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ミア・カンキマキ(2021)『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』の読書感想文

ミア・カンキマキ、末延弘子さん翻訳の『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を読んだ。2021年7月に草思社より出版された本である。

本書は清少納言に魅了された38歳のフィンランド人女性が、仕事と人生に飽き飽きして、「清少納言を調べる」という理由で一年間休職し、京都へ行ってしまう、という話である。大胆な決断で、なかなか真似できるものではない。

ノンフィクション(エッセイ)であり、学術書ではない。でも、単なるエッセイではなくて、清少納言の『枕草子』がかなり引用されている。はじめのうちは、カンキマキさんが心惹かれたもの、中盤から後半にかけては、彼女の身に起きた何かや感情とリンクしてくる。そこが憎い演出にもなっている。

一種の「自分探しの旅」でもあるのだが、著者にはユーモアがあり、ツッコミ気質であるせいか、自己陶酔や自己憐憫とは無縁で、とても読みやすい。

清少納言を「セイ」と呼び、清少納言に語りかける形で、著者の旅は進んでいく。時期は2010年9月からの1年で、彼女は東日本大震災にも遭遇しており、タイに一時避難したりもする。その章もなかなか興味深く描かれている。タイ人は一人旅の人は可哀想だと思って話しかける(p.353)、というガイドブックの引用には笑ってしまった。

著者は肝心の日本語が読めないので、あまたある日本語による『枕草子』の解説本は読んでいない。それどころか、英訳を彼女が頑張って、フィンランド語にしている。このハンディがあるから、アカデミックな方向に走らず、日本語や日本文化という枠組みや知識による無難な解釈をせずに済んでいる。情報源が少ないからこそ、清少納言の心情にダイレクトに迫るという大胆で向う見ずな挑戦ができたのではないだろうか。彼女は清少納言の考え方やふるまいに自分自身の生き方や考え方を重ね合わせ、時に共感したり、時に呆れながら、ともに旅をしていく。

著者は紫式部に比べて、清少納言の扱いが小さいことに憤慨している。でも、確か、ドナルド・キーンかサイデンステッカーあたりだったと思うが、「なぜ、紫式部と清少納言が並べられて語られているのか、まったく理解ができない」と述べていたことを思い出す。

わたし自身も清少納言はめちゃくちゃ楽しい人だと思う。ただ、紫式部の『源氏物語』は世界最古の長編小説であると同時にフェミニズム小説で、その偉大さは他の追随を許さないと思う。最もフェミニズム的なのは光源氏亡き後の世界、宇治十帖なのだが、そこまで読まずにいる人はとても多い。

女に拒絶された男は「ああ、新しい男ができたのだろう」と勝手に解釈する。女が男なしでは生きられない、と信じて疑わない。その前提を絶対に崩そうとしない。「女には男が必要だ」と思い込んでいる男を描くことで、紫式部は男性の傲慢さと鈍感さを指摘する。

一方の女は、「男とは金輪際かかわりを持たずに生きていこう」と強い決意を固める。女は、弄ばれたことに失望し、自分を傷つける男たちと縁を切りたい、と願う。

その対比、両者のわかりあえなさを描いて、終わっているのだ。これ、平安時代の話だよ(笑)。

この男女の溝、深い川が流れているのって、すごく現代的で、もしかしたら西暦3000年の読者だって驚嘆するかもしれないのだ。(気候変動があるので、地球ではなくて、火星で読まれているのかもしれない)

今も昔も変わらない平行線、男と女はパラレルワールドに生きているのを紫式部がわかっていたこと、それを作品に落とし込めたのがすごい。男女の離別が悲恋として描かれた物語はたくさんあったと思うが、「女が男を必要としているだなんて、男の妄想だ」と西暦1000年頃にバッサリ斬っているのだ。そんな作家、世界中のどこを探しても紫式部だけなのだ。女性が新しい趣味を始めたとき、「新しくできた男の影響だな」と思ってしまうそこのあなたに紫式部はツッコんでいるのだ。

それは当時の貴族の女性が男性を拒絶しても、尼寺で第二の人生を生きる、という選択肢があったからである。もしかしたら、そんな選択肢を持てた時代は、「平安」の次は「平成」なのかもしれない。女が物を書くことができた時代だからこそ、生まれた傑作なのだ。

清少納言はおそらく天然のフェミニストで、だからこそ、作品はあっけらかんとして、どこか愉快で可愛げがある。おっちょこちょいで、お調子者で、愛嬌があって憎めない。友達になれるかもしれないし、友達になれなくても、お互いに気にせず生きていけそうだ。さっぱりとしていて、溌溂としている。

一方の紫式部はフェミニストであると同時にミソジニストでもあると思う。紫式部は男性にも女性にもどこか批判的で、女性嫌悪も随所に感じられる。清少納言を「薄っぺらな知識しかないのに出しゃばりだ」と批判した『紫式部日記』なんかはその最たる例であろう。そして、紫式部がレズビアン、バイセクシャルであった可能性は本書でも言及されている。父親との近親相姦(性的虐待)すらあったのではないか、という憶測もある。光源氏と紫の上の関係がそれを想起されると言われている。とにかく、ムラサキは複雑な人なのよ。多分、紫式部とは友達にはなれない。

(紫式部と『源氏物語』に関する知識をひけらかせずにはいられないわたしは、この上なく清少納言っぽい笑)

人が人生を変えるときは、彼女自身がゴキブリ洞窟と呼ぶシェアハウスで暮らすこともできるし、京都の耐えがたい暑さと寒さも乗り越えられるのだ。ちなみに彼女のシェアハウスは吉田山の近くにあり、『徒然草』の吉田兼好が住んでいた場所であったことが途中で判明する。つれづれなるままに物を書いていたら頭がおかしくなりそうな、あの場所に彼女もいたのである。それは運命的というよりは、楽しい符合である。

そして、彼女はフィンランドに戻る。屋根裏部屋で、この物語を書き始めるところで終わるラストは、とても清々しい。

本書は2013年に出版され、ベストセラーとなり、彼女は退屈していた会社を辞め、作家として活動しているそうだ。今から、11年前に彼女が京都や東京の街にいて、清少納言に話しかけ続けていたのだと思うと不思議な感じがする。

翻訳者の末延弘子さんの訳者解説も、「ミアさん」と著者に語りかけるようにして綴られており、愛を感じる。

500ページ近くあるのだが、一気に読めてしまった。誰かや何かを好きになって、それと真摯に向き合い、対峙すること、その豊かさと贅沢さを味わうことのできる一冊である。著者のことを心底羨ましく思う。この本を読んで、久々に『枕草子』や『源氏物語』が読みたくなった。

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