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教育の「学習化」への懸念


今回の執筆の経緯

今日のテーマは、教育の「学習化」への懸念ということを書きたいと思っています。前半は僕が考える懸念で、後半に教育哲学者であるガート・ビースタの議論を参照しながら、その問題点を考察していきたいと思います。

これを書くキッカケになったのは、以下のツイートです。

これに対して、manabinomiraiさんが以下のお返事をくださったのが直接のキッカケです。

ちなみに、manabinomiraiさんは教育書籍の編集をされておられる方で、教育に関する豊富な知見を元にいつも学びのあるツイートをされています。お世話になっているからこそ、しっかりと応えたいと思いnote記事という形でのお返事にしました。

議論の大前提

まず、本論に入る前の大前提として、僕は「学び」とか「学習」を「抜き」にしようとは思っていません。それは確かに教育における大事な要素ではあるのです。しかし、僕の書き方が悪かったせいで、誤解をさせてしまいました。

僕が問題にしたいのは、ビースタの言葉を借りれば「「学習」の概念の顕著な増加と、それに引き続いて起こった「教育」という概念の減少」(『よい教育とは何か』p31)です。これはビースタの研究によれば、過去20年間で顕著な動きらしく、具体的に以下のように述べています。

「学習の新しい言語」と私が言及してきたものの増加は、たとえば、教授を学習のファシリテーションと定義し直したり、教育を学習機会や学習経験の提供と定義し直したりすることのなかに明らかである。すなわち、「生徒」や「児童」の代わりに「学習者」という言葉が頻繁に使用されることに見てとれる

『よい教育とは何か』 ガート・ビースタ著 藤井啓之・玉木博章訳
白澤社発行 現代書館発売 p31、32

繰り返しますが、これ自体が悪いというわけではありません。
ビースタもそのことは承知していて、以下のように述べています。

もちろん、学習や学習者に焦点を置くことが、そのまま問題なわけではない。学習がインプットによって決定されたものではなく生徒の活動に依存している、と見ることは ー 新しい洞察ではないにせよ ー 教師が彼らの生徒の学習をサポートしうる最善のこととは何かを我々が再考する一助になる。学習の新しい言語には、解放的な可能性さえ存在する。それは個々人に彼・彼女ら自身の教育的な指針をコントロールする力を与えることができるほどである。

同書 p33

先進的な取り組みをしている教育実践者の多くが用いる「学びのコントロールを子どもに委譲せよ」というスローガンは、確かに一斉授業に偏重する日本の学校文化へのカウンターパンチを喰らわせたことは間違いないです。おっしゃる通り!と平伏したくもなります。

しかし、教育を語る語彙があまりに「学習化」されてしまうことの弊害もまた考えないといけないと思うのです。それが、教育の根幹の大切な部分を損なうのではないかと危惧してしまうのです。

教育の「学習化」の弊害を次の3点で考察してみたいと思います。

1、「測りやすい学習」と「測りにくい教育」
2、学習化に内在する「個別性」
3、学習化に内在する「自己責任論」

1、「測りやすい学習」と「測りにくい教育」

教育という言葉はその言葉の持つ豊かさの反面、それ故に「わかりにくい」という特徴があります。つまり、端的にいってしまえば「教育の成果」を見せろ、と言われてもそれがすぐに開示できるような代物ではないということです。
一方、「学習の成果」はわかりやすそうですね。我々にとってお馴染みの「ペーパーテスト」をすれば、その成果は簡単に数値化できます。

しかし、教育というのは、そもそも「成果を開示しろ、そうでないと切り捨てるぞ」と言われるような分野ではありません。教育は人類が生まれたときから続けられてきたものであり、医療や宗教と並んで「問答無用で大切な営み」であるはずです。それが、いつの間にか、経営者(財務省でもいいですが)に「査定」されるような営みになってしまった。これを、教育の威信の低下と考えてもいいです。

教育の威信が低下し、教育への信頼が少なくなると、上記のような言説が教育に対して向けられるようになります。すると、教育側としても、金主(財務省でもいいですが)に成果を示す必要が出てくる。もう無条件で「そこにいていいよ」とは言われなくなる。

そこで、以前から僕が指摘しているような「教育の科学化」という現象が進行するようになります。「教育の科学化」については以下をご覧ください。

教育に科学の考え方がどんどん入ってくることで、子どもたちは数値化され分析されていきます。そして、それらによって子どもたちの可能性はどんどん限定されていきます。

『困難な教育』 めがね旦那著 学事出版 p112

これは「学力調査」に顕著ですね。
ある自治体では、学校ホームページに「学力調査」の学校平均値を載せることが推奨されているそうです。これは、まるで「学力調査の結果こそが、学校の価値である」という貧相な教育観を露呈しているような事態です。
それとも担当者は「情報をなるべく開示して、保護者に選択してもらうため」というかもしれませんが、このメンタリティこそがまさに「保護者」を消費者として捉える発想であり、まさに上記の金主に迎合する教育と同じ構造であるということは、わざわざ言わなくてもいいですね。

さて、「教育はわかりにくい」ということから、「わかりやすい学習」へのシフトは上記のような流れで起きているのではないかと考えています。そして、「わかりやすい学習」ということは、「測りやすい学習」ということです。それは、上記引用でも確認した通り、「数値化され分析」できるということです。

ある自治体の教育委員会では、最近「統計学」を学んでいる修士課程以上の人を募集していました。これも「教育の科学化」の顕著な事例でしょう。「学習の成果」を「数値化して分析」しろという圧力が高まっていることの証左です。

しかし、繰り返しますが、教育というのは「問答無用で大切な営み」なのです。だから、「数値が悪いから切り捨てる」と金主に言われるような営みではありません。しかし、そのように当たり前のことを堂々と言えるほど、教育への信頼は最早残っていないようです。

2、学習化に内在する「個別性」

学習という言葉には「個別性」が内在しています。
もちろん、協働学習(協同でもいいですが)という言葉は存在していますが、だとしても、そこで語られるのは「個人の学習の成果」であることが多いです。
それには理由があって、前節で述べたように、教育活動に成果を求め出した結果、それが学習という言語にすり替わってしまったということです。

班などの集団で学習活動を進めることは、以前よりも増えてきた気がします。GIGAスクール構想による一人一台端末のおかげで、協同学習支援ツールも充実してきていますね。それまでは紙の上で「向き」を気にしながら「みんな」で書いていたものが、タブレット端末上で「それぞれ」が書けるようになった。これは、協同学習の「しやすさ」においては、進歩だと思います。

「学習者」という言葉を考えてみても、そこに浮かぶ人間は「一人」だと思います。それは「学習」という言葉が持つ特性であり、それの可否を論じるつもりはありません。いや、むしろ、教育の中に「一人で活動する時間」は必須です。

僕は教育活動の中に意図的に「没頭」できる時間を作っています。

ハンナ・アレントが「孤独は必要である。それは自分自身との対話である思考を促す時間である」と述べたように、人には「一人」になれる時間が必要なのです。

「みんなで」が強調されがちな学校教育において、僕は「個別」とか「没頭」とか「学習」を否定するわけではありません。


しかし、一方で「教育」という言葉について考えてみると、そこに浮かぶ人間の数は「一人」ではなく「二人以上」であるはずです。それについてビースタは以下のように論じています。

それは常に「関係性」を含意している。すなわち、ある人は誰か他の人を教育しており、そしてその人は、彼・彼女の活動の目的についてのある意識を持って教育している。

同書 p34

教育には、「教育をする人」と「教育をされる人」が必要です。一人で「学習」はできますが、一人で「教育」はできません。なぜなら、教育という言葉には「関係性」が含まれているからです。

ここを軽くみてはいけないと思います。子どもは「弱者」です。弱者はその言葉通り、守り導いてあげなくてはいけません。それなのに、「個別性」を強調する「学習」活動の中に放り込んでしまえば、「できる子」はどんどん伸びていけますが、「そうでない子」はその力能を発現できないままになってしまいます。

ならば、「そうでない子」こそ教師が支えてあげればいい、というのが、最近の教育現場では言われることですね。「教師は支援者たれ」のような言説です。でも、同時にこのような言説を聞いて感じるのは、「できる子」は本当に支援が必要ないのか、ということです。「余計な介入をするな」という声が聞こえてきそうですが、子どもたちは「等しく弱者」であるのならば、やはり、「できる子」に必要なのは「個別」の「学習」だけでなく、「関係性」における「教育」なのではないでしょうか。

近年、「天才キッズ」という言葉でもてはやされている子どもを見ることが増えました。それに対しての以下のツイートが衝撃的でした。

「小学生にしてはすごい」という理由だけで、「野放し」にしてしまうことの危険性を感じてしまいます。教育は「人格の完成」を目標にしている以上、学習という「個別性」の言葉だけでは語れない部分もありそうです。「学習」という言葉に含意される「個別化」の要素については軽視してはいけないのではないでしょうか。

3、学習化に内在する「自己責任論」

最後は「自己責任論」についてです。

先ほどの使った表現で言えば、「学びのコントローラーを子どもに返せ」みたいな表現ですね。これは、確かにかっこいい。しかし、ここまでの議論を踏まえると本当にそれでいいのでしょうか。

子どもたちは、まだ「子ども」です。彼・彼女らが、我々大人にはない可能性を秘めていることは全く否定しませんが、子どもが「弱者」であるということを認めるならば、それでもまだ、教育という「関係性」の中で育てていくべきではないでしょうか。
というのは、学習の持つ「個別性」の要素は、同時に「自己責任論」さえ引き込みかねないと懸念するからです。

「あなたが選択したのだから、あなたの責任です」というのは、もう違和感を覚えないくらいに我々に深く内面化してしまった言葉ですが、これはどう考えても「強者の理論」ですね。つまり、上記の言葉は言い換えると、「なんで弱っているやつを、私たちが助けないといけないの?」ということです。

例えば、「学びのコントローラー」を子どもが握ったとして、それで上手くいかない時に、その原因はどこにあるのでしょうか。こんな風に考えたくはありませんが、僕は教師として、子どもたちと「関係性」を持ち続けたい。だからこそ、学習という言葉の氾濫には警戒をしているし、あえて「教育」という言葉を使いたいと考えています。


さらに、付け加えると、僕は今こそ「教師」という言葉における「師」という側面を強調したいと考えていて、それはノールが述べた「教育的関係」にも近いものがあると思っていますが、それについてはまた別の機会に述べたいと思っています。