知った。本当にとんでもない連中だ。
 「やっぱ、あんた、あたしと一緒に消えてもらうよ」
 猿渡空は表情を消して、如意棒で高昌の従者を突いた。今度は命中した。
 「お師匠様、ごめんね。あたしくらい最後まで戦わせて。天竺までの旅、ホント、楽しかったよ。お師匠様の説法を聞いて、あたしも全うに生きようと、やっと思えたんだ」
 如意棒で突かれた高昌の従者から、画皮妖怪の霊体が転がり出た。
 「さぁ、あんたは、あたしと一緒に、現代に来てもらうよ!」
 猿渡空が女妖怪に抱きつくと全身からシャボン玉を吹いて金色になった。
 
 「……こんな処にいた。先に帰っていたの」
 女の童が呆れたように、軽く金属製の扉をノックして、入って来た。
 ここは21世紀の日本、四国の四万十川の上流だ。着陸したUFOの中だ。
 河童型宇宙人は『インディ・ジョーンズ』のDVDを見て、涙していた。
 このシリーズに登場する現地語は全て本物だ。世界中の言葉が出て来る。
 お話自体はフィクションだが、その背景で語られる言語は全て本物だ。
 映画の中で、アルキメデスが登場して、古典ギリシャ語さえ話す。
 あの映画に出て来る考古学教授は、話せない言葉はないのかとさえ思う。
 天竺までのガイドの旅で、あの考古学教授を想わない日はなかった。
 この星には数百の言語がある。一体どうやって、意思疎通しているのか?
 無論、完全に通じている訳ではないだろう。だが皆、何とかやっている。
 それは感動的でさえある。地球の皆は、言葉で繋がっている。
 他の星は多くて、数億の人口で、数個の民族、数個の言語しかない。
 だがこの星は、霊界人口、数百億を誇る超過密天体だ。とんでもない。
 宇宙は広いが、これほど、人霊が集まっている星は少ない。
 河童型宇宙人はこの星に来てよかったと心から思った。
 そしてこの星の言葉の豊饒さは、ダイヤモンドの如きだ。
 言葉、言葉、言葉、全てが美しく、神の如き、仏の如きだ。
 「……もしもし?感動している処、悪いのですが……」
 そこで河童型宇宙人は、ようやく女の童の存在に気が付いた。
 「ああ、悪い。だがもう行かなければならない」
 河童型宇宙人は、DVDを取り出すと、ライブラリーにしまった。
 「……別の時代に行かれるのですか?」
 「そうだ。まだまだ知りたい事が沢山ある」
 UFOを起動した。時間転移シークエンスをセットする。間もなく出発だ。
 「……お釈迦様から伝言です」
 女の童が宇宙船から降りる時、そう言うと、河童型宇宙人は振り返った。
 「……並行世界の玄奘を頼む。次はハッピーエンドで終わらせてくれ」
 河童型宇宙人は、玄奘が漢訳した『法華経』を副操縦席に置いた。
 「承知したと伝えてくれ。久遠実成の仏陀に」
 河童型宇宙人は、西域産の胡瓜を取り出すと、パキッと食べた。

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺055

『玄奘、西天取経の旅に出る』 玄奘の旅 1/20話


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