「文化人類学と現"在"美術からみる『ポストヴィレッジ』そして『メタシティ』」(中編)
本基調講演では、現在美術家の宇川直宏さんと文化人類学者の奥野克巳さんがメタシティの思考基盤となりうる「ポストヴィレッジ」の概念を提言。
中編は、文化人類学における存在論的転換として注目を集める「多自然主義」や自己同一性の再解釈などの議論を経由したのち、様々な民族を参照しながらポストヴィレッジのヒントを探っていく。
(前編はこちら)
本記事は、2019年1月に開催した『METACITY CONFERENCE 2019』の講演内容を記事化したものです。その他登壇者の講演内容はこちらから。
・TEXT BY / EDITED BY: Shin Aoyama (VOLOCITEE)
・PRESENTED BY: Makuhari Messe
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ポストヴィレッジにおける「共有」
宇川:大変貴重なお話をありがとうございます。まさにその共同体とは何かをこの対談では改めて考えたいなと思っているんですよね。まず都市生活者にとっては、現実の都市の中での共同体だけでなく、ソーシャルメディア上の共同体も生活環境の中に含まれている、と考えてもいいと思います。
先ほどおっしゃっていたように、プナンの生活には所有ではなく共有が前提としてある。一方でインターネット以降、共有って言葉は再び注目されていますよね。物質主義的な領域から離れて、データファイルをアーカイヴィングして分かち合うコミュニケーションスタイルが広まった結果、デジタルネットワーク上において情報が豊かに共有され始めてる。まあだからこそ、なおさらコンテンツビジネスが崩壊しているとも言えますけど。
例えばCDが売れなくなった代わりに、音楽が広く大衆に無料でもしくはサブスクリプションを経て共有され始めてる。先ほどご紹介していただいたプナンの感覚で捉えればオンライン上では「良い心掛け」が重要視される時代であることは間違いないでしょう。ではそのような時代に、ポストヴィレッジでの制作者はどうやって生活を営んでいけばいいのかってことが、今回の対談のサブテーマにあると思うんですよね。所有から共有へ、っていう意識の流れはソーシャルメディア以降、急速に広まったにもかかわらず、生産のかたちは変わってない。どうやすれば生産自体も共有できるのかを考えなきゃいけない時代になっていると思います。そこで、例えばクラウドファンディングっていう、資本の流れをサポーターと共有しながら制作をする方法論も生まれている。そういう意味で、プナンの「良い心掛け」から学べるポイントはたくさんあると思います。あるいはビットコインやブロックチェーン以降の貨幣価値の文脈から見ても、示唆的な部分があるかもしれません。
ただ僕は、ポストヴィレッジにおける全く新しい共有の提案を考えてみたくて。ここで重要になってくるのが、多自然主義の概念だと思うんですよね。おそらく今の僕らは共有がオンライン上でのエコシステムの前提になりつつあるものの、依然、多文化主義的な世界に生きてるんだと思う。自然は唯一で、そこに様々な文化がひも付くって発想から抜け出せていないように思うんです。そこで、多自然主義的な理念の下に、いかにわれわれが新しい都市空間で生きるべきなのかをを考えられたら「素敵やん」(笑)と思ってるんですよね。
そこでまずその多自然主義っていう概念なんですけど、これは文化は普遍的なものであって、その普遍的な文化に様々な自然がひも付いていく、って発想で合ってますか。
多自然主義と多文化主義
人間は、有史以来「人間の他者」と接触してきた。人間の他者は、かつては交易をしに、または人や物を奪いにたまにやって来る遠くの他者だったかもしれない。
人々にとってより近い他者とは、自らをとりまく動植物、虫、精霊などのほうであった。そうした近しい他者たちとの間で人々の日々の暮らしは営まれていた。異種間で食べ物が分かち合われるだけでなく、そこには、喰い喰われる関係が潜んでいた。人間と人間以外の諸存在者の距離はほとんどないに等しかった。
そのような世界経験を、人類学では近年〈多自然主義〉と呼ぶ。〈多自然主義〉的な人間の暮らしが、農耕・狩猟や牧畜を生業とする人々の地では今日でも行われていると想像するのは難しくない。しかし、動植物などは文化の外の遠くの他者であり、人間による文化が多数存在すると捉える、私たちが慣れ親しんだ〈多文化主義〉からすれば、〈多自然主義〉は遠く隔たった異貌の世界のことだと思われるかもしれない。
奥野:そうですね。人間は有史以来「人間の他者」と接触してきたんです。人間だけど日常的には触れ合うことのない人々。そういう者たちは彼らにとって、疎遠な存在だったわけです。むしろ、動植物や虫、あるいは精霊や神のほうが身近な他者でした。こういう感覚が、人類学者のヴィヴェイロス・デ・カストロやデスコラといった南米研究者によって再発見されてきていて、多自然主義と呼ばれているわけです。もう少し言うならば、多文化主義に対するオルタナティヴとして多自然主義が出てきている。多文化主義は、自然は唯一で文化はたくさんあるんだという理念で、文化相対主義ですね。ここでは、滝は上から下に流れるとか、雨は上から下に降る、という不変の自然観があって、そこから自然科学が立ち上がってくると考えられています。そういう不変の自然に対して、人間が個々に適応することで文化がつくられるんだと。そしてこの多文化主義の考え方から、人間それぞれに出発点が違うんだという理解が生じて、多文化共生が行われている。でも近年、この多文化主義のモデルが持つ行き詰まり感みたいなものが浮き上がってきている。そこで人類学者が出してきたのが多自然主義なんです。つまり、人間と動植物、精霊、神とかが一緒に共同体の中で暮らしていたのが最初にあったんじゃないか、という考え方です。
宇川:なるほど。やはり現代の多文化主義的な発想だったら、人間同士っていう前提の下で共同体の中のコミュニケーションを考えると思います。そこに自然──動物でも昆虫でも植物でもいいですが──が入ってくるわけですよね。これは果てにはアニミズム、自然界に存在するそれぞれ固有のモノに精霊が宿っているっていう発想に繋がっていくような気がします。その角度から捉えれば、精霊をどう現代的に感じ取ることができるのか、向かい合うことができるのかが、ポストヴィレッジをイメージするには近道なのかもしれないと思いました。プナンの狩猟民族の方々も精霊を感じながら生活をされていると認識しておりますが、今現在、彼らにとっての精霊の位置付けはどうなっているんですか。
アニミズムと自己同一性の再定義
奥野:プナンは非常にシンプルなアニミズムですね。でもアニミズムはこれまで精霊信仰、あるいはモノにも魂があるという考え方として語られてきましたが、最近の人類学では実は違うんじゃないかと言われてます。アニミズムは非常に抽象的に言うならば「自己と他者の間の物質的あるいは内面的な連続性」なんですね。例えば、10年履いたボロボロのスニーカーをなぜか捨てられない、みたいなことを考えてみましょう。そこでは、私と履いてきたスニーカーの間に何らかの内面的な連続性が想定されている、というわけです。つまり、スニーカーを捨てると、内面的には連続した自分も捨てられちゃう。そういった内面的なつながりを対象に対して想定することがアニミズムだと最近では解釈されています。だから私たちはアニミズムでできていると言い換えることもできますね。
宇川:なるほど。大変わかりやすいですね。アニミズムニューウェーブ!(笑)。PUNKからDUBがオルタナティヴが発展していったあの感じですね。そうするとやはり「自己同一性」が重要になってくる気がしますね。自己同一性っていうのはいわゆる、自分と他者を区別する、決定的に自分であるという一貫性は何をもって保証されているのかということですよね。
しかし、先ほどポストヴィレッジのレイヤーとメタシティのレイヤーを同時に生きるって話をしましたが、このポストヴィレッジのレイヤーにおいて、多自然主義的な意味でのアイデンティティを保つには、自己同一性の再認識が必要になってくると思っているのです。なぜなら、奥野さんがおっしゃる自己同一性の概念には、集落や部族といった共同体の他者とも一体になるという感覚も不可欠であると考えられます。もしかしたらそのような心理社会的同一性と自己同一性が融合しているアイデンティティを確立しているからこそ、反省もしないし、ありがとうも、ごめんなさいも必要ないんじゃないか。つまり、他者と自分を区別することがアイデンティティであるにも関わらず、共同体そのものに、自らを見いだす、っていう一貫性が浮かんでくるんです。現代のソーシャルメディアもコミュニティの中に自らを投じるわけですから、置き換えて考えられるかもしれません。例えばLINEで交流している人たちのコミュニティでは、そこで立ち上がっている意識交流そのものも自分の一部として捉えられていると思うんですよ。他にもTwitterのフォロー関係とか、いいねボタンを押す一方で時にはブロックしたりする関係とかも、SNS時代における自己同一性の概念を再認識する手掛かりになると思うんですよね。自己承認欲求と他者承認欲求を同時に叶えたい感情というか。しかもそれは大変不安定で思うように同一化できない。
つまり一方で、現在我々は簡単にブロックできてしまう時代を生きているとも言えます。プナンの生活ではきっとブロックなんてできないじゃないですか。むしろ子どもを共同体全体で一緒に育てるように、血の繋がりを前提とした家族じゃなくて、トライブの中での社会的同一性自体が家族っていう概念をつくってるような世界観だと思うんですよね。そんな世界観の中に自己同一性を投じるっていう発想が、ポストヴィレッジを考えるには重要になってくるんじゃないかなと。もう一つはニーチェの概念の根底にある、神やイデアや自我すらも否定する考え方は自己同一性の新たな認識を支えてくれるヒントになるなと思ったんですけど。その辺りはどうですか。
アドホックな自己同一性──多自然主義とソーシャルメディア──
奥野:非常に大きなテーマですね。まず自己同一性についてですが、多文化主義と多自然主義では違いがあると思います。多文化主義では国家や文化、言語といった共通認識を基盤に自己同一性が構築されているので、安定的です。一方多自然主義では、動植物や虫、精霊、神といったものとの関係性の中で自己同一性が形づくられる。つまり他者との関係において「しか」規定されないんです。そしてここでいう他者、人間以外のものとの関係というのは、予測がつかないんですね。例えば狩猟が成功するかどうかは、必ずしもわかりませんよね。そういう不安定なかたちで他者と関わり続けるから、自己同一性はなかなか定まらない。だから多自然主義において自己同一性は、その都度制作していくものなんです。自己同一性をつくり、つくられる関係を他者との間につくり出していくことが、常態であると。
そうすると宇川さんがおっしゃったように、今日のソーシャルメディアでは同様のことが起こっているのかもしれませんね。広いソーシャルメディアの中でコミュニティを構築するというのは、まさに他者とどう関係を取り結ぶのかと同義になっていて、そういう動的な関係性の中で自己同一性が絶えずつくりかえられているのだとしたら、面白いなと思います。
宇川:予測のつかない関係性の中において日々自己同一性を作り上げていく(笑)。一貫性は存在しない、と宣告されているようなものじゃないですか(笑)。しかしこの地球上に自分一人しか人類が存在しない場合、本来アイデンティティは決定的に危うくなるものだと考えていたのですが、プナンの多自然主義的なイメージから自己を捉えると宇宙と自分との関係を起点として、自己同一性が見いだされているとも考えることができる。
奥野:そうですね。
コスチューム・コミュニケーション──よそおい・イニシエーション・パフォーマンス──
南米の少数狩猟民族セルクナム族の成人式(1920年頃)
http://www.atchuup.com/tag/selknam-lost-tribes-of-tierra-del-fuego/
via:designyoutrust./ translated konohazuku / edited by parumo
宇川:そこで一つ、見てもらいたいものがあるんです。これは1920年ごろの南米の少数狩猟民族セルクナム族の成人式の写真です。彼らは1800年代後半に村を訪れたダーウィンに「彼らは同じ世界に住む仲間とは思えない」って言われたぐらい、エクストリームなフォルムをしています。実は画家の成田享さんは、ここから『ウルトラQ』のケムール人の着想を得たと言われています。つまり特撮怪獣っていう、現代における伝説や民話を脱構築する存在を支える想像力の中に、実在する部族のコスチュームがそのまま生きているわけですね。
そしてこれは、成人式っていうハレの日にコスチュームを身につけることで、精霊に変身するパフォーマンスだと捉えられます。
北九州の成人式(2017)
https://pbs.twimg.com/media/C1nwn7KUAAA8DcL.jpg
もう一つ見てほしいのが、北九州の成人式の写真なんですよね。ヤンチャなメタシティトライヴです(笑)。セルクナム族と北九州の青年、両方とも一大コスプレ大会っていう意味においては、相似関係にあるのではないかと思っています。精霊に扮する訳ではないですが、同じくこれは通過儀礼であって、100年の時代を経ても、どちらも大人になるためのコスチュームプレイを行っていると捉えることができるだろうと。
この衣装は北九州の『みやび』っていう衣装屋さんが、一手に引き受けて制作してるんです。予算は15万円から100万円ぐらい。つまり平均して30万以上はかかるわけですから、彼らは成人になるためのコスチュームを高校3年間バイトしたお金で依頼するんですよ。つまりここまでくると、通過儀礼としてのコスチュームプレイは、時代や地域を超えて、心身ともに成熟を果たし成人として脱皮する直前の営み、あるいはパフォーミングアーツに近い領域なんじゃないかなと思えてくるんです。
インドネシア/パプアのダニ族 Photo by Roberto Pazzi,
https://www.dailymail.co.uk/news/article-3086285/Untouched-modern-world-Inside-Indonesian-tribe-hunt-spears-sacrifice-pigs-celebrate-marrige.html
最後に見てもらいたいのが、インドネシア/パプアのダニ族です。ここで着目したいのは、このダニ族の服装は成人式とかじゃなくて平服なんですよね(笑)。つまり彼らに就活面接をするとして「面接は平服でお越しください」っていったらね、これで現れるわけですよ(笑)。詳しく見てみると、首からアクセサリーとして刃物ぶら下げてたり、髪の毛は細かく編み込まれたドレッドだったり。こういう一時期のきゃりーぱみゅぱみゅ的なグロKAWAIIおしゃれが共有されてるんですよね。原宿かパプアか(笑)。ここで、ひとつ、エクストリームトライヴと仲良くなるためには、彼らのコスチュームやファッショントレンドを解読して身に付ける、同じコードを纏うことが重要なんじゃないかって思うんです。つまり、トライブが身に付け共有するファッションや、精霊に成り代わる力を身に付けるための通過儀礼としてのコスプレ、といったノンバーバルな被服的コミュニケーションについて文化人類学者的立場からどうお感じになっているかな、と思いまして。
奥野:いや、面白いですよね。よくアニメのキャラクターのヴィジュアルとかが、民族社会の儀礼そっくりだといわれたりしますね。セルクナム族の成人式、つまりハインですよね。コスプレ、精霊に扮することで聖なるものに接近し、異界と交信する。このように人類は、自分の生きている空間から離れ、人間を超えたものに近づいて力を手に入れることを、身体変容の次元において脈々と行ってきたわけです。
日本の成人式は最近、非常に派手になってきてますが、これも、本人たちがどう考えているかはさておき、現代社会におけるある種の身体変容だと捉えられます。イニシエーションを乗り越えることで次のフェーズ、子供から成人になる。つまり人類史的なパースペクティヴで見れば、今までと異なる次元に接近しようとする意識が形になって顕れてるのだと言えなくはない。それがパフォーマンスとして行われているわけですね。
そして恐らくこれは、やったほうがいいことなんですよね。パフォーマンスを体験するということは、その動きの中で、ダイナミズムの中で自らの身体を変容させるということです。それによって彼らは感応的な身体を手に入れるわけです。そう考えると彼らはいわゆる「荒れる成人」というだけじゃなくて、身体変容の経験、あるいは今までとは異なる形で世界と感応しているんだ、と見ることもできる。これがソーシャルメディアが盛んになってきた状況とパラレルに起こっていることを考えると、宇川さんがおっしゃる二重のレイヤー構造は、こうした実践を通じて顕在化しているのかなと思いますね。
宇川:なるほど。次元の違いが身体変容として顕れるというのは、写真を見るとわかる気がします。どの人が権力を持ってアセンションしているのか、エクストリームな装いですぐ分かりますよね。明らかに真ん中にいる人でしょう(笑)。身体変容している領域が、まるっきり他の人たちと違う。
演出された「未開」
フィリピン/ミンダナオ島のタサダイ族(1970年代)
次に見てもらいたいのが、フィリピン、ミンダナオ島のタサダイ族です。彼らは20世紀に発見された原始民族で、狩猟生活を送り、洞窟の中で暮らし、局部を葉っぱで覆い、未知の言語を話すとされてきたんです。でも真実の姿はこれ!もうバイクに乗ってるじゃん、バリバリ文明に毒されてるじゃん、みたいな(笑)。
オートバイに乗るタサダイ族(1999年)
つまり彼らはフェイクな部族だったわけなんですよね。タサダイ族の人たちは普段、バイクに乗って、Tシャツにジーンズ、紙巻きたばこを吸って、普通の住宅に住んでいる。しかし、学者やジャーナリストが来たときだけ洞窟に通って、未開の民族を演じていたわけです。これが80年代、当時の環境大臣の司令よって書かれたシナリオで、タサダイ族を保護するという名目で集められた金を懐へ入れるための策略がバレて、大ニュースになって、今も究極の詐欺事件として伝説に残っているんです(笑)。逆説的にいえば、近代的民族概念とまるっきり違う社会形態を持つ部族という存在は、こういった形でエキゾティシズムとして消費されてきたんだということです。都市に住んでるわれわれは未開の地に対して、その異国情緒に触れたいというエキゾティシズムを孕んだ見世物的好奇心を常に持っていると思うんですよ。だからこういう演出された秘境に騙されるし、捏造されたニセ部族コミュニケーションが10年もの間、まかり通っていたのかなと。
奥野:我々はエキゾティシズムを満たしてくれるものをここに見るわけですが、一方で彼らは実際はもっと強かだというわけですよね。我々は身体変容のレベルで言えば、彼らよりも動きが少ない。彼らは普段は生業に従事しながら、観光客やメディアが来た時だけこの姿になる。つまりスイッチしてますよね。世界に対する感応の度合いが非常に高い。だから彼らに我々は騙され続けてきたわけでもありますよね。
宇川:つまり彼らは、我々の欲望のまなざしに答え続けてきたわけですよね。。これを現代のTVに置き換えて語るならば例えば「クレイジージャーニー」の爬虫類ハンターや、「世界の果てまでイッテQ」のお祭り企画のように、ヤラセとしてあぶり出され、放送倫理検証委員会から意見書が届くわけですが、映画ならば、モキュメンタリーというジャンルがありまして。例えばルッジェロ・デオダート監督の「食人族」などが、このような好奇心を満たしてくれているわけです。しかし、ひいては、こういう形で民話や伝説は生まれ口伝され、幻想を纏って語り継がれてきたんじゃないかなとも思っていまして。つまり、ある種の偽装としての物語というものも秘境におけるエキゾティシズムを叶えてくれているような気がしてならないのです。
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登壇者プロフィール
宇川 直宏|UKAWA NAOHIRO(DOMMUNE)
DOMMUNE/”現在美術家"。1968年生まれ。香川県/高松市出身。映像作家/グラフィックデザイナー/VJ/文筆家/大学教授/そして”現在美術家"など、幅広く極めて多岐に渡る活動を行う全方位的アーティスト。既成のファインアートと大衆文化の枠組みを抹消し、現在の日本にあって最も自由な表現活動を行っている”MEDIA THERAPIST”。日本に於けるVJのオリジネイター。2001年のニューヨークPS1 MOMA「BUZZ CLUB」、ロンドン・バービカン・アートギャラリーでの「JAM: Tokyo-London」での展示から、国内外の数多くの展覧会で作品を発表。2013~2015年度文化庁メディア芸術祭審査委員。2015年度アルスエレクトロニカ(リンツ・オーストリア)審査委員。高松メディアアート祭では、ディレクター/キュレーター/審査委員長のなんと三役を担当。1980年代末「ヤバイ」という日本語スラングを初めて肯定的な意味に変転させて使用し、著述を通じて世間一般にまで広めた人物でもある。また90年代初頭より文中においてエクスクラメーションマークの連打「!!!!!!!」を多用し、現代の日本語における「感嘆」や「強調」の表現を、SNS以前から独自的に拡張した。2010年3月、突如個人で立ち上げたライブストリーミングスタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」は、開局と同時に記録的なビューアー数を叩き出し、国内外で話題を呼び続けている。宇川はDOMMUNEスタジオで日々産み出される番組の、撮影行為、配信行為、記録行為を、自らの"現在美術作品"と位置づける。また、これまで、数々の現代美術の国際展に参加し、ロンドン、ドルトムント、ストックホルム、パリ、ムンバイ、リンツ、福島、山口、大阪、香川、金沢、秋田、札幌、佐渡島...と、全世界にサテライトスタジオをつくり、偏在(いま、ここ)と、遍在(いつでも、どこでも)の意味を同時に探求し続けている。現在、宇川の職業欄は「DOMMUNE」。著書として『@DOMMUNE-FINAL MEDIAが伝授するライブストリーミングの超魔術!!!!!!!!』(河出書房新社)他。DVDに「MAD HAT LAUGHS!!!!!」(Ki/oon / SONY)他。ミュージシャンとしてはUKAWANIMATION! 名義「ZOUNDTRACK」(avex trax)他。2020年には瀬戸内国際芸術祭に参加し、15番目のサテライトスタジオ「DOMMUNE SETOUCHI」をビル一棟をフルリノベーションして開設!!!!!!! 世界中から注目される芸術祭のプロジェクトとして異彩を放ち、大きな話題をよんだ。2019年11月22日、渋谷PARCO9階のクリエイティヴスタジオに移転。そして2020年3月の開局10周年の第二章に向けて、5G以降の最前衛テクノロジーと共に未来を見据えたUPDATEを図り、ファイナルメディア『DOMMUNE』の進化形態『SUPER DOMMUNE』へと進化する!!!!!!
http://www.dommune.com/
奥野 克巳|OKUNO KATSUMI
立教大学異文化コミュニケーション学部教授 1962年、滋賀県生まれ。バックパッカーとして、メキシコ先住民テペワノを単独訪問し、バングラデシュで上座部の仏僧になり、トルコ・クルディスタンを旅し、大卒後商社勤務を経て、インドネシアを一年間放浪後に文化人類学を専攻。主な著書に、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(2018、亜紀書房) 、『「精霊の仕業」と「人の仕業」:ボルネオ島カリス社会における災い解釈と対処法』(2004、春風社)、『Lexicon 現代人類学』(2018、石倉敏明と共編著、以文社)、 『人と動物の人類学』(2012、山口未花子、近藤祉秋と共編著、春風社)、『セックスの人類学』(2009、椎野若菜、竹ノ下祐二と共編著)、訳書に、ティム・インゴルド著『人類学とは何か』(2020、共訳、亜紀書房)、レーン・ウィラースレフ著『ソウル・ハンターズ:シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(2018、共訳、亜紀書房)、エドゥアルド・コーン『森は考える:人間的なるものを超えた人類学』(2016、共監訳、亜紀書房)など。
青木 竜太|RYUTA AOKI
コンセプトデザイナー・社会彫刻家。ヴォロシティ株式会社 代表取締役社長、株式会社オルタナティヴ・マシン 共同創業者、株式会社無茶苦茶 共同創業者。その他「Art Hack Day」、「The TEA-ROOM」、「ALIFE Lab.」、「METACITY」などの共同設立者兼ディレクターも兼任。主にアートサイエンス分野でプロジェクトや展覧会のプロデュース、アート作品の制作を行う。価値創造を支える目に見えない構造の設計を得意とする。
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