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原書購読:Somnium Scipionis『スキーピオーの夢』ラテン語


ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

 このページはマルクス・トゥッリウス・キケロー(注1)のスキーピオーの夢(注2)の原書購読の紹介だ。原文のラテン語と対訳の日本語がある。全訳で、全語句の詳細な文法解説まで付いている。これほど親切な本はない。この本は、ラテン語の家庭教師と銘打たれているが、全くその通りだ。こういう本は見た事がない。ラテン語をやりたい人にうってつけだ。

 言語:ラテン語/日本語
 表題:ラテン語を読むキケロー「スキーピオーの夢」
 著者:Marcus Tullius Cicero /山下太郎
 出版社:ベレ出版
 発行年:2017/05/25(原典は紀元前1世紀頃)
 ページ:366
 金額:¥4,640(2022/10/15)本体3,190円+送料1,450円(定価2,900円)
 期間:2022/10/27~2024/01/03 一年と二か月と八日(434日間)
 
 Marcus Tullius Cicero(マルクス・トゥッリウス・キケロー)は、紀元前106年1月3日から紀元前43年12月7日のローマ人で、政治家、弁護士、作家、哲学者である。
 
 そのキケローのラテン語を読むのだが、この『スキーピオーの夢』は、『国家』というシリーズものの一巻で、しかもその一巻の2/3ほどしか残っていない。すなわち、第9節から第29節までだ。だが失われた第8節までがなくても、第9節から、本番が始まるので、内容理解に問題はない。ちゃんと終わりまで読める。少なくとも『スキーピオーの夢』は分かる。
 
 一日、五分程度しかかけていないが、読了できた。毎日少しずつ齧った。無論、読まない日もあったが、基本毎日読み、分からなくて、立ち止まる処まで読んだ。複数の外国語を同時に走らせるには、これしかない。気が付いたら、それなりに読めるようになっていた。
 
 古典古代の書籍は、よく肝心な処が失われている事が多いが、これは主要部分が残っているので、読み物として機能する。なので、安心して読めるが、ラテン語に関しては、初級を終えて、中級程度に進んでいないと、読む事が難しい。なので、以下の書籍も推奨する。


ニューエクスプレスプラス ラテン語《CD付》

 言語:ラテン語/日本語
 表題:ニューエクスプレスプラス ラテン語《CD付》 単行本
 著者:岩崎務
 出版社:白水社
 発行年:2018/07/07
 ページ:155
 金額:¥2,808(2019年05月15日)(定価2,860円)
 期間:2021/07/03~2022/10/10 一年と三か月と八日(465日間)

 ラテン語初級の学習書だが、これが一番分かり易かった。古典語だが、CD付きなので、発音も学べる。これを何回も回せば、嫌でも身に付く。全部で20課ある。また最後には、白水社エクスプレスシリーズお決まりの「日本について」の文章が、ラテン語でもある。

 これは楽しかったので、時間をかけて、重点的にやった。何度も同じ課をやり、疑問点がなくなるまでやった。キケローの『スキーピオーの夢』より、時間を掛けていた。これは結果的にそうなっただけだが、ラテン語初級をマスターしたかったという動機がある。

 ラテン語初級を終えて、ラテン語中級以降を学ぶには、以下がよいだろう。


新ラテン文法


 言語:ラテン語/日本語
 表題: 新ラテン文法
 著者:松平千秋、國原吉之助
 出版社:東洋出版
 発行年:1990/04/30
 ページ:482
 金額:¥3,030(2003年10月)(定価3,000円)
 期間:2003/10/16~2004/01/13 三か月と八日(100日間)
    2021/07/04~2022/07/05 一年と二日(367日間)

 大学院時代に授業で一度学習したが、あまり身に付かなかった。大学院時代は古典ギリシャ語に集中していたので、ラテン語はついでだった。最近、再びやり始めて、フランス語との共通性や、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語とのつながりを強く感じている。

 ラテン語を母親とするなら、イタリア語が長女で、フランス語が次女、スペイン語やポルトガル語が三女、四女か。ルーマニア語は五女となる。南欧のロマンス系言語だ。ラテン系の女系家族で、かなり姦しい一家だ。近年は中南米にも引っ越して、南半球にも彼女たちはいる。
 
 ラテン語は、フランス語やドイツ語のような特殊な文字や記号がない。英語と同じアルファベットだ。だがラテン語の方が、英語よりアルファベットの数が少ない。J、U、Wがない。逆にKはある。フランス語だと、Kの音はCに吸収されて、Kは外来語のみである。

 単語もラテン語は少ない。その代わり、少ない語彙で、複数の意味を持つ。古典ギリシャ語もそういう傾向がある。逆に単語、語彙数が最も多いのが英語だ。次にフランス語か。

 近代語でも、英語はかなり特殊な位置付けにある。ITで使う人工言語を生み出しているからだ。最も進化した言語だ。英語の祖先はドイツ語だが、語彙的にはフランス語と共通するものが多い。フランス語の新聞を見ても、英語学習者は、フランス語の単語が1/3くらい分かる。

 ある調査によると、英語とフランス語で共通する単語は、27%という報告もある。なおフランス語とイタリア語で89%、フランス語とスペイン語やポルトガル語で、75%という報告もある。詳しくは、WikipediaのLexical similarityというページを見て欲しい。

 近代語は語順で意味が決まるが、古典語は語の形で意味が決まる。活用と言うが、動詞、名詞、形容詞が複雑に形を変える。だから語順は自由となる。逆に英語は、殆ど語の形を変えないで、一つの単語が複数の品詞となり得る。これは英語だけの特徴で、極めて関数的だ。

 なお拙論、『哲学:現代思想の問題点③ウィトゲンシュタイン』で、この英語の問題は、軽く触れている。興味がある方は、参照されたし。

 18世紀まで、ラテン語は、西欧の国際学術語だった。だから論文もラテン語で書いた。今は母国語で書くが、近代の論文はラテン語で書かれている。だから知らないと読めない。そして多かれ少なかれ、西欧の言語は、ラテン語と共通性があるので、昔はこれで何とかなった。

 19世紀になると、古典古代との一体感より、独立する気風が立ち、各国語が自立した。学問の世界では、ドイツ語が主導権を握り、19世紀、支配権を確保した。ラテン語は廃れた。

 だが近年、復活しつつある。北米や北欧のラジオ局で、ラテン語の放送があるそうだ。あと、ローマ法王庁のラジオ放送、バチカン放送局で、5分間の番組「法王の一週間」がある。

 ラテン語のラジオは、聞いた事はないが、面白そうだ。古典語は長音が多いので、現代人には間延びして聞こえる。だがイタリア語のように発音しているなら、近代語みたいになる。
 
 スマホアプリのDuolingoでも、ラテン語は学習している。あまり身に付かないが、やらないよりはマシだ。昔は苦手なラテン語だったが、徐々に克服しつつある。ただまだ古典ギリシャ語の方ができる。そのため、ラテン語は中級程度だと思われる。
 
 古典ギリシャ語で、genitive absoluteという分詞構文があるが、ラテン語でも、ablative absoluteという分詞構文がある。連続して出て来ると、短い 語句で、勢いよく読める。以下に例を示す。
 
 obsidibus datis et pace facta,
 人質が渡され、平和が成立すると、
 前掲書『新ラテン文法』p167

 人称代名詞が省かれて、動詞だけ置く事ができる。ラテン語の特徴だ。

 Veni, vidi, vici.
 来た、見た、勝った。(カエサルの言葉で、ラテン語で有名な文章)

 ἦλθον, εἶδον, ἐνίκησα,
 来た、見た、勝った。(元々はプルタルコスの『対比列伝』の古典ギリシャ語からの翻訳)
 
 ラテン語の話が長くなった。『スキーピオーの夢』の話に入ろう。
 
 この話は、小アフリカヌス(注3)が夢の中で、祖父である大アフリカヌス(注4)と会い、夢の中で宇宙から、地球を見て語る、という壮大なお話である。

 大アフリカヌスとは、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨルと言い、紀元前202年、ザマの戦いで、ハンニバル(注5)を破った英雄である。すなわち、第二次ポエニ戦争の英雄で、ローマがカルタゴに決定的に勝った時の勝利者だ。

 小アフリカヌスは、『スキーピオーの夢』の主人公である。彼の視点で、お話は進行する。小アフリカヌスは、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌスと言い、第三次ポエニ戦争で、最終的にカルタゴを滅ぼした征服者である。
 
 以下、塩野七生の『ローマ人の物語』から、カルタゴ滅亡のシーンから彼を紹介する。
 
 スキピオ・エミリアヌスは、伝えられるところによれば(つまりポリビウスの伝えるところによれば)、敵のこの運命を想って涙を流したという。
 勝者であるにもかかわらず、彼は想いを馳せずにはいられなかった。人間にかぎらず、都市も、国家も、そして帝国も、いずれは滅びることを運命づけられていることに、想いを馳せずにはいられなかったのである。トロイ、アッシリア、ペルシア、そしてついに二十年前のマケドニア王国と、盛者は常に必衰であることを、歴史は人間に示して来たのだった。
 意識してか、それとも無意識にか、ローマの勝将は、ホメロスの叙事詩の一句、トロイ側の総司令官であったヘクトルの言葉とされている一句を口にしていた。
 「いずれもトロイも、王プリアモスと彼につづくすべての戦士たちとともに滅びるだろう」
 背後に立っていたポリビウスが、なぜ今その一句を、とローマの勝将にたずねた。スキピオ・エミリアヌスは、そのポリビウスを振り返り、ギリシア人だが親友でもある彼の手をとって答えた。
 「ポリビウス、今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち会っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ」
 陥落後のカルタゴは、城壁も神殿も家も市場の建物も、ことごとくが破壊された。そして、石と土だけになった地表は、犂で平らにならされ、ローマ人が神々に呪われた地にするやり方で、一面に塩が蒔かれた。(注6)
 
 ローマ時代のギリシャ人歴史家ポリビウスの文章から作ったと思われるが、印象的なシーンである。塩を蒔くのは、土地を塩化させて、農業ができなくさせる意図がある。現代で言えば、放射性物質を散布するようなものだろう。
 
 この文章では、スキピオ・エミリアヌスとなっているが、スキピオ・アエミリアヌスという読み方でもよい。綴り字的には、Aemilianusだ。彼の紹介は以上だ。
 
 内容についてだが、夢で宇宙にまで行き、そこで天上の音楽を聞きながら、死んだ祖父から、真理の話を聞くという壮大なストーリーである。

 「神も仏もあるもんか!死んだらただの骨だ。世界には物と事しかない」と言う現代人には、かなり抵抗があるシチュエーションかも知れない。だが古代人には抵抗なく、受け入れられるシチュエーションと言える。

 現代人は、昔話だからと言って、真に受けないかも知れない。ただのお話と取るだろう。だがこういう事はある。夢で受け取る典型的な啓示の例だと思うので、今回取り上げた。

 古代人、現代人に限らず、夢は見るし、宇宙にまで招待される事はあるのだ。そこで語られる真理は、体感的に言って、無視できるレベルのものではない。著者キケローも、大アフリカヌスに語らせる形で、小アフリカヌス、つまり読者に、真理を託したのだ。

 因みに、この天上の音楽だが、モーツァルトが音楽化している。すなわち、K.126、『シピオーネの夢』だ。だがこのオペラは、アインシュタインによって、やる気がないと批評されている。モーツァルトも依頼を受けただけで、やる気がなかったのかも知れない。練習作だと言う。
 
 話を戻そう。中心的な議論を、本文から引用する。
 
 13節
 しかし、アーフリカーヌスよ、おまえが国家を守ることにいっそう熱心になるために、このように心得るがよい。祖国を守り、助け、豊かにしたすべての者たちのために、天界には特定の場所が定められており、そこで彼らは至福の者として永遠の生を享受できるのだ、と。

 Sed quo sis Africane alacrior ad tutandam rem publicam, sic habeto: omnibus qui patriam conservaverint, adiuverint, auxerint, certum esse in caelo definitum locum, ubi beati aevo sempiterno fruantur; (注7)

 基本的な議論としては、愛国心の鼓舞を謳っているが、近代国家においては、独裁者に愛国心が利用される事があるので、注意が必要だろう。ただよい国であるなら、祖国のために命を捨ててでも、人々を守るという道は、現代でもある。武士道とかそうだろう。
 
 対立的な議論としては、コーサラ国による釈迦族殲滅戦、カピラヴァストゥの落城だろう。釈迦族は、三帰五戒と言って、仏教を信じ、五戒の中に、不殺生があったため、国防ができなかった。仏教は個人レベルでは救済となるが、国家レベルでは救済にならない。
 
 他の例として、中国で後漢が滅び、三国志の時代の後、中国の六朝時代というのが六世紀にある。隋唐が興きる前の話だ。その中で、菩薩戒まで受けた皇帝がいて、梁の武帝という。この皇帝は、仏教を国教にして、南朝文化を興隆したが、最終的には国が滅びている。
 
 仏教も改革が必要だろう。「祖国を守り、助け、豊かにしたすべての者たちのために、天界には特定の場所が定められており、そこで彼らは至福の者として永遠の生を享受できるのだ」というキケローの議論は、基本的に正しいと思われる。

 だが近代国家では、様々な付帯条件が付く。不殺生、平和思想では通らない。国を守るための殺害は、不殺生の戒律を破る事ではない。これは仏陀が言い損なった事だと思う。関連する小説として、『仏の顔も三度まで、釈迦族殲滅戦』を書いた。興味がある方は参照されたし。

 14節
 このときわたしは、死の恐れよりもわたしの近親者による陰謀の恐怖にひどくおびえていたが、しかし尋ねた、彼自身や父パウルス、そしてわたしたちが死んだと考えているような他の者たちが生きているのか、と。「もちろんその通り」と彼は言った。「これらの者は生きている。彼らは身体の束縛から、あたかも牢獄からのように飛び去ってきた。しかし、おまえたちの生と呼ばれているものは死である。どうしておまえには見えないか、おまえのほうにやってくる父パウルスが」彼を見たとき、わたしは多くの涙を流したが、しかし、彼はわたしを抱いて口づけをし、泣くことを繰り返し禁じた。
 
 Hic ego etsi eram perterritus non tam mortis metu quam insidiarum a meis, quaesivi tamen viveretne ipse et Paulus pater et alii quos nos extinctos esse arbitraremur. Immo vero inquit hi vivunt qui e corporum vinclis tamquam e carcere evolaverunt, vestra vero quae dicitur vita mors est. Quin tu aspicis ad te vernientem Paulum patrem ? Quem et vidi, equidem vim Iacrimarum profudi, ille autem me complexus atque osculans flere prohibebat. (注8)

 小アフリカヌスは生前、陰謀による殺害を恐れていたと言われている。死んだ時、ベッドで見つかったが、不審死とされている。近親者による陰謀の恐怖とは、そういう事だろう。
 
 この節では、平たく言えば、死後の世界はあるという話をしている。夢の中で、死んだ父と会い、そういう話をしている。死者が夢枕に立つという話は、古今東西尽きない話だ。これは議論を待たない。素直に真実として、受け止めてよいだろう。
 
 26節
 したがって、おまえは自分が神であると知るべきだ。もし実際、生命力をもち、感じ、記憶し、予見し、さらに、あの最高の神がこの宇宙にそうするように、自分が監督する身体を支配し、統治し、動かす者が神であるならば。そして、不死なる神みずからが、ある部分は死すべきものである宇宙を動かすように、不滅の魂が脆い肉体を動かすのである。
 
 Deum te igitur scito esse, siquidem est deus qui viget, qui sentis, qui meminit, qui providet, qui tam regit et moderatur et movet id corpus cui praepostus est, quam hunc mundum ille princeps deus ; et ut mundum ex quadam parte mortalem ipse deus aeternus, sic fragile corpus animius sempiternus movet.(注9)

 このラテン語の本の問題点は、哲学的な解説がない事である。著者はラテン語の先生なので、哲学は専門ではないかもしれないが、ここは和訳だけでなく、解説が欲しい処だ。そうでないと、一般読者には、意味が分からない箇所となる。
 
 「おまえは自分が神であると知るべきだ」という文章だが、平たく言えば、人間には仏性があると言う話だろう。フランス語で言えば、la nature、人間の本性と言う。神と人間は、根底において同根だという考え方は、洋の東西を問わずある。ドイツ観念論もそうだ。
 日本語の日常会話の中でも、「人間には良心がある」という言い方があるが、それに近い。
 
 後半、「最高の神」「不死なる神」と言う文言が見える。そして動かす者と動かされる者の対比が見られる。(「動かす者が神であるならば」という文言)これは一体何を言っているのかと言うと、アリストテレスの不動の動者(τὸ κινοῦν ἀκίνητον)の事を指している。
 
 アリストテレスの形而上学において、動かす者と動かされる者という関係の中で、第一の原因となる者が存在する筈だという議論がある。そして第一の原因は、他の何者にも動かされないので、それは神であるという議論である。キケローは、ここでその話を援用している。
 
 神は目に見えず、魂も目に見えないが、目に見ないから不死であり、目に見える物は不死ではなく、可滅的であるという議論は、西洋の古典古代では、繰り返し出て来る議論である。これはソクラテスの対話禄だけでなく、アリストテレスの形而上学も同じだ。

 余談だが、関連する小説として、『クサンティッペ、ソクラテスの思い出』を書いた。プラトンの同人誌か、偽古典である。時系列としては、『ソクラテスの弁明』と『クリトン』『パイドン』の間に入る話として作った。クセノフォンやディオゲネス・ラエルティオスに寄せて書いている。興味がある方は参照されたし。
 
 29節
 じじつ、みずからを身体の快楽にゆだね、それらのいわばしもべとして自身を差し出し、快楽に従う欲望の衝動によって神々と人間の掟を破った魂は、身体から滑り出したとき、地球そのものの周りを転がり回り、多くの世代にわたって苦しめられないかぎり、この場所に戻れない。彼は去った。わたしは夢から覚めた。
 
 Namque eorum animi qui se corporis voluptatibus dediderunt, earumque se quasi minitros praebuerunt, impulsuque libidinum voluptatibus oboedientium deorum et hominum iura violaverunt, corporbus elapsi circum terram ipsam volutantur, nec hunc in locum nisi multis exagitati saeculis revertuntur. Ille discessit ; ego somno solut sum.(注10)
 
 これは一体何の話をしているのかと言うと、地獄の話をしている。「地球そのものの周りを転がり回り」という文言は、あまり正確ではないが、地球には、地球霊界があり、地表とその地下に広がっている地下世界は、地獄と呼ばれ、夢の中でも出て来る通りである。
 
 地獄は夢で、皆知っている筈だが、現代では存在しない事になっている。夜、寝て、ゾンビに追いかけられるとか、アレである。真っ暗闇の中で、魔法で戦闘を行うとかもそうだ。アレはゲームの夢ではない。リアルだ。
 
 地獄は、現代だからと言って、なくなる訳でない。むしろ、増えている。行き過ぎた過度な理性主義のせいで、死んで迷い、地表を彷徨う人影となるか、そのままストンと地獄に堕ちて、夜な夜な人の夢に出て来る化物と成り下がる。嫌な話だ。誰だって聞きたくない。

 「神々と人間の掟を破った魂は」という文言があるが、基本的に地獄に行く人と言うのは、神様、仏様との約束を破った人が行く世界である。

 地上に生まれた人は全員、神様、仏様と約束している。基本的に忘れているが、それを何とか無意識でも思い出して、神様、仏様との約束を果たす事が、天国に行く道である。今更、そんな話は聞きたくないかも知れない。

 だが誰もが聞きたがらない昔話にこそ、真実が隠されており、このキケローの2,000年前のラテン語の著作にもそれがある。ラテン語だからと言って、学問とは限らない。これは夢の話であり、夢で見た啓示の話である。これは時代を超えて、現代でも人々に起きている話である。

注1 Marcus Tullius Cicero(BC103~BC43) Rome
注2 『Somnium Scipionis』Marcus Tullius Cicero 
注3 Publius Cornelius Scipio Africanus Aemilianus(BC185~BC129) Rome
注4 Publius Cornelius Scipio Africanus Major(BC236~BC183) Rome
注5 Hannibal Barca(BC247~BC183) Carthago
注6 『ローマ人の物語 ハンニバル戦記「下」』塩野七生著 新潮文庫 p199~200
注7 ラテン語を読むキケロー「スキーピオーの夢」山下太郎著 ベレ出版 2017 p85
注8 前掲書 p95~104
注9 前掲書 p284~289
注10   前掲書 p326~331

                           原書購読:003 
 

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