「ばかを克服するか、死ぬか。」「みんながいてくれる。いろんな生命体がいてくれる」

今日ふとした会話で思い出したのが、NejiLawの道脇さん。
10年以上前に、メンターをさせて頂きました。
2016年にNHKのプロフェッショナル仕事の流儀で取り上げられた時に語っていた言葉が強烈に心に残っていたのです。

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小学校の成績もずば抜けていた。教科書が配られると最初の1週間ぐらいで終えてしまった。そうすると、授業中はあまりやらなくていいのかな、と。そうするとだんだん、何のために来ているんだろうとか、だんだん疑問になってくる。疑問が蓄積していく。年単位で。
この教育システムがおかしいんじゃないかって思いだす。仕組みとしておかしいんじゃないかと。とにかく、既存のラインから降りて、何をしたら良いのかというか何で生きているのかというか、もやもやと思っている人生の疑問、答えを見つけに行く。自分の個性がなくなっていく。みんなと同じこのシステムに乗っているのは嫌だから僕は降りるという感じで。

そもそも自分が何者であるかもわからないし、社会が何であるのかも分からない。どうしたらいいか が あったわけでもないし何をしたらいいかもわからない。そもそも自分が何者であるかもわからないし、社会が何であるのかも分からない。なんのために生きているかもよくわからない。新聞配達をやったり、両紙の見習いをしてみたり、とび職をやってみたり。

気がつけば、18を過ぎていた。当時いた友人知人は普通に勉強して、大学へ行く準備をしたりとかっていう時期。そういう友人知人を横目に見たりとかしながら、いろんな自分を探す旅はまだ続いている状態。ひょっとしてこのまま生き続けてもしょうがないんじゃないかっていうぐらい、自分のばかさ加減に嫌気がさす。

ばかを克服するか、死ぬか。

特に死にたいわけでもないので、いろいろ考えながら紙に書き留めていく。
ずっといろいろかいていってみて、こんなことをしたら、ばかを克服できるんじゃないかと。ずっといろいろ書いていってみて、リストのような状態のものが出来た。漢字は知らないから漢字は知った方がいいなとか、文章力も無いといけないよなと。それで読書って書いてみたりとか。

出来上がったリストを見て愕然とした。なんじゃこりゃ、どこかで見たことがある。これ、学校カリキュラムそっくりじゃないか。だから、社会って言うのは、教育カリキュラムを作って、それをやらせるというか、強いてチャンスを与える。より、やりたいことができるようにさせてあげるための基礎作りだったんだな、と。

転機は19歳の時に訪れた。急にハンドルを取られてぐっと引っ張られていく、と思ったら、自分の車をタイヤがすごい速度で追い抜いていった。
一発廃車レベルの事故だったが、誰も巻き込むこともないし自分自身どこもけがしてもいない。生きながらえた。タイヤをとめていたねじが一本なくなっていた。折れてしまっていた。他のボルトについていた筈のナットは全部緩んで無くなっている。これはまずいでしょうと思った。このとき、自分の生きる意味を見つけた。

不可能と言われた、緩まないネジを製品化するために、31歳でベンチャー企業を立ち上げた。不慮の事故や点検のコストを減らす奇跡のネジ。

それから8年(※プロフェショナル放送当時の2016年)、自分の生きている意味についてこう語る。自分だけで生きているのではないから、いろんな人に支えられながら存在できる。みんながいてくれる。いろんな生命体がいてくれる。いろんなものがあってくれるから、とりあえず今日死なないでしょうし今日を超えられると思う。たぶん。自分の為だけだったら、存在する価値がない。そうしたら別に、自分の為に行きたいって、全くない。

誰かのために、何かのために、生きる

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道脇さんの言葉は強烈な心に残っていて、それを誰かに紹介したくなってこの記事を書きました。

”こんなことをしたらばかを克服できるんじゃないか” のリストが学校カリキュラムそっくりだった。だから社会は教育カリキュラムを作ってそれをやらせてチャンスを与える。よりやりたいことができるようにさせてあげるための基礎作りだった

自分だけで生きているのではないから、いろんな人に支えられながら存在できる。みんながいてくれる。いろんな生命体がいてくれる。いろんなものがあってくれるから、とりあえず今日死なないでしょうし今日を超えられる

誰かの心にも、響くといいな。




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