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思考するという行為

「考えるとは注意深く直面し、抵抗すること」。ハンナ・アーレントの言葉である。この短い言葉には思考するという行為の本質が詰まっている。
 注意深く直面するというのは、事象を鵜呑みにしないように事実と解釈に分けることである。私達はある事象に直面すると、すぐにその事象が表す答えを求めがちである。けれども、物事には様々な面が存在する。事実をすくい取って、そこから解釈を切り取ることが必要になってくるのである。
 抵抗するというのは、その事実に対してである。その事実が何から起因したのか、他の事象と何らかの関係性はないのか考えることである。それは認識にリアリティを与えるためにも必要なのである。私達は、ある事実に対して一つの解答で満足することが多い。けれども、それは本当に問題の解決になっているのだろうか?思考するというのは、疑い、そして数ある解答の中から最も妥当な判断を認識することである。
 徹底して疑い、徹底して思考すること。それがアーレントが辿り着いた答えである。孤独の中で、自己と対峙して自分の直面する問題に答えを見つけること。それは生半可な覚悟では出来ない。思考するという行為は、自分を裸にすることに似ている。自分の理性を最大限に活用して、鏡に映る幻影を一つずつ剥がしていくことである。自分の自由をあらん限り利用して、他者とは異なる認識に辿り着くことである。
 アーレントは何故、ここまで思考することにこだわったのだろうか?無思考を忌み嫌ったのだろうか?彼女にとっては、無思考=悪そのものであった。多くの人々が思考を放棄し、全体主義に巻き込まれていく様子を間近に見ていた。だからこそ、無思考が人間性の剥奪に直結することに危機意識を募らせていたのだろう。
 思考することは時にはとてつもない重荷にもなる。他者とは違う認識を持つこと。それがいくら正しくとも、弱い自我の持ち主なら思考を放棄してしまうだろう。思考することに必要なのは頭の良さではない。世界中を敵に回すことも厭わない、強靭な精神なのだ。アーレントにはそれがあった。
 思考するという行為は時に孤立を招く。それでも、私達は真実を知りたいという欲望を持つ。それは孤高の人生かもしれない。けれども、他者とは違う観点から事象を眺めること。それは私達の人間性の証明そのものなのである。

          fin

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