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書くと言うこと

きっかけは日記だった

こうして、noteを毎日書いてみようと思うきっかけは、毎日つけていた日記でした。どうしてかはあまり覚えていません。ただ、アウトプットが良いとされていた時に、自身を変える為には、日記を書くことが最良の方法だということを目にしたからだったような気がします。

日記を書いていた期間は、しばらく続きました。その日あった出来事で、何を感じたのか。そこからどう考えたのか。目にしたものや読んだ本の感想。どんな会話をして、どんな言葉が心に残ったのか。思うままに書くようにしていました。

その日記には、ルールがありました。それは、誰にも口外しないこと。そのルールによって、ありのままの気持ちを書けるのでした。

自分の気持ちは以外と分っていない

こうした自分の日記を書くと言うこと。自分の考えを書くという意味は、記憶に残すためではありません。自分でも気づいていない内面を読み取っていくためのものなのです。上手く書けなくても大丈夫。ありのままの気持ちをかいてみるのです。

実は、自分自身がどんなことを考えているのか。何をやりたいのか、思いのほか、理解していないものです。

それが、書くことで出会うことが出来ます。

書くことで自分の本質に出会うことが出来るのです。そして、その本質である自分と出会うことが、自分らしく生きたいと願う僕らには必要なんです。

ある日のことですが、日記を見直したことがありました。その時の内容は、ある人の文句だったり、愚痴がノートに書き殴られていました。僕は、はっとしたのを憶えています。ネガティブに支配されたかのように、人生が上手くいかないと感じていたのは、そういう一面を持っている自分であることに気がつけたのです。

日記に書いてしまうまで、自分を我慢させて追い込んでしまったこと。相手がどうであれ、悪口や文句と言う形を選んでしまったこと。これを認めることが出来て、前を向くことが出来たのでした。

自分の本質は書くことでしか出てこない

どうして、書くことで自分の本質に出会うことができるのか。

それは、「書く」ということは行動するということであるからです。僕らは当たり前のように書いたりしているけど、何かを得られるというのは、何かを行動しているから得られているもの。夢や目標だって、行動しないと手にすることや達成することは出来ません。食べたいものがあれば、買い物するのか、食材を買って料理する行動をしないと食べることもできません。

何か分からないことがあれば、調べるという行動をします。行動するから、知識でさえも手にすることが出来ます。調べるという行動をしない限り知識は手にすることは出来ないというものなのです。

そういったことが、当り前になり過ぎて、僕らは意識することが出来なくなってしまっています。きっと、当たり前になり過ぎたからこそ、いつのまにか、何が手に入るのか分からなければ、行動しないようになってしまっている。時間の無駄と決めつけているのです。

子供の頃から、そうやって育ってきてはいないでしょうか。思い出して欲しいのです。オモチャが欲しければいい子にしなさい。テレビを観たいなら、もしくは、ゲームをしたいのなら宿題をしなさい。子供の頃に、誰が何が得られるか分からないことに、一生懸命になれるでしょうか。親に褒めてほしい。みんなに認められたい。欲しいものがあるから。具体的な何かを手にするために行動するようになっているのです。

自分の気持ちを書いていく行動は、確かに自分の本質に出会うことができるかもしれないが、どんな自分であるかは、分らないものです。そこに行動するからこそ、新しい自分、今まで知り得なかった自分に出会える訳なのです。

僕は、そこに価値を感じられるようでありたいと思います。分かり切った損得で、行動を選択するだけではなく、時には何が得られるのか分からないから、やってみるという選択ができるように。きっと、そういう選択が自分をワクワクさせてくれるものだし、見たことのない景色を見ることが出来るものだからです。そういった、出会いにこそ、自分自身を変えることや人生を変えるものになり得るのです。

書くと言うことは、大げさでもなく、そういう意味を持ち得ているものなのです。

確かに、時間もかかるものだから、忙しい日常の中では取り入れずらいものです。時には、面倒に感じてしまうものでもあります。でも、こういった価値があることを理解できると、ひとつ踏み出せるものになるのではないでしょうか。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー


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