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大唐の夢、傾国の狐

 開元の治を台無しにしてやった。
 様は無い。玄宗皇帝は骨抜き肉だ。
 今なら蒸かして、喰う事だってできる。
 トロトロだ。溶かして、ふやかしてやった。
 無論、その心だ。我が手にかかって墜ちない男はいない。
 全盛期の仏陀だって、堕としてやる。我は妖狐。九尾の狐。
 狐の中の狐の中の狐の中の狐の中の狐の中の狐の中の狐の中の狐の中の狐だ!
 我が妖力の瞬間最大出力は、地獄の悪魔、グランド・サタンさえも凌ぐ。
 奪った力をすぐ使ってしまう早漏とは違う。我は我慢する。力を溜める。
 一万年、溜めに溜めた我が妖力の輝きを見よ。この奔流を見よ。
 我、天界の裏側に巣食いて、この星の歴史を左右する者なり。
 地獄の底で這いつくばっている、未来が見えない間抜け共とは違うのだ。
 権力の絶頂、世界の中心は今ここにある。大唐にある。楊貴妃にある。
 「我こそが美なり。全てひれ伏せ!」
 全ての宦官、全ての将軍、全ての女官がザーッとひれ伏した。壮観だ。
 則天武后の時と似ている。だが女悪魔の仕業だ。自ら権力を奪取した。
 できる女は裏に回るのだ。表に出たら負けだ。だから悪魔は敗北する。
 楊貴妃は独り右手で扇子を開くと、口許を隠しながら、妖しく微笑んだ。
 ――あと一本で、幻の十本目だ。さすれば我が美は宇宙にまで届く。
 空前絶後の妖気が立ち上った。唐の帝室を覆い、長安さえも暗くする。
 完全に手が付けられない感じになっていた。唐が乗っ取られる。
 魔とは、その活動の本質は、ハイジャック、乗っ取りである。
 こんな化物、空海と鑑真で挟み撃ちにして、仕留めないといけない。
 
 ふさふさとした黄金色の尻尾が、複数揺れているのが見えた。
 奥に座る楊貴妃に、九尾の狐が、とり憑いているようにも見える。
 だが楊貴妃と九尾の狐は一体だった。生霊として分離もできる。
 九尾の狐が楊貴妃なのか、楊貴妃が九尾の狐なのか、判然としない。
 人間であっても、魂が別の存在という事はある。龍神という例もある。
 彼女は妖魔だった。受肉した妖魔と言ってもいい。悪魔ではない。
 日本的に言えば、大妖怪と言ったところだろう。稲荷の元締めだ。
 物凄く霊力が高く、修行した高僧でないと太刀打ちできない。
 九尾の狐が人間の女に転生した姿、それが傾国の美女楊貴妃だった。
 もし現代日本に生まれ変わるなら、アイドルをおいて他にないだろう。
 
 玄宗皇帝は、才能がある男だった。美が分かり、統治もできた。
 治世前半、太宗と魏徴の貞観の治を見習って、開元の治を開いた。
 テキストは『貞観政要』だ。だが高力士は、魏徴ではなかった。
 この高力士を伝って、楊貴妃は宮廷に入った。楊一族もだ。
 楊国忠(注156)という博打好きが、宮廷に入ってからおかしくなった。
 楊一族は取り入り、玄宗は高力士に政務を丸投げするようになった。
 『長恨歌』にも、玄宗は政務をしなくなり、朝から楊貴妃と会うとある。
 玄宗は言った。「高力士がいるからこそ、安心して眠れる」
 高力士の家の前には、朝から政務を待つ役人の長蛇の列ができた。
 楊国忠は盗んだバイクならず、下賜された馬で宮廷に乗り込んで暴れた。
 高力士は苦い顔をしたが、安禄山を節度使に取り立てて、牽制した。
 楊貴妃は、この安禄山に目を付けた。玄宗に飽きてきたからだ。
 完全に征服して虜にしてやったが、かつての才能の輝き、威勢はない。
 強く輝いている者の側にいるからこそ、自らが引き立つと考えた。
 
 753年、正月の朝賀の席次で、日本と新羅が争った。
 この時、遣唐使副使、大伴古麻呂が、威勢よく文句を言った。
 結局、玄宗への新年の挨拶は、東では日本が一番となった。
 楊貴妃は、この男に興味を持った。多分、破滅する。
 だが野心的だ。こういう男が美しい。同時に日本に興味を持った。
 
 ある時、変な目で、こちらを見ている官吏に気が付いた。
 どういう訳か、こちらのチャームが全く効いていない。
 アレは日本から来た官吏、朝衡だ。
 こちらを疑っているようだった。心の声が聞こえる。
 ――九尾の狐か。妖魔め。
 驚いた事に、こちらの正体を見破っていた。霊力が高い。
 危険な男だ。呪いを掛けよう。日本に帰れないようにする。
 その官吏は、幽鬼となり果てて、冬の大雪原を彷徨った。
 
 ある時、舟遊びの余興で、即興の詩を捧げられた。
 完璧に酔っている。酔漢だ。詩仙とか酒仙と言われている。
 アレは玄宗が、翰林供奉で雇った芸人だ。
 こちらに心酔しているようだった。心の声が聞こえる。
 ――大唐の夢、傾国の狐。
 うん?今、何か変なワードが入っていなかったか?
 よく分からない奴だ。呪いを掛けよう。宮廷から追い出す。
 その芸人は、ボチャンと春の小川に落ちた。お約束だ。
 
 ある夜、夢を見た。遠未来だ。
 日本からの留学僧が、長安にやって来る。
 自分が死んだ後の世界だったが、まだ唐が続いていた。
 この者は、圧倒的な法力を身に付け、密教第八祖となった。
 僧は帰国し、約三百年後、この者の弟子と日本で対決する。
 その僧は、ひたすら険しい夏の山を登っていた。
 
 ある夜、夢を見た。近未来だ。
 唐からの受戒僧が、長安を出て日本に向かう。
 まだ自分が死んでいない世界だったが、唐が衰えていた。
 受戒僧は、不退転の覚悟で六度の渡航を試み、ついに成功する。
 ああ、自分の来世は日本にある。今のうち、生霊になって渡ろう。
 受戒僧は、遠く秋の空の雲を眺めていた。
 
 近頃、安禄山がよく宮廷にいた。唐の辺境を守る節度使だ。
 いつも上半身裸で、物凄く太っている。ダブダブのズボンを履いている。
 腹の肉が垂れ下がり、まるでボストロールのようだ。おまけによく踊る。
 重度の消渇で、指先や足先が腐っていた。血が甘く香り、滴る。
 楊貴妃は、安禄山と密談を重ねた。この者の魂にはテーマがあった。
 辺境のド田舎から、世界の中心に駆け上がる事を至上の喜びとしていた。
 755年、安史の乱で盛唐を打倒し、安禄山は一時的に大燕皇帝を名乗る。
 楊貴妃は、安禄山と組んで、玄宗を追い落とす事を企み始めた。
 
 唐を離れよう。大陸を離れよう。行先は日本だ。
 だが唐の長安を出発した馬車は、蜀の成都を目指していた。
 馬嵬事変(ばかいじへん)、馬嵬駅の悲劇だ。時に756年6月12日。
 だが玄宗皇帝を守っていた龍武軍は、食糧不足に陥っていた。
 「兵たちの不満を抑えきれません!」
 隊長の1人が、龍武軍の大将軍である楊国忠に報告した。
 「……どれ、ちょっと俺が見てくる」
 勢いよく出て行った楊国忠は、兵士の群れに飲まれて死んだ。
 「兵たちの不満を抑えきれません!」
 隊長の1人が、玄宗の相談役である高力士に報告した。
 「……兵たちは何と言っている?」
 「楊貴妃を殺せ!です」
 ご飯が食べられないなら、お菓子を食べればいいとか言って刺激した。
 「……そうか。陛下に相談してくる」
 高力士は重い腰を上げると、事ここに至り、万策尽きた旨、奏上した。
 「どうしろと言うのだ?まさか楊貴妃を殺せと言うのか?」
 玄宗が高力士に怒りの色を滲ませると、楊貴妃が席を立った。
 「いいでしょう。それで皆が治まるなら」
 今こそ有終の美を飾る時が来た。美は美しく滅びなければならない。
 こうして楊貴妃は縊死した。だが死は敗北ではない。美だ。
 無論、断頭台からの逆転ストーリーとかない。異世界転生もない。
 
 則天武后も、楊貴妃も、美人だったとされる。
 だが則天武后は、残虐で、悪魔性が高い人物だった。
 それに対して楊貴妃は、狡いが、妖魔性が高い人物だった。
 両者は微妙に異なるが、唐を乗っ取り、ダメにした点では同じだ。
 
 九尾の狐、金毛九尾の妖狐は、滅びの美学の大成者だ。
 美しく滅びて、その悲劇が語られる事を、無上の喜びとしている。
 人類のメイン・ヒロインを自称し、歴史を弄ぶ。妖魔の中の妖魔だ。
 究極のナルシシズムかもしれない。人を巻き込むので、迷惑だったが。
 マリー・アントワネットもそうだし、マリリン・モンローもそうだ。
 見事な絵巻物、見事な美術館の一幕だ。長寿健康、老は美の対極か。

 注156 楊国忠(ようこくちゅう)(生年不詳~756年) 宰相 唐

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺035

大唐の夢 1/5話 長安の冬、朝衡の冬

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