「現在の時間と過去の時間はおそらく共に未来の時間の中に現在し、未来の時間はまた過去の時間の中に含まれる。あらゆる時間が永遠に現在するとすれば、あらゆる時間は償うことのできぬもの。こうもあり得たと思うことは一つの抽象であり、永遠に可能態以上のものではなくただ思念の世界にとどまる。こうもあり得たと思うことと、こうなってきたこととは常に一つの終わりに向かう」。 上の文章は、T.S.エリオットの詩『四つの四重奏』の始まりの言葉である。エリオットはこの難解な詩において、時間について
第一章 ディストピア 鴻巣氏は最近のディストピア文学の興隆の原因に世界的な右傾化、スノーデン氏による米国の国際監視網のリーク、トランプ政権の誕生を挙げている(2022年12月の時点)。ディストピア三原則の政策がある。国民の婚姻・生殖・子育てへの介入、知と言語(リテラシー)の抑制、文化・芸術・学術への弾圧である。現代のディストピア小説の代表がマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』と『誓願』であり、未来小説とは未来ではなく今ここにあるものを時空間や枠組みをずらして描いた「現
都へ戻ったゲンジは住吉神社に巡礼に出かける。まさにその日にアカシのレディも出産の禊を受けるために来ていた。二人は和歌を交わすが逢うことは出来なかった。帰ったゲンジはロクジョウのレディを見舞うが彼女は娘アキコノムを託して亡くなった。 新しいエンペラー・レイゼイには二人の妃が仕えることになった。レディ・チュウジョウとプリンセス・アキコノムである。ある日レイゼイのもとで絵合が行われた。ゲンジが須磨で描いた絵が最後に捧げられ、プリンセス・アキコノムの勝ちになった。 それからしば
この物語は約100年前にアーサー・ウェイリーが英訳したものを毬矢まりえ氏と森山恵氏が現代の日本語に戻し訳したものである。第一印象は読みやすいということである。源氏はシャイニングプリンス、桐壺帝はエンペラー、夕顔はユウガオ、紫の上はムラサキとなっているが違和感はなく、すんなりと物語の中に溶け込んでいる。 「桐壺」から「明石」までが収録されている。ゲンジは父の妃フジツボに恋をするが、元服してアオイと結婚し癒やされない想いを抱え続けることになる。人妻ウツセミは一度は関係を持つが
孤独であるということは、自分の心の奥底にあるろうそくの炎を見つめることである。この世界の中で自分という存在がたった一人だということを見つめることである。自分と対峙することで思考と感性を見つめ直し、独自の言葉を生み出す。それは、自分の内奥に存在する炎を燃やすことでもある。 私達は孤独を見つめることに慣れていない。自分の言葉を生み出すことに慣れていない。情報に埋もれ、知識に埋もれ、自己を見失うことに慣れている。けれども、果たしてそれは本当に幸せなのだろうか?孤独や寂寥の中で思
小説を書くということは、自分が今まで味わって来た言葉にならない感情を言語化すること。自分が今まで味わって来た喜びや悲しみや希望や絶望を登場人物達に託すこと。それらは全て私の過去の記憶の底に眠っていて、外に出ることを夢見ている。
「あるものと別のものとの、私たちが予期するような、目覚めているときの私たちの関心をひくような類似性は、夢の世界のもっとも深い類似性の周辺にちらつくものにすぎない。夢の世界では出来事が、決して同一のものとしてではなく、似たものとして、つまり見分けがつかないほどそれ自体に似たものとして出現する」。この言葉はベンヤミンの「プルーストのイメージについて」に収録された言葉である。 私たちの覚醒と睡眠の狭間に夢があり、それは現実から遠く離れている。覚醒時の私たちが抱く類似性は夢のなかの
「私たちは過去をなかったことにできないのと同様に、過去を克服することもできないが、過去を受け止めることはできる」。アーレントの言葉である。 私達はよく、過去を克服すると言うが、それは本当に可能なのだろうか?過去とは過ぎ去った歴史のことであり、勝者の記録である。けれども、敗者にも彼らの歴史があり、記憶として残り続ける。それらは勝者に断罪され粉々になっていても敗者の心に誇りとして存在し続けるのである。記憶とは勝者に改ざんされなかった記録でもある。 過去を克服するとは、過去に起
「人間はまさしく思考するかぎりでのみ、すなわち時間による規定を受け付けないかぎりでのみ、自らの具体的存在の完全なアクチュアリティ、つまり過去と未来の間の裂け目に生きる」。ハンナ・アーレントの言葉である。 過去と未来の間の裂け目は近代の現象ではなく、地上に人間が存在したのと同じくらい古い。この時間の裂け目は精神の領域にあると思われる。個人的にはバタイユの言う「深淵」に近いと思う。 私達は存在と存在の間に深淵と非連続性を持つ。それは横の繋がりの間にあるが、縦の繋がりの間にも裂
「個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。ある存在と他の存在との間には深淵があり、非連続性がある。この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話をしている私との間にも在るのだ」。ジョルジュ・バタイユの言葉である。 私達は一人で生まれ、一人で死んでいく。ジャンケレヴィッチの著書『死』に書かれているように。「あらかじめ有限である生を満たすものとは神秘的な愛だ」と彼は述べたが、本当にそうなのだろうか?生が有限であるのは事実だが、それを満たすのは神秘的な愛なのだろ
「考えるとは注意深く直面し、抵抗すること」。ハンナ・アーレントの言葉である。この短い言葉には思考するという行為の本質が詰まっている。 注意深く直面するというのは、事象を鵜呑みにしないように事実と解釈に分けることである。私達はある事象に直面すると、すぐにその事象が表す答えを求めがちである。けれども、物事には様々な面が存在する。事実をすくい取って、そこから解釈を切り取ることが必要になってくるのである。 抵抗するというのは、その事実に対してである。その事実が何から起因したのか、
愛とは他者を理解したいという願望である。他者に理解されたいという願望である。けれども、理解する前に理解されたいと望む人が多過ぎる。私自身も含めて。 他者を理解するためには自己を理解することが必要である。自分の本質とは何か、人を愛するとはどういうことか、私は愛する人のために何が出来るのか、私は自分を愛しているのか。最後の自分を愛することとナルシズムとは似て非なるものである。私達は自分を愛することが出来て初めて他者を愛することが出来るようになる。自己を肯定出来ない人間が他者を
「我々の苦悩は、とことんまで経験することによってのみ癒される」。フランスの作家プルーストの言葉である。 私達は様々な苦悩を体験しながら、子供から大人になり、やがては年老いて死んでいく。苦悩と無縁の人生を送れる人などごくわずかだろうし、いたとしても幸福とも無縁だろう。苦悩を経験しない人間は幸福も経験しない。それが太古から存在する自然の摂理である。 苦悩と言っても様々な種類のものがある。家族や恋愛に関するものや金銭や仕事に関するもの、別離や病気に関するものや老いや死に関するも
「自己の中に深く没入すれば、自分の求めるものがそこにあることを知る」。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの言葉である。 私達は求めるものは自分の外側にあると考えがちである。恋人や友人、知識や情報、洋服や本など。けれども、本当にそうだろうか?それでは私達の内側には何も存在しないのだろうか? 確かに自分の内部を見つめるのは恐ろしい。自分の暗闇に気付くことだから。自分の中の空虚さに気付くことだから。 ギリシャの哲学者達が求めたのは真理(イデア)である。イデアさえ見つかれば、私
「情報は、それがまだ新しい瞬間に、報酬を受け取ってしまっている。情報はこの瞬間にのみ生きているのであり、みずからのすべてを完全にこの瞬間に引き渡し、時を失うことなくこの瞬間にみずからを説明し尽さなければならない」。ヴァルター・ベンヤミンの言葉である。 現代社会は情報社会とも言われる。私達にとって大事なのは情報を誰よりも速く入手することであり、それを利用して付加価値を付け加えることでもある。たとえば遠くの国で起こっている経済破綻のニュース、たとえば好きなファッションブランド
「真理は、破砕せんばかりに時に充電されている。この破砕が、ほかでもない、志向の死であり、この死はつまり、ほんものの歴史的時間、即ち真理の時間の誕生と同時に起こる。この瞬間、志向は死ぬ」。 ベンヤミンはピレネーの山中で自殺したが、彼の言葉は死ななかった。それは彼が真理の時間に到達したことの証左ではないだろうか? 私達は真理(あるいは真実)を追い求めながら生きているが、ほとんどの人間は真理とは邂逅せずに死ぬ。その理由はほんものの歴史的時間が誕生した瞬間に、私達はそれに気付かず