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誰かが用意してくれる料理の神々しさたるやゝ

母が作る鍋の美味しかったこと。
久しぶりに実家で母の手料理、といっても鍋メイン。

大きな土鍋ちゃん

毎日の料理は手品でも魔法でもない。

合間合間でお写真を撮らせていただく

誰かが献立を考え食材を手配し、誰かが調理をし、
 

ぐつぐつ踊る具材

最後は誰かがきれいに片付けてくれている。

〆の🍜

料理が楽しいという人の中にはそれが「気晴らし」「非日常」だからって人も多い。

無心にキャベツを刻むとき、レタスの水気をしっかり切るとき、海老の背わたを取り除いて丁寧に下処理するとき、嫌なことを忘れて夢中になれる瞬間がある。

ところがそれが毎日になると、ふと我に返り気づいていまう。

あ、この作業って毎日、毎回向き合う「日常」でしかないじゃんか、、ってね。

便利な時代になった。

いろんなことが便利になり、新しいやり方が見つかり生活はグッと楽になった。

けれど、料理を作るという分野においては私は相変わらず米を洗い、芋を洗い、ネギを刻む。
いくらでも出来合いで間に合わせられる時代だけれども、なんかね。

何だかね、この分野においては手間を惜しまぬ美学がいまだ強く残っている。

いや、どちらかというとそれ以外の生活のシーンが便利になったことの反動で「あえて手間をかける贅沢」を味わえる神聖な領域と化しているのかもしれない。

手間がおもしろいと思えるときもあるし、納豆のパックを開封してつゆ入れることさえ心から面倒くさいと思える日もある。

料理をすることによってストレスから解放される人と、料理自体がストレスな人がいる。それが混在する人だっている。

お互いに全く別世界に生きている人で、どっちも同じく正解で正しい。


チーズ&ブラックペッパーon the 柿。

母、いつも舌が冴えわたってて、恐れおののく。
そのDNA、引き継ぎたかった。

母さん、私は今日も全力で手抜きしまっせ。


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