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「対岸の彼女」読後感~女の友情について考える

昨日の午前中、夢中になって一気に読み始め、3時間ほどで読み終えてしまったのが、2005年に第132回直木賞を受賞した「対岸の彼女」という本。

約20年前に書かれた本であり、当時話題になってとても気になっていたけれど、ちゃんと理解するにはその頃の私はまだ若すぎる気が気がして、何度か買おうかなと思ったけれど、今よりお金もなかったし一旦保留にしていた。
気が付いたら私の年齢が主人公たちに追いつき、追い越していたこのタイミングで偶然書店で目にして先日購入に至った作品である。

結婚する女、しない女、子供を持つ女、持たない女、それだけのことで、なぜ女どうし、わかりあえなくなるんだろう。という、まさにリアルに日々感じでいたテーマ。

約20年前の私は、約20年後に自分がこのテーマで悩むことを想定して予習をするような気持ちで興味を持った。

自分はどちら側にいるんだろ。どちらが自分にとって正解なんだろ。どうしたら今いる大好きな友達とずっと仲良くし続けることができるんだろ。そんなことを漠然と不安に思っていた。

社会構造や女性の働き方、ジェンダー観などは20年間で大きく変化したように感じる。なので、2024年の価値観のまま読むと理解しづらい部分もあるが、根底のテーマにある女性の友情についての機微や、女性特有のみぞおちがチクチクような目に見えない空気感に関しては普遍的であると思う。

多様性とは言うけれど、立場が違うと同じ状況にいても、こうもその状況が意味することが異なるのか、と怖くもなった。

そして、一瞬にして訪れる亀裂。女の友情は時として悲しいくらいに脆い。こんなに切なく危ういものなのかと心がえぐられて辛い場面も多かったが、更に読み進めると大きな希望に包まれ、人を信じること、つながることによって内側からじわじわと温まるような感動をおぼえた。


中高時代、親友がいた。
他にも少ないけれど数人、とても仲良くしてくれた人たちもいて、それぞれの友人たちとの時間がとても貴重で楽しかったが、その親友とは中2から高3までべったり2人きりで過ごすことが多かった。

中1の終わりごろから洋楽や海外の映画、ドラマなどに興味のあった私は、あまりその趣味をディープに共有できる相手がいなかったが、その方とはたまたま趣味の方向性が同じで、何時間一緒にいても、話が途切れることはなく、とても気が合うし、一生の友達でいられるかなと普通に信じていた。

2人とも学校行事が苦手だったので、文化祭や体育祭の時にこっそり抜け出して校舎の裏の人の来ない場所でおしゃべりしていたり、放課後デパートの屋上でマックを大量に買い込み(当時、ハンバーガーが1個60円くらいだった)、何時間も音楽を流しながら語り合っていた思い出。

純粋に友情で結ばれた関係であるが、ある意味恋愛関係にも近いような親密さがあり、特別な信頼と絆を感じていた。

高3の3学期は受験期のため、ほぼ登校日がなかった。他の友人たちとはちょくちょく連絡を取り合い、受験勉強の息抜きにメールを送って励まし合ったり、おそるおそるお互いの受験結果を聞きつつ、卒業旅行の計画を立てたりとコミュニケーションを取っていたが、その友達にはなんだか連絡しづらく、向こうからも音沙汰なく、過ごしていた気がする。

それぞれ大学に進学すると、当たり前だが更に会う機会が減った。同じ学校に通っていた頃は、当たり前のように毎日のように一緒に過ごしていたけれど、たまに週末会うくらいになり、これまでは途切れなかった会話もなんだかぎこちなくなって、だんだんとお互いの世界が離れていくように感じた。

お互いに、今までのイメージを覆すような趣味を始めたり、それまでとは全く違うタイプの新しい友達を作ったり、行ったことのないような場所に行くようになり、どんどん話が合わなくなって、距離が生まれてしまった。

結婚するとか、しないとか、子どもを持つとか、持たないよりもずっと手前の段階だけれども、お互いの立場が変わり、同じ状況を同じと思えない感覚になってしまったことが亀裂の原因かもしれない。

もしかしたら私がなにか不快にさせるような発言をしたのかもしれないが、それもわからない。大学2年生になる頃には、もうまったく連絡を取らなくなってしまった。そのまま自然消滅。

今でも思い出すととても鋭利に胸が痛むため、なるべく思い出さないようにし、記憶ごと封印しているが、時々その当時一緒に聴いていた音楽をどこかの店で耳にしたり、何度も一緒に観て盛り上がった大好きだった映画が動画配信のコンテンツに出てきたりすると苦しくなる。

不思議なもので、何年間かブランクがあっても前に会ったのが昨日であったように違和感なく接し、話すことのできる人たちもいる。そして、その人たちとは、当時に戻ったみたいに同じように楽しく時間を過ごせるからずっと友達でいられる。

時間の壁だけでなく、それこそ同棲、結婚、別居、離婚、妊活、出産、子育て、仕事、転職、専業主婦など、さまざまな時期をそれぞれが経験する中で、お互いの人生を共有しながらつながり続けることのできる友人たちもいる。

もちろんライフステージの変化に伴い、価値観や考え方が互いに変化している。だが、彼女たちとは「立場」を超越してベースの人間同士として付き合うことができているし、「立場」が違うからこそ可能な情報交換などを楽しめていると私は思う。

一方で、同じ場所に所属して、同じ環境を共有していないと、関係性が保てなくなる人たちもいるのだと、年齢を重ねるにつれて悟った。昔、同じ職場でとても仲良くしていた人たちも、習い事を一緒に頑張っていた仲間も、趣味を共有していた人たちも、「立場」が変わった瞬間から他人になってしまった。

あんなに仲良くしていたのに何故?と思って連絡を取ったりするが、向こうは会う気すらない。私とはたまたま同じ「立場」を共有していたから一緒にいただけなのだ。そんな経験を何度もした。心底悲しいけれど仕方ない。

遠距離恋愛が上手くいかなくなるのも似ているのかもしれないと思う。だんだんと熱が冷めていき、とても寂しいが、もう失った時間は取り戻せないのだ。終わってしまった関係性にしがみつき、執着しても過去は取り戻せない。裏切りなどとは違う。

私は同窓会などに行くタイプではないし、その友達もたぶん来ないだろう。
本名でのSNSもやらないし、ネット上で再会することもない。
だから、とても確率は低いけれど、それでもきっと、いつか、またどこかで会えるような気もする。でもやはり、なにを話せば良いのかわからない。

人と出会い、親しくなること。どんな関係性であれ、またいつか亀裂が生じることにより傷を負うかもしれないと思うと、その出会いを遠ざけて心を閉ざしたくなることもある。

だが、たとえ傷を負ったとしても、その傷が未来の自分を創る力にもなるかもしれない。ちょっとした勇気が熱を生み、それがおおきなパワーへと育っていく可能性もある。だから、辛くても、意味のない過去なんてないのかもしれないし、人の温かさを信じてつながろうとしてみるのは悪いことじゃないと、読後感の余韻のなかでふと思った。

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