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内なる声より、生と死を結ぶ

💡このnoteは、THECOACHアドベントカレンダー2023夏 ”コーチたちの点と線” という企画に際して、作成したものです


最近、死というテーマが浮かぶ。

あるオンラインコミュニティの月例テーマが「死」だったり、友達から414(よいし ≒ 良い死)カードを教えてもらったり。

自分の人生に、フラート(ふと起こる繊細な感覚、気付き。夢のかけらのようなもの)として立ち現れている。ような気がする。


死を考えることは、”生きる”を深める。そんなことを聞く。

思考のゆうえいをしながら、そのまま、ふよふよnoteを書き始めます。わたしが、わたしのために書いたものです。


このnote、気付けば9,000字を超えてしまいました。あちゃ〜🥹

のんびり、ほどほどの距離感で。ひとつでも印象に残るトピック、キーワード、エネルギーと出会えましたら、わたしも嬉しいです。

A面:死を考える

死を考える1: 10の問い

最近、どんなわたしが死を迎えましたか?

地の時代的な、MIMIGURIさんで言うところの軍事的世界観で出世していくじぶん。死にかけ。

それこそ惑星が逆行しながらも、長期滞在しながらテーマを消化していく。このパターンでいけるところまで、辿り着いたかなあって思った。

そのスタイルは、もう良い。

自分のパワフルさ、ポテンシャルが広がって、信頼していく素材がたくさん集まった。死、というより輪廻転生。

急流のようなエネルギーの使い方から、大河のような穏やかでどっしりしたエネルギーの使い方へ。


自分自身の死について考えると、どのような感情が湧き上がりますか?

感謝。わたしとして生まれたこと、たくさんの愛を受け取ってきたこと。学びの旅路を経て、魂がまた育まれ、次の旅へ向かう。

体が役割を終え朽ちるとき、痛みなく旅立つことさえできれば、十分幸せだなと思う。

わたしは魂が存在すると考えていて、肉体が役割を終えて魂がまた旅をするように捉えています。


自分自身の死後、人々がどのように自分を記憶すると思いますか?

面白い、楽しい、憧れ、尊敬、ユニーク、生き方がアートだった、不思議、これまで出会ったことがない、宇宙人のよう

わたしのことを語るとき、人々がつい笑ってしまうような、そんな記憶をするでしょう。平成と令和(が何年続くかは知らんけど)のレオナルド・ダ・ヴィンチって言われて死ぬ。


死に直面したとき、後悔しないように今何を変えるべきですか?

自分のサイズ感を見誤らず、未体験ゾーンにドキドキしながらアクセスし続ける。そして、自分の世界を拡張し続ける。

今世、もう後悔することはない気がしていて。必要なときに必要な選択をするだろうし、そうでない道を進むと強制的に見えないなにかによって、進む線路が組み替えられているだろうから。大丈夫。


死を意識することで、人生の優先順位はどのように変わりますか?

いま時点で優先順位は変わらないけど、その遵守度合いが変わるかなあ。自分の楽しいを満たし続けることを最上位にして生きていきたい。

同時に、楽しくないと思ったタイミングでやめる、転換する。

同時に、家族やパートナー、そういうわたしの大切なひとたちの優先度は高めたいようになってきました。


自分自身の死後、残された人々に何を遺したいですか?

特にない。わたしはわたし、ひとはひと。みんな自分の人生のオーナーとして生きてゆこうぞ。


自分の人生に作品タイトルをつけるとしたら、なんですか?

ちきゅうゆうえい by うちゅうじん


死を受け入れることで、人生において何が重要で何が些細なことと感じるようになりますか?

重要:
変革や挑戦(をお迎えし続けること)、新しい景色を見る、自覚的でエネルギーが乗った一瞬の繰り返し、いのちの悦びの高速フィルム、創造、色んなことが水平垂直に深まること、愛の循環、安心安全、楽しい

些細:
貯金、保身、誰かのニーズに答えること、NOをすることの懸念、暗黙のルールや望ましいあり方の遵守、リスクを気にしてやめる、一時の反対や抵抗、ジャンキーな関わり


死を考えることで、自分自身の人生の目的や使命は明確になりますか?

明確になってはいくとおもう。ただ、「明確になった」ということは無いとも思う。なぜなら人生の目的や使命というものはアップデートされていって良いものだから。

というか、人生の目的や使命はなくても良いものだと思う。こういうのは、結果こんな感じだったな〜って死ぬ間際にちょっぴり分かったような気がする、くらいでちょうどよい。

一方でわたしは今世ではどんな体験をしたくて、どんなビジョンを見たくて、何を意図して生まれたのか、はよく考える。同時に、それが明確になるのは死んだときだと思う。

そんな感じで、両面からみている。


死の不可避性を受け入れることで、現在の人生に対してどのような感謝や喜びを抱くようになりますか?

日々の一瞬にいのちが宿る。嬉しいや、しあわせがいっぱいになる。ごはんおいしい、観葉植物が元気でうれしい、ぼーっとできて嬉しい。

わたしとして生まれてきたことが愛しい。たくさんのひとから応援され続ける特権があって嬉しい。素敵な人たちにばかり出会えて嬉しい。

色んなことで才能を発揮するポテンシャルがあって嬉しい。(そういう特権があるのだから、それを活かしてもいきたいね)

今世は人間として生まれたのだから、非具象の具象化を担う事ができる。このちきゅうをゆうえいしながら、どんな具象化を通じてちきゅうのアウェアネスを引き上げていこうかな?



死を考える2: わたしの家族、いずれ死ぬ家族

わたしの家族は、ちょっと複雑扱いされる。

父と母がコアメンバーで、父親違いで外国籍&海外在住の姉が2人サブメンバー。姉1の家族である義兄、甥っ子×2はサブメンバーの端っこでふよふよしている。

我が家は機能不全家族であった。喧嘩の絶えなかった両親。父はいつも怒っている人、母は現状の不満が積み上がっていつも心が日本にいなかった。(ように私の目には見えていた)


※2023/07現在では個人、家族の発達がそれぞれ進み、私にとっていつだって居心地のよくない場所ではなくなったし、しばしば安心を感じられるひとつの場所にもなりました。わたしもまた
、家族の愛を、受け取れるようになってきたのかもしれません。


私の家族は、お互いが何を考えているのかをシェアしたり、好きなことや嫌いなことを分かち合ったりすることをあまり経験していない。家族の一体感、連帯感、という感覚が弱いかもしれない。


私が社会人1年目のとき、我が家族はひとつのクライシスを迎えた。その時期まで、私のなかで、家族というものは緊迫しているものだと思っていた気がする。

両親はお互いをアタックして、現状に対する不満や悲しさや怒りを解消することが出来ず、私は両親から無条件に愛されるという確信やつながりを体感出来ていない。と感じている。

日本での家族体験はそんな感じ。


母が生まれ育った台湾での家族においても、私の”ぼんやりとした独立感”はそれほど変わらなかった。前述の緊迫感は無いけれど、なにより台湾にいると、言語の壁により、家族の会話内容が分からない。

姉は歳の離れた小さい妹の私をかわいがってくれて、都度日本語で話しかけてはくれた。台湾は親日国家なので、親戚も街中でも小さい日本人に対して、皆優しかった。

私が物心がついたときから、母は毎日姉たちとたくさん電話していて、その時から何を話しているのか???だったし、知ろうとも思わなかった。と思う。私の記憶では。

そういう体験から、母はそこにいるけれどいない、みたいな感覚がずっとあった、と思う。(姉は姉で、基本日本在住な母を独占する妹に対して少なからず嫉妬や羨望があったのかもしれない)

これが、ざっくりと私が家族というものに対する印象や得てきた感覚。


(わたしはわたしで、親から、あまり自分の話をしない子供だと思われているみたい。ちょっと恥ずかしがり屋だとも、思われているかもしれない。どう思われているんだろう。あまり考えたことも、気にしたこともなかった。いつか聞いてみようかな。)

その後20代中盤を過ぎて、ふと両親の死を考えるようになった。

両親は明日、突然死ぬのではないか?と急に思うようになって、帰省する頻度を上げたり、何か贈り物をしたり、気が向く範囲で電話したりしている。(それでも両親目線では、あまり連絡をしてこない娘だと思っているみたい)

両親の死を急に意識し始めた2〜3年前、漠然と怖くなり、意識するたびにシクシク泣いていた。両親がいなくなったら、なぜだかわたしはほんとうに世界で一人ぼっちになる気がした。

同時に、両親が死ぬまでに自分の家族はなんだかんだ幸せだったなあという想い出を作りたくなった。

私自身の精神性が育ってきたことで、両親それぞれに対して感じることや気付くことが変わってきたり、同時に両親も変化しているところがあるなあと感じる。


さて、いまはどうだろう。親の老い、やがてくる死について。悲しさはあれど、世界で孤独になることはもう無いのかもしれないね。

全員が不器用で、家族を作っていくということに不慣れな、わたしの家族の話。


ちなみにこれ、泣きました。こういうの泣いてしまう。


死を考える3: とどのつまり、いまを生きる

ここまで4,000文字くらい使って死を考えてみたけれど、死からどう生きるか考えることは、いまの私にはあまり合ってないかも、と気付きました。いまさらすぎる。笑

いまの自分は、『いま、まさに』といった一瞬の連続に目を向けていて。それは、未来も過去もスコープアウトしていて。その瞬間に発生するものを信頼し、自分でもよく分からない場所へ運ばれていくあり方にシフトしてきた。

ともすれば、どんな死に方をするかは自分がコントロール出来るものではなくて結果論でしかないなあ、って再認識した。

ヒトがコントロール出来ない、宇宙レベルでの大きな流れ(タオとも言われる)を信頼して、起こることを信頼して。

そのさなかにどのような死を迎えたとしても。それはそれで、美しいアートになるのでしょう。

終わりがあるから美しい。どのような終わりでも。

美しく幸せである人生を願われ、今世は人間で生きることになったわたくし。なんだか沁みて、泣いちゃうな。


良きアート、生きた作品を創造していきたいな。うむ。


B面:生きるを味わう

昨年末、おかだいひょう&こっちゃんがコ・リードして開催されたTHECOACH振り返りワーク(正式名称忘れちゃったごめん)。

私は、「生の実感」というキーワードを2023年に向けて、びゅ〜んと紙飛行機で飛ばしていたんだよ。


生きるを味わう1: 30年培ったアイデンティティから押し出されて

23年5月中旬からメインの仕事を休職という形で、一時休止した。

私はとある企業で部門長を務めていて、10数名のメンバーのリーダーをしていた。

彼らメンバーたちは月曜に私の休職を知り、その週の金曜に私は休職開始となったので、急展開のなか温かく送り出してくれました。

なにより、ボスは「なるはやで休みに入ろう」と言ってくれて、「たくさん寝て、休んで、美味しいものを食べて、、」とお父さんみたいな優しさを渡してくれました。

休暇中にも、メニーメニー、たくさんの愛ある関わりや想いをくれたこと。わたし、しあわせものだなあって思ったのです。

そんな素敵な同僚の皆さんに深い感謝を述べてから、以降は自分自身にのみフォーカスして綴ります。



己に起きていたのは、環境への過剰適応、無意識のまま自動最適で動くロボット化、感情の周縁化、境界線の溶解。

昔から人が、集団が、何を望み求めているのかが、私は直感でよく分かる。というか自分の意識に入り込んでくる。

マネジする側からすれば、とても楽で使い勝手よく、頼れるメンバーだろう。わたしは自分がプレイヤーとして、ドラフト1〜2位でほしい人材だと思うもの。


次第に、自分のいのちが望む生きるはやさ、味わいと、環境のはやさのギャップが大きくなり、押し出されるように人間社会から自分を切り離した。

休職に至ったのは、自分視点ではサプライズではなく、ずっと自分が望んでいたこと。内なる声が願う望みは、なかなか受け取れずにいると、こうしてはっきり自覚したり受け取れる形で現実がもたさらされていくのだなと感じた。それは、あまりに自然な流れだった。

安心安全な空間に包まれ、あったけれど見えてなかったもの、聞けなかった声が立ち現れる。そうすると、今年のはじめ頃から「休みたい〜」って何度も言っていたの。わたし。

目に見えない領域の大いなるもの(はたまた高次のわたしたち)が「我らにおまかせあれ〜」と現実を動かしたと思っているよ。色んな人が私にメッセージを運んできてくれた。


休職初日から今日まで。「今日は何すればいいんだろう、暇だなあ」「今日もなにか生産しなきゃ」なんて思うことは、それほどなかった。時々は思ったかもしれない。

ひたすら何もしないを握って、散歩して、絵を描きたいと思ったら描いて、飽きたら辞めて、すやすや昼寝して。ときに人と会い、自分の座標を確認した。絵画の展示は活発化して、未体験ゾーンに突入してパニックになったりもした。

ひたすら、内観し続けた。不安が大きくなることもあるけれど、こころとからだが同じテンポでお散歩している、そんな毎日がしあわせだなって思いました。


表情や雰囲気が変わってきたね、と言われる。男性性的な強さから、女性性的なしなやかさへ。

前述の家庭環境より、「人は最後はひとりであり、自立こそ正義である」という価値観を育てたゆえ、物心ついたときには自分のことは自分で切り拓くアイデンティティが強化された。

ゴール設計し、逆算してマイルストーンを引き、リスクヘッジしながらプランBも想定して、確実に動く。(それを徹底実行してきたのだから、そりゃあもうイケてるビジネスパーソンにならないわけがありません)

それは「ひとに頼り、甘え、ご機嫌に楽に欲しい物を手に入れる」というあり方を周縁化した。それぞれの価値観のあいだには、大きな溝があったんだなあ。

だから、周囲を頼ったり、甘えたり、ご機嫌に欲しいものを手に入れていく人に、わたしは反応をしていたんだね。


己のあり方が変わる”通過儀礼”は、振り子のように男性性と女性性の間を行き来した。「本当は、もうこっちがいいんだよね〜」と30年培った男性性から女性性の方へと、少しじつ確実に振り子が傾いていった。

その後、ブランコで反動をつけて飛び降りるように、スコーンと飛び出した。ところてんが押し出されたみたいね。

女性性的なしなやかさ。それは、自分から取りにいかない、クロージングもしない。タイミング、成果など、コントロールしない。

起こることや起きていることを信頼し、待ってみる。目に見える周囲や目に見えない領域に自分を明け渡す。様々な愛を認め、ニコニコ受け取る。ときに待つだけでなくて、内側から満ち溢れた愛を溢れるままに表現したり、差し出された手を握り返してみる。


そんなあり方に、アップデートされていってるの。

OSのアップデートは一度始まったら途中で止めることはできないし、青虫が蛹になったらもう青虫には戻れないのよ。蛹のままでいるか、どんな形になるか分からないけど羽化するしかない。


それって、とっても宇宙的だなあって思う。宇宙は予定不調和が通常モードであって、コントロールしようとするのは人間くらい。

目に見えない大きな流れを信頼して、不思議なことが起きるのを信頼する。静かに、自分の内側から聴こえてくる声に耳を澄ませる。


そんなことを意図して過ごした時間は、伸び縮みする時空間で、精神と時の部屋みたいな。そんな体験を、いま、してるなあと思います。




最近は、穏やかです。

自分のご機嫌を、自分で取る。こころに水をあげて、太陽の日差しを浴びて、疲れてしまったときには全部サボって時期外れの冬眠をする。

ならすと、日々、体力も気力も50%くらい。50%あれば良い、くらいの波のなか。

これから自分が何をするのか分からないし、いまも何してるのか時々分からない。日々の記憶もあまりない。


でも、一瞬一瞬に意識の積み重ねがあり、高速フィルムのように、生きている心地が体感として積み重なっている気がする。

本当に欲しかったもの、願っていること。好きな食べ物を最後に食べるようなわたしが、ショートケーキの苺をまっさきに食べるように。

1番欲しがっているものに気付き、なかったことにしない。そして、最初から自分の視界の中央に舞台を置く。


大いなるパワーを信頼して、わたしはただ願いを”ちゃんとある”ものとして握っておく。ポジティブな波動状態(*1)を維持しながら、ニコニコしながら慈愛の眼差しで、じっくり待つ。

そうしたならば、「こんなことが手に入るなんて思いもよらなかった、でも本当は願ってた、うれしい、しあわせ」みたいなことがやってくる。

その確信を積み重ねている。


そんなことをここまで考えて、安心安全を頼りに、また人生のお散歩をはじめようかしら、という動のパワーがほんのり湧いてきました。でも、怖さもある。もう少し、そのままニギニギしておきます。


生きるを味わう2: Miyuki Sutoはどう生きているか

わたしが、たしかにわたしである。わたしであることを愛しく思う。


身も心も緩めて、優しい笑顔で毎日を過ごしている。

わ〜、なんだか、ぼかぁしあわせだなあって涙している。

じぶん自身、そして、大切なひとたちに対して、やさしくある。

いつだって自分のいのちのポテンシャルの大きさにびっくりして、ワクワクしちゃって、想像以上の創造をしている。

安心で安全なhomeがいつだってわたしにはある。それは自分の家、土地、人など。色んなものをhomeとして、安心して表現してゆける。


かたやエレクトリックガールとして、周囲と世界に衝撃とワクワクを生み出している。そんなのアリ?とか、スケールおかしくて笑っちゃうようなこと、とか。

でも、それってすごい面白いとか、とんでもない変革しちゃってたりとか。

わたし、現代のシャーマンとしても、ダ・ヴィンチとしてもあり続けたい。本質へアプローチすること、変革をもたらすことを意図したときに、固定の役割や肩書きや名前に縛られないヒトでありたい。


Miyuki Sutoは愛の波動のなかで生きている。愛されることをゆるし、愛することを臆さない。

ぽかぽかして、しあわせで、わたしであることを何度も愛して、たくさん涙したいね。わたしを通して、世界に温かい眼差しを向け続けていたい。


cf. 楽しいの高速フィルム


ボーナス・トラック:ミラ

ミラっていうのは、くじら座の心臓あたりにある、1年弱の間に2等級から10等級くらいまで明るさが変化する変光星。”不思議なもの”という意味。

(ちなみにミラは赤色巨大星で、まあまあおじいな恒星である太陽の500倍以上に膨れ上がっている死を待つ星です。安定を失って膨らんだり萎んだりを繰り返して、己の死をいまかいまかと待ち侘びているのだそうだ。)

なんとも、ミラのような日々、人生。


ふわふわしているようで、案外グラウンディング(地に足をつける)してるんじゃない、ワシ。自分を大切にするっていうことがなんなのか、分かってきたんじゃない。幸せになる覚悟、愛される覚悟が育ってきたんだね。


インナーワーク(自分の内的世界のエネルギーを感じながら言葉にならないエッセンスと呼ばれる気付きを受け取ること)しながら、いつも背中に大きな羽を閉じ込めている感覚があったね〜。

それは、力ずくでバキバキって、エヴァンゲリオンのビーストモードみたいに何本もの腕を取り出して。

そうやって、パワーを解放するものだってイメージをしてたけど、女性性エネルギーをお迎えしたならば、もっと穏やかで優しい、抑えていたパワーも合流して大地を通じて地球全体に広げていける。

地球と一体化して、大いなるものとより深く繋がって、オソイホドハヤイ(*2)、ゆっくりいそぐ(*3)生き方をしていくんだよ。


いつも、自分のなかに二面性が存在することに気づいてるね。

子供と大人。海と山。女性性と男性性。陰と陽。外向性と内向性。

自分でも自分がよく分からなくて、Aだと言った5分後には別の意見に変わっていて。

次第にだれかに自分のことを話すのをやめちゃった。いちいち説明することも、辻褄を合わせるのも、身体感覚が弱まるほどに思考を巡らせ考え尽くすことに、もう疲れたから。


いまは、その二面性を"ある"とし続け、ゆらぎ、うつろい、ゆるしているインナーワークでも、絵でも、セッションのスタイルも。すべて。波、うねり、波及、曲線。

そういうエネルギーが、内側にずっといたね〜。


これから、どこへゆくのか、やっぱり誰もわからない。

けれど、世界はいつだって優しい。


謝辞

THECOACHアドベントカレンダーの企画に参加いたしました。主催のまーさん、りみさん、企画ありがとうございます。

参考

わたしが何者か

2023/07時点で、プロセスワークコーチ、抽象画家、SaaS企業での部門責任者の顔を持っています。

このnoteをご覧いただいた方に

今回の企画を通じて生まれた、せっかくのご縁。

すとうのプロセスワークセッションの体験セッション、お二人までお受けいたします。(2023/7/31までにTwitterDMにてご連絡ください)

普段はご紹介経由でセッションをご一緒しております。自分自身の人生創造、および現在ご一緒している方々へのコミットメントを最優先にしておりますが、ここまでご覧いただいた奇特な方のうち、タイミング&ご縁ともに合致する方がおられましたら🌱


ウェブサイト:ちきゅうゆうえい


内的世界に向き合い変容をもたらすアート合宿を不定期開催しています


抽象画家としての発信はInstagramメインです。最近は海外での展示がモリモリ。


コーチングやアートなど感覚寄りのTwitterアカウント


ビジネス寄りのTwitterアカウント


参考文献

*1 パワーか、フォースか
わたしはいま、「達成可能なレベル」の範囲内で意識レベルが安定するように毎日スコアリングして調整しています。総じて、良い感じ。

落ち込むことがあっても気付いたり、手放したりして、波動をチューニングしてるよ。

*2 モモ
カメのカシオペイアが本書のなかで「オソイホドハヤイ」と言っています

*3 ゆっくりいそげ

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