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学校教育を崩壊させる方法

「学校教育を崩壊させる方法」なんてセンセーショナルなタイトルを付けてしまったから、ご期待の諸氏を満足させる内容を書かないといけなくなってしまった。こうやって自身でハードルを上げてしまうのは僕の生来の悪癖である。これがうまく機能することもあったが、同じくらい失敗したこともあったので、その判断はこれを読み終わった後の諸氏に任せることにしよう。

さて、学校教育を崩壊させることは容易い。
それは保護者が担任の先生について「あの先生は信用ならない」と子どもに言うだけである。本当にこれだけで学校教育は崩壊する。本当はここで終わりたいところなのだが、その理路について述べられるだけ述べてみたいと思う。

まず、学校教育というのは「虚構」である。
それは明治5年(1872年)の「学制」という制度から始まり、現在まで150年くらい続いている「物語」なのである。その物語の内容は時代によって多少は異なるが、そのいずれもが子どもに対して、「とりあえず学校に通って先生の言うことを聞いていたら、後に良いことがある」という物語であることは間違いない。
明治から昭和の中頃にかけては、学校は「立身出世」のための唯一の梯子であった。そこで学び、学習の成果を示せれば、親の世代には考えられなかったような成功を得ることができる。経済は成長していき、時代はどんどん好転するので、この物語は多くの人に受け入れられた。
この物語の力は、現代になってもまだ一部の層には信じられている。もちろん、もう経済の成長を純粋に信じている層はほとんどいないので、残されたパイの奪い合いという悲しい戦いではある。それでも、社会学者が指摘している通り、とりあえず「大卒」というステータスさえ獲得できれば、平均的には「非大卒」よりは高い年収が確保できる。

そして、ここまでの文章は全て「学校という物語」である。いやいや、これは物語ではなく事実である、と反論したい人もいるであろうが、みんなが信じている物語が社会の事実になるのが人間の社会というものである。

例えば、貨幣は物語である。
以前は実際に「金(gold)」と交換ができていたが、今や、本当に「紙切れ」である。でも、それは事実として社会の中で使える。パンでも本でも、市場に出回っているものならなんでも貨幣と交換ができる。それは、貨幣という物語をみんなが信じているからだ。

これを歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは「共同主観的な世界」と読んだ。ハラリによれば、動物は、「主観的世界」と「客観的世界」の二つの世界でしか生きていない一方で、人間はこれに加えて「共同主観的な世界」をも生きているという。「神」も「国家」も「会社」も、どこにも実体はないが、それでも存在している。どこに存在しているかといえば、それは私たちの想像の中で、である。これが共同主観的な世界なのである。そして、このリストの中に「学校教育」を加えても差し障りはないだろう。

学校教育はどこにも実体がない。
地域に「学校」という建物はあるが、それは学校教育ではない。
学校という建物に「先生」という人はいるが、それは学校教育ではない。
先生は「教科書」という書物で教えているが、それは学校教育ではない。

学校教育を規定する実体はどこにも存在しないにも関わらず、我々はそれをありありと感じている。

だから、それを消去する方法は簡単である。
「そんなものは存在しないのだ」と、より「強力な権威」が存在を否定をすればいいのだ。

会社を消す方法は簡単である。それは「法律」に則って会社を解散すればいい。
会社の「社屋」は残っていても、そこに会社はない。
会社の作った「製品」は残っていても、そこに会社はない。
みんなの「記憶」に残っていても、そこに会社はない。

貨幣も神も同様である。そして、学校教育も。

子どもにとって、養育者である保護者というのは「権威」である。
自身の生存に直結する存在であり、そこと争うのは困難である。
反抗期というのがあるが、あれは反抗をしているという態度を示すだけであり、本当に養育者から離別する反抗期はありえない。それは反抗期とは呼ばない。絶縁である。

子どもにとっての学校教育はそこまでの権威ではない。
学校に通わなくても子どもは死なない。実際、現在も20万人以上子どもたちが「学校に通えない(通わない)」という「不登校」という選択をさせられている(している)。それでも子どもたちは家庭の中でしっかりと生きている。

だから、保護者による学校教育の否定というのは、子どもに対して強い効力を発揮する。

例えば、学級担任に向けてクレームの電話を入れている姿を見た子どもの多くは、それ以後、学級担任への信頼を失う。それは、学級担任と自分の保護者との権力関係を感じ取った子どもの自然な行動変容である。
「学校の先生は信頼するには足りない存在である」と認識した子どもは残念ながら、それ以後、学校教育で学べることはぐんと少なくなる。

計算能力とか、漢字の書き取りとか、そういう「子どもでも必要だと理解できる」学習活動については、その子はそれ以後も学ぶだろう。なぜなら、それは「保護者も望んでいること」であると子どもは知っているからだ。子どもは尚も保護者への信頼は失っていない。むしろ、学校教育にクレームを入れることのできる「より上位の権力者」という認識を持つくらいだ。

一方、その子は学校教育における「子どもにとって必要だと理解できない」学習活動については、反抗するようになる。
これは例えば、「先生の話を聞く」とか「整列の列を綺麗に並ぶ」とか「規則を守る」とかそういうことについては、極端に反抗するようになる。なぜなら、そんなことを「保護者は望んでいない」と子どもは考えるからだ。

でも、実は、ここまで述べてきた通り、このような学習活動も込めて「学校教育」は成立している。先述の物語をもう一度述べれば、「とりあえず学校に通って先生の言うことを聞いていたら、後に良いことがある」である。だから、その子はこの物語への信頼を失ってしまったと言える。

学校教育の構成要素における「子どもでも必要だと理解できる」学習活動は、実はほんの少ししかない。それは、その子がまだ「子ども」だからだ。ここに「学びのパラドックス(逆説)」が存する。つまり「学びとは、学び終わった後にその価値が理解できる」という類のものなのである。

漢字の書き取りはわかりやすい。
計算能力もわかりやすい。
文章を読む力もわかりやすい。
いずれも学べばその価値や有用性は子どもでも理解できる。

一方で、「先生の話を聞く」ことの意味は子どもには見出せない。
先生は時々、意味のないことをさせるからだ。体育の前の整列なんて意味がわからない。「前へ習え」ってなんだよ。それに面白くない授業を聞かないといけない理由だってわからない。YouTubeの方が勉強になるもん。なんで廊下は走ったらダメなんだよ。先生は怪我をするっていうけど、廊下を走って怪我をしたことなんて私はないもん。図画工作でキャラクターを描いちゃいけない理由もわからないよ。僕はポケモンの絵が大好きなのに、どうして禁止するのさ。

しかし、そういう理不尽に感じることも含めて「学校教育」という物語であることを、子どもは絶対に理解できない。それは彼や彼女が「まだ子ども」であるということに起因する。逆に言えば、「子どもでも理解できること」しかしない学校があれば、それは子どもたちがする「おままごと」の世界である。実際、子どもたちは休み時間に「学校ごっこ」をしているが、そこでの学習活動は「漢字の書き取り」などになる。

厳しい言い方をすれば、全ての活動に「意味」や「有用性」があるはずだと考えるのは「子ども」である。なぜなら社会には「みんなが信じている」というだけで、語られ続けられる物語がたくさんあるからだ。

サッカーをしているときに、「どうして手を使ってはいけないのだ」と考えてはいけない。そんなことをしては、「サッカーという物語」を楽しむことができないからだ。
労働することの意味を考えてはいけない。そんなことを考えれば、働くことがアホらしく思えてくる。働かないという選択肢があったと気づけば、誰も働かなくなる。「国家という物語」において、労働が義務になっているのは、そういうことを考えさせないようにする装置なのだ。

学校教育も同様である。
「意味がわからない、だけど、する」
この「だけど」が重要なのである。
この「だけど」は学校教育という物語を信用していないと生まれない。

そして、現在の教育危機と呼ばれている現象は、いずれもその根にこの「だけど」の損失を持つ。つまり、学校教育という物語への信頼の損失である。多くの人が物語を信頼できなくなったとき、その物語は効力を失う。

学校にクレームを入れる保護者は、学校教育という物語を信頼できなくなっている。その要因は、「我が子の学級担任」にあるかもしれない。その保護者の「経験」にあるかもしれない。いずれにしても、保護者が信じていない物語を子どもは信じることができない。

しかし、である。
では、学校教育に代わる物語を、その保護者は提示できるであろうか。
否。それはかなり困難である。曲がりなりにも150年以上も続いてきた壮大な物語の代替物を一保護者が用意することなどできない。

そして、この社会を作ってきて、現に今も作っている国民のほとんどが「この学校教育という物語を信じてきた人たち」という問題もある。
「学校に通わない」という選択をした人たちが抱く不安はまさにここにある。大多数が信じている物語の価値を信じられなくなった人が陥る不安は想像を絶する。繰り返すように、物語の価値は一個人が判断できる代物ではない。なぜなら、それが「現に信じられていること」こそがその物語の「価値」なのだから。それを取り出して、自前の「ものさし」をあてがってみても、価値を考量することはできない。

学校教育を終えた後に「学校って何の意味があるんだろうね」と問うことは問題がない。
しかし、学校教育を終える前に「学校って何の意味があるんだろう」と問うことには問題が多い。その問いの先に待つのは、「あなたにはまだわからない」問題なのだから。

これについて、内田樹はネオロジスム(新語)と母語との関係で以下のように述べている。

ネオロジスム(新語)を作ることができるのは母語においてだけです。後天的に習得した外国語では新語や新しい概念を作ることはできません。僕が英語やフランス語で、勝手に新しい言葉を作っても、相手には全然通じない。I wentというのは不規則変化で面倒だから、これからはI goedにしようと提案しても、英語話者は誰も相手にしてくれない。言っても鼻先で笑われるだけです。

『サル化する世界』 内田樹著 文藝春秋 2020 p228

母語を操る人と、それを外国語で学ぶ人の間には超えることのできない壁があるということをここで内田は述べているわけだが、学校教育にも同様のことがあるのではないだろうか。

実際、先ほどの学校にクレームを入れた保護者だって、現にこの社会で生きてこれているのは、少なくとも一定期間は「学校教育という物語」を信じてきたからである。

学校教育不要論は、数多くの強烈な知識人が述べている。
例えば、ホリエモンこと堀江貴文氏はその著書『すべての教育は「洗脳」である』の中で「これまで僕は「学校なんていらない」とあちこちで発言してきた。貯金型の勉強がどれだけ無意味か、よく知っているからだ。」と述べている。
しかし、堀江氏が「学校なんていらない」という結論が出せたのは、学校を「よく知っている」からであり、それは「学校教育という物語」を信じていた時期があったことを意味する。

現代の過激な発言をして世間を沸かしている人たちのほとんどは「高学歴」である。というか「低学歴」の人の意見をメディアは取り上げない。これこそがまさに「学校教育という物語を信じている人たちが作る世界」なのである。

こんな終わり方も悲しいのであるが、学齢期に、保護者という権威によって「学校教育の物語」を終焉させられた子どもたちの末路について、誰が責任を取れるであろうか。

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