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疑う心と信じる心

ふと、会うことのない友達のことを思った。僕は、その友達を信じていた。同じ職場で働いていた同僚でもあり、苦楽を共にした仲間でもあり、お互いの夢を語り合う友でもありました。

でも、職場の僕のロッカーを勝手に開けて、その友人は、僕の財布からお金を抜いていたのでした。そして、それがバレたら、彼は行方をくらました。だけど、僕は、警察には言わなかった。職場の人にも誰ひとりとして言わなかった。もしかすると、何かの間違いなのかもしれないと思ったかもしれません。

生きていれば、人生色々あるものだと、無理やり処理していたのだけれども、僕の中で、ずっとモヤモヤしていたのかもしれません。

信じることは正しいのか?

信じることは、正しいことだとされている。でも、これって僕だけの思い込みなのかもしれない。だって、人は嘘をつく生き物だから。僕だって、嘘はたくさん吐いてきた。自分自身に対しては嘘だらけ。こうしたいと思う気持ちをそうじゃないと言ったり。悲しいと感じているのに笑ったり。感情を偽って押し殺したり。ありとあらゆる嘘を自分自身についてきた。そして、誰よりも自分自身を疑ってきたからです。

化学は疑うことで進歩してきたと言われています。警察官は人を疑うことで、犯人を割り出し捕まえることが出来ます。僕の中に根付いている思い込みや正しさの認識だって、疑いの目を持って自分と向き合わなきゃ、見抜くことは出来ないのだと思うのです。僕自身の進歩のために疑うことは確かに必要だと感じるのです。

信じることに意味を持てなくなり、迷うってしまったのです。

疑いの心

しかし、そうやっていつも、自分を疑ってばかりいると、世界そのものが虚像であるように思えてきました。ニュースは嘘ばかり、政治家や有名人は、誰一人本当のことを言っていない。いや、もしかすると、誰一人本当の事を隠しているんじゃないかって。自分を疑うことで人を疑うのでした。

それは、とても心が荒むものでした。いつしか、心は満たされなくなった。愚痴や不満が多くなった。そして、気がつくと心は満たされることはなくなり、不安で支配されていたのです。

正しくあろうとすればするほど、人生は豊かに感じなくなってしまったのでした。

信じる心

友達だと思っていた僕は、確かに、お金を盗まれた上に、謝罪もなく目の前からいなくなられてしまいました。それでも、信じたのは、ただのお人好しだっただけだったのだろうか。

ただ単に、傷つくのが怖くて、勇気が出なかっただけだったのかもしれません。でも、そうじゃないと僕は、推測し確信もしているのです。

自分のことだから、分るのです。僕は自分の尊厳を守るために、事実をうやむやにしたのです。犯罪を見過ごすことは、良くないことは理解している。だけど、それでも、信じ続けたことに価値があると思えたのです。

それは、今の僕が振り返った時に、大切にしたい思い出として、心に残っているのでから。あの時の選択は、確かに間違ってしまった。だけど、人を信じて、悪い気はしていないのです。今の僕が自分を信用することが出来るのは、騙されているのにも関わらず、それでも人を信用した自分に信頼と魅力を感じたのですから。

あの時の僕が、今の僕の心の中には存在しいる。僕は、自分のことが嫌いだった。そんな僕にも、誇れるべき自分が存在する。それは、嬉しいことでした。

あの時、いっぱい迷ったし、いっぱい悩みもした。そこまで、人のことに対して思える自分がいるのです。自分に対しても、そうやって向き合ってくれるはずだと可能性を感じるのです。

心のままに

自分や人を疑うことで、確かに新しい自分の可能性を見つけることが出来る。だけど、自分や人を信用することで、自分の尊厳が守れるのです。だから、疑うも、信用するも、自分の気持ちで正直でいたいと強く思えるのです。

「それは、そうだよね。心に正解も不正解もないものだよね。」

そう、改めて、感じることが出来たのでした。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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