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子どもたちを没頭させる活動~没頭の教育的価値~


没頭状態の子どもたち

 子どもたちが没頭している状態を見るのが好きです。言葉の通り、子どもたちが、自身の頭を課題に沈みこませていくような状態です。集中とも違う、その活動へのめり込んでいく様子です。

 子どもたちは没頭の達人だなと感じます。特に作業的な活動で子どもたちの没頭はよく起こります。

国語科における「視写」

 国語の授業で僕は「視写」を取り入れることが多いです。これは、教科書の教材文を原稿用紙へ「書き写していく活動」です。目的が「思考」ではなくて「没頭」なので、頭は使わなくていいです。むしろ、視写という単純作業を繰り返す中で高まっていく力があると信じています。

 国語の文章を読む力、いわゆる「読解力」なる言葉が巷ではよく使われますが、読解力を高める一つの力として「一回で把握できる文章量」があると思っています。例えば、多くの1年生の子どもは文章を「単語」ずつで把握している印象です。でも、それでは長い文章を読んで理解するのに多くの時間がかかってしまいますし、単語だけの理解では、文章の要点を読み違えてしまうこともあります。この子どもたちの「一回で把握できる文章量」を少しずつ多くしていくことが必要です。その力を養うために「視写」は効果があると感じます。

 視写は一語ずつ写していくと膨大な時間がかかってしまいます。そこで、単語だったり、短い文章だったりと「一回で把握できる文章量」を増やす必要が生まれます。これを子どもたちには「視線移動」の話を交えて話しています。つまり、教科書と原稿用紙間の視線移動の回数が少ないほど早く写すことができるよ、と伝えています。

「できる」が大事

 「できた・わかった」の項で話した内容とは逆になるのですが、文章を読んで理解するという子どもたちの「わかった」を、教師側が看取ることは非常に難しいです。だから、視写をすることが「できる」をとりあえず目指してもらっています。これが「できる」ことは「わかる」を助けると考えているからです。

 しかし、繰り返しますが「読解力」についてはまだまだわかっていないことも多く、どうすれば、すべての子どもが文章を理解できるようになるのかについて、ここで明言はできません。

 しかし、視写をしているときの子どもたちの「没頭」の様子を一度見てもらえれば、この活動に意味が無いとは言い難いことも合わせて書いておきたいと思います。