「成人」──「お母さん」から離れて

親離れ、子離れの難しさについて考えている。
ある友人が初対面の女性相手に発した台詞が、こんな感じだった。

「あたしのお母さん、頭いいんです。東京の××っていう女子校に昔、通ってて、そこ女子校だとツートップって言われてるところなの。うちの一族はみんないい大学出てて、私が一番悪いくらい。お父さんは頭悪いんですけど、あたしお父さんに似てるんじゃないかって不安なんです」

言われたほうは困惑したことだろう。初めて会った相手から、いきなり母親を自慢され、一族がどうとかいう話に続いて、「不安なんです」と悩みを吐露される。互いに何も知らないときに、ここまで話すのはあまり普通じゃない。

その友人は、この自己紹介から一年少し経ったあたりで、精神疾患が原因のトラブルを起こし、消えていった。誰も驚かなかった。

時々、彼女のことを思い出す。
嫌味でなく、なぜ「初対面でこんなこと言ったら、相手を困らせるかも」という想像力が働かなかったのかと考えてしまう。自分は相手の反応に怯えて過ごした期間が長いので、彼女が羨ましくもあり、理解できなくもあり、不思議な気持ちになる。自分は何をしても嫌われないという自信がある?それとも、他に話すことが見つからなかったのだろうか。

気になるのは「あたしのお母さん、頭いいんです」という、その出だしだ。この台詞の背後に、学歴が高く教育熱心な母親の姿が透けて見えるような気がする。彼女の母親は実際、熱心に娘に勉強を教え、幼稚園受験もさせたらしい。

献身的で教育熱心な母親と、その期待に応えたい娘。友人は、その関係に嫌気が差さなかったのだろうか。母親を超えられないと感じながら、同じような道を行く。自分には、その気持ちがうまく想像できない。

うちの母は、ファッションを狂気的に愛するアパレル店員だった。私は大学で哲学を研究している。私たちは別々の人間で違っている。母は私の勉学のことに口出ししないし、私も母の洋服好きを、とやかく言ったりはしない。彼女の母親に比べたら、うちの母は冷淡に見えるだろう。娘を塾に通わせたり、勉強を教えたりせず、受験の心配もたいしてしなかった。大学合格の際も狂喜するわけではなく、そんなもんよね、受かってよかったね、とあっさりしたものだった。

──彼女の受験はどうだったのだろう。

そう考えて少し怖くなる。仮に彼女のほうが純粋に行きたい大学を受けたのだとしても、お母さんのほうは頭をよぎっただろう。一族に顔向けできる学歴か否か、そういうことが。一族の期待を背負っての受験なんて、自分には想像もつかない。それはどんな重圧なんだろう。

母親のほうは「娘のしたいことをさせている」と考えているかもしれない。それはある点でその通りだ。娘が哲学をやろうが、物理学をやろうが構わない、私は寛容な親。だけど、その考えは「大学に行く。できれば学歴が上の」という、暗黙の了解あっての話だ。娘が「漫画家になりたいから、まずアシスタントの仕事をする」とか「ダンサーになりたいからスクールに通う」と言い出す可能性は、視野に入れていないだろう。

娘のほうも、母親の期待に応えたいと思うあまり、よいよい大学に入る以上のことは考えない。互いに、あなたの望みは私の望み、という状態になる。これで子離れ、親離れしろいうほうが無理だろう。そもそも母娘ともに、互いの精神的独立なんて望んでいないように思える。

もちろん、以上のことは全部、想像に過ぎない。

友達だった彼女は、そんな風に母親からの圧力に晒され、そこから逃れられずに精神に異常をきたしたのかもしれない。それはきっと、大人になるのに挫折したということなんだと思う。

誰もが知るとおり、年齢を重ねるだけでは人は大人になれず、一人の人間として立てることが大人の条件だ。幼少期のような母子関係を続けるわけにはいかない。いま大人として生きている人は、みんなどこかで親離れの通過儀礼を済ませたのだと思う。親に秘密を持ったり、敢えて期待に反することをしたりしながら、親から精神的に離れて行く、誰もがどこかで通る道。彼女には恐らく、そういうことが決定的に欠けていた。

「成人」は「人に成る」と書くが、それは二つのプロセスを踏んでいる。
一つには、出産の際に母親の胎内から外へ出ること。つまり肉体的に親から分離すること。二つ目が、精神的に親から離れることだ。一つ目を無事、切り抜けたからといって、二つ目もうまくいくとは限らない。幸い、彼女はまだ若いから、どこかでやり直していけると信じている。

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