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【SERTS】scene.2 粽の失踪


※この話には一部グロテスクな表現や性的な表現があります。



 缶ビールをひと口飲んだ王が「ぷは」と景気の良い声を上げる。そしてニコニコと微笑みながらもぴっちりと唇を閉じ、無言で残りを僕に手渡すと、バスルームへと逃亡しようとしたので首根っこを捕まえて身柄を確保し、叱る。これは従者としての責務だ。
「いちばん美味しいところだけ飲み食いして残りを僕に押し付けようとする癖、やめなさいよ。ていうかこのビールなに。どうしたの」
 星の刺青が入っている項を僕に掴まれ「いや、いや」と切ない声を上げながら藻掻いていた王は、僕の問い掛けには無言を貫き、しかし一抹の反省心はあるのか冷蔵庫の辺りを指差した。見ると備え付けの小型冷蔵庫の隣には、ボタンを押すと小部屋の扉が開くタイプの自販機が併設されている。所謂「ラブホのやつ」だ。
「え、押したの? ちょっと勘弁してくださいよ外出てコンビニ行った方が安いんだから」
 二連続で小言を漏らしながら、王を引き摺って自販機に近付くと、ビールが入っていたであろう空き部屋の他に一番下の段も一箇所開けられており、そのプラスチック製のちいさな扉の前に、なにかが放置されている。突如迸った「注視したくない」という雷のような悟りを眉間の皺へと押し込めてその場にしゃがみ込むと、床の上には煩い駆動音を発するラブグッズ……所謂『なにとは言わないが模したやつ』があった。クリア素材のそれは、駆動音と動きに合わせてエレクトリカルな七色の光を発している。
「……押したんだ、自販機のボタン」
「押しました」
「もう! ボタンピッピしたいなら他にもあるよね? 飲み物ならまだいいけどこんな使わないものをさあ」
 小言が三連続。小言というよりは正当な申し立てなのだが、王は明らかに小言が煩いとでも言いたげな様子でテーブルの上に置かれたテレビリモコンを手に取った。
「それはダメ!」
 普段なら問題ないが、ここでのその行為は大変宜しくないものであることを僕は知っている。これの電源ボタンを押したら最後、人間の番が交尾をしているさまを見せつけられるのだ。
「なぜですか」と連呼しながらリモコンを奪い返そうとする王の手を躱し、質問には答えずにそれを貴重品ロッカーに叩き込んで、素早く暗証番号を設定する。これで一先ず安心だと振り返れば、王は不服そうな顔で先程僕に押し付けたはずの缶ビールをちびりちびりと飲んでいた。
「今日のおまえはなんだか変です」
 そんなことを言う王の眉が八の字に下がっているのを見て、慌ててその眉間を撫でに行く。よくよく揉み解し、そんな心配はないのに皺にならないように。
「そんなことないよ。ごめんね、明日は美味しいもの食べに行こうね」
 幸い、王はまだこの施設の本来の用途については気づいていない。ならばこのまま王の意識を別のことに向けさせ続けなくては。
「ふむ。……それでこのうるさいのはなんですか」
 僕が気を揉んでいることなど知りもせず、床の上で未だ元気にのたうち回る『ソレ』を拾いに行った王は、なにか広告のひとコマのように問題のブツを両手で支え持つと、こればっかりは説明して貰わないと困るといった迫力で一歩詰めてきた。思わず後退るが、王は更に一歩、また一歩と生真面目に僕を追い込むものだから、とうとう退けるスペースがなくなってしまった。そんな窮地に立たされた僕の鳩尾辺りに、ぐにんぐにんと動く『ソレ』を突き立て、王は「これはなんですか」と繰り返す。
「あっ、ほら、王! ボタンあるよ! ほら! 押していいよこれ!」
 もうこれに賭けるしかないと、ベッド上部のヘッドボードに取り付けられた操作盤を指さすと、ものの見事に王は食いついた。王の指により部屋の照明の具合や色が次々と変わるのを眩しく思いながらベッド上に放られたソレを拾って電源を切ると、ロッカーを開けてリモコンと一緒に封印する。まったく、なんて日なのだろう……溜め息を堪え切れず、出て行った酸素の分の埋め合わせをしようと残った缶ビールを傾けた。

 前回滞在した地域より南東へ一千キロメートルほど移動して、江蘇省へと入った。今は高速鉄道が発達しており、大陸内の移動はかなり楽になったようだが、幾ら交通網が発達しても利用者の性格のせいでプランが崩壊することもある。
 詳細を可能な限り端折ると、寝台車両の個室を取っていたにもかかわらず王が列車の中で迷子になり、しかも探し回った先の食堂車で酒を飲んで寝ていたうえ、しぶとく起きなかった。これにより目的の駅で降りられず、長距離移動列車のため泣く泣く遠い次の駅で降りざるを得なかったのだ。お陰で運賃が高くなり、予約していたホテルは当日キャンセル扱いでキャンセル料を払う羽目に。更に都合が悪いことにも降りた駅では盛大に祭りが開催されていて、観光客と地元民がごった返しで過密状態の街のホテルは当然ながら尽く満室。仕方なくこの場末のラブホテルに宿泊することになったのだ。 そのうえでさっきの騒動である。体力も気力も懐も削られ、気持ちは満身創痍だ。金には困っていないが、特に電動バイブを買わされたのは手痛い。ホテルの当日キャンセル料よりもずっと虚しい出費である。
 探検と称して踏み入った先の風呂が広いことが嬉しそうな王に「一緒に入る?」と甘えて問うと、無言で脱衣所の扉を閉められてしまった。仕方なしにソファに腰を下ろし、ガラステーブルの下段に置かれた部屋備え付けのタブレット端末に手を伸ばすと『祭り期間中の当ホテル利用について』という項目がまず表示された。それを読み進めたことには、連泊の場合は途中外出が可能であることと、その際の注意事項等が書かれており、要は普通のホスピタリティの行き届いたホテルとは違うから清掃やアメニティの補充等には要望がない限り入らないというもの。外のどんちゃん騒ぎを考慮すると、今日明日で他のホテルに空きが出るとも思えない。仕方なしに連泊申込みの決済画面に遷移すると、明細には先程王が自販機で購入した缶ビールと電動バイブの値段がきっちり記載されており、ぎりりと奥歯を噛み締めながら決済をする。それからどう会計士を納得させようかと思い悩んでいると、ふと風呂場の方からくぐもった人の声が聞こえてきた。
 不味い、風呂場にもテレビが付いていたのか。……タブレットを放り出し、さっき王がぴしゃりと閉めた扉を勢いよく開けて浴室に文字通り滑り込むと、床がなにやらぬるぬるとしており、足を取られて盛大に転倒する。激しく打った腰を擦りながら、立ち上がろうとするものの上手くいかず、湯船からこちらを見てきゃっきゃと笑う王の楽しそうな声に、トラップを仕掛けたことを叱るより先に「消しなさい!」とテレビに対する指摘が飛び出す。しかし壁に嵌め込まれた液晶に映っていたのは普通の番組で、どうやら風呂場のテレビはアダルトチャンネルの契約はされていない端末のようだった。
「ああもう! なんなんだよもう!」
 自分の早とちりが原因にも関わらず、思わず大きな声を出す。王はそんな僕を見ても微動だにせず「袋があったので」と真顔で何かを指さした。それを目で辿れば、切り口が破かれた粉ローションの袋がひとつ。おそらくは洗面器に出し水に溶かして遊んでいたのだろう。
「そこに袋があったらなんでも開けるの?」
 努めて穏やかな発声を心掛けて問うと、王は微塵も考え込む素振りを見せずに「あけます」と微笑んだ。
「ボタンがあったら押す、開けられそうなら開ける……キミは赤ちゃんかい?」
「おまえよりは歳が下ですね」
「そうだけどさあ……」
 手を伸ばし壁に掛けてあったシャワーヘッドを掴むと、浴室の床にへばりついているローションを流していく。恐らく、王はこれの用途を知らないだろうし、訊かれても絶対に説明しないと心に決める。本来の用途で使われることのなかったそれらを、足が滑らなくなるまで、ある程度丁寧に排水口へと追いやり、それを終えるとその場で服を脱いだ。そしてローションまみれの服をその場に放置したままシャワーを浴び、やる気なさげに「きゃー」と悲鳴の真似事をする王の身体を押し退けて湯船に入る。「変態です」と蹴ってくるそのちいさな足を掴めば、際どい体勢をとることになった王の姿に、僕だけが征服欲を掻き立てられ、それが虚しい。柔く、土など知らないような高貴な王の足は、纏足か、或いはシンデレラの足か。しかし王は纏足をさせる側であるし、シンデレラを迎え入れる側だ。
「ねえおまえ、これはなんですか」
 掴んだままの足を揉み、齧ってやろうかと口を寄せたタイミングで、王が液晶を指さして言った。どうやらローカルの情報番組が流れているらしく、この番組の顔と思しき女が端午節の祭で売られているちまきの屋台にインタビューをしている。地域によって伝統的な味付けや具材があるらしいが、その店では色々な味がまとめて売られているので食べ比べに良いそうだ。
「これはね、粽。葉っぱの中にもち米と具材が入ってる」
「ハオチーですか?」
「ハオチーなんじゃない?」
「では食べましょう」
 一片の恥じらいも無さそうに湯船から立ち上がる王の、その長い髪を捕まえて絞ってやる。それからタオルで身体を拭いてやり、髪を乾かしてやり、最後に着替えの在り処を教えてやった頃には僕の髪は粗方乾いている。申し訳程度に僕の長髪にもドライヤーを当て、部屋に戻ると、僕が口を酸っぱくして「つけなさい」と教え聞かせた下着の留め具に悪戦苦闘している王の背中があった。その不器用な手つきに苦笑しながらホックを留めてやり、そのまま着替えを手伝う。
「未来のお嫁さんが大変そうで同情するよ」
 王の言う『妻』に性別は関係ない。王は交尾さえ成功すれば誰であろうと母体に書き換えることができる権能を有している。しかしそのパワースタイルの交尾が成功した試しはなく、大抵の場合は相手が死ぬので王は現在までずっと独り身だ。肉体の機能としては哺乳類……人間式の性行為も擬似的に可能だが、王の側に子を孕む能力はないため、極端な話、する必要がない。
「おまえが世話してくれるのでしょう。妻の手を煩わせるまでもありません」
 そうさらりと言って、王は僕を密かに赤面させる。今のところは妻を迎え入れても僕を傍に置いてくれる心算なのだろう。
「その……王は好きなタイプとかって、あるの?」
 恥じらいついでにそう訊ねると、王はまたしても微塵も考え込むような素振りを見せずに答えた。
「身体が大きいと嬉しいですね」
 王は比較的小柄だ。しかしその発言と体型は、雄よりも雌が大きい生き物の方が数を産めるだとか、交尾権を得るために争い、強い個体のみが生き残った結果雄が大きいだとかの、生殖における有利不利の話を超越している。ただその競合相手すらいない強さゆえに、交尾に耐えうる雌役すら見つからないことを憂いて、他と比べて少しでも強度が高い個体を求めているのだ。
「この国には摩天楼に棲む女怪や、罪業を焦がす鱗の獣など、強そうな個体がたくさんいると聞きました。お会いして求婚したいですね」
 会ってから求婚までが早すぎることに定評のある王のことである。どうせ断られるんだから……と喉まで出掛かった言葉を飲み込み、胸の内で書き換える。……どうか断られてくれ。

 王の肌は白過ぎるので、ファンデーションは省いている。なので普段の化粧は吸着ミストを軽く吹いてやったあとにアイシャドウやチークを塗り、最後に口紅を引いてやるだけだ。これは僕の趣味でしかない行為なので、僕に顔面を弄られているあいだ、王はいつもつまらなそうに手遊びをしている。今は僕にフューシャピンクの口紅を指で塗られながら、手元で似たようなピンクの缶切りを触っており、少し前に僕が買い与えたそれを王は気に入っているようだった。
「あまりカチカチしてると壊れちゃうよ」
 三徳缶切りのワインオープナー部分を開閉している王にそう声を掛けてやりながら、指に残った口紅を自らの唇に塗り付ける。こうしてさり気なく色味を擦り合わせたり、服の色味やテイストを合わせているからか、第三者からは恋人か兄妹だと思われることが多い。内訳は五分五分だろうか。しかし実際は従者と主君の関係であり、今でこそフランクに接しているものの、一応厳かな契約なんかを経て今に至っている。
「壊れたら直せますか」
 僕のシャツと色違いのジャカード織のワンピースを着た王は、ウエットティッシュで指を拭っている僕を見上げてそう訊いてきた。
「うーん、パーツが外れたとかなら直せるけど……どこかが折れちゃったりしたら無理かもねえ」
「……そうですか」
 すると途端に手遊びを止めた王は、畳んだ缶切りをちいさなポシェットに放り込んだ。スマホを持ち歩かず、いつも僕のポケットに突っ込んだりどこかに忘れたりする王にポシェットを買い与えたのはごく最近のことで、王なのだからそれなりの店で……と思いハイブランドの店に入ったところ、数百年前頃にいた『財布の要らないタイプの女』しか使わなかったであろうサイズ感のもの勧められた。粽ならひとつしか入らなさそうなそれを見て、本当にこれが存在する意味はあるのか、だったら何も無い方がマシじゃないかと若干の躊躇いがあったものの、いざ買って王に持たせてみるとそこそこ気に入ったらしく、スマホと缶切りを入れて持ち運ぶようになったのだ。他になにも入れられそうにないなりに、なにか程よい大きさのものを見ると入れたくなってしまうらしく、たまに中身を確認すると飴やらキラキラした石やらトカゲやらが出てくることがある。おそらく子育てとはこういうものなのだな……と思わなくもない。
「よし、じゃあ行こうか」
 声を掛け、王と共に部屋の外に出る。途中ですれ違った人間の男女に「アレ作り物かな」と王がお持ちの立派な胸部についてひそひそと耳語をされ、些か苛立ちながらも我が王は作り物と疑われるほど完璧なのだと思い直す。王にも彼らの会話は聞こえていたはずだが、特に気にした様子もなく「なつめ、あさり、おにく」と機嫌よく繰り返し呟いている。少し考えて、それが王の食べたい粽の具材なのだと察した。

 ホテルの外に出て、陰気な路地を抜けて目抜き通りへ。藍色に沈み始めた空はまだ遠くに日の名残りを残していた。ラブホテルのある一帯から離れれば離れるほど祭りの屋台が増え、人も増えていく。いつの時代も流行の品を扱う屋台だけが真新しく、それ以外は順当に古い。
 身を寄せ合って歩いていると、糖炒栗子……甘栗の屋台の看板娘(老個体)が王の手のひらに試食の栗を転がしてきたので、仕方なくひと袋買うことにした。「可愛い妹ちゃんだねえ」「そうですね、可愛いです」「ちゃんと見ててあげなね」……少し目を離したその瞬間に、王が手のひらの甘栗をニコニコと嬉しそうに殻ごと口に放り込んでバキバキと軽快すぎる音を鳴らしはじめたので、咄嗟に「ペッしなさい!」と叱るがもう遅い。屋台を後にしてから剥いて食べるのだと実演してみせると、王は頷いて口を「あ」と開けた。これは僕が剥いたものを放り込んでくれるのを待っているのだ。
「キミ、僕がいないと生きていけないんじゃ?」
「おまえがいない時間よりいる時間のほうが長いですよ」
「それはそうなんだけど」
 剥いたばかりの温かいそれを、王のちいさな口に放り込む。続けて袋からもうひとつ取り出し、先程と同様に爪先で入れた亀裂を取っ掛りに一気に剥くと、今度は自分の口に。
「久々に食べると美味いな」
 そう呟くと、王がすかさず「いつ食べたのですか」と訊いてくる。記憶にあるのは数百年前のシンガポールのチャイナタウン……僕には人間界に遊学に出ていた時期があり、ヒトの常識や味覚を身に付けたのもこの頃だ。
「まぁ、ちょっと前」
 ふたつめの甘栗を剥いてやりながら、流すつもりで曖昧に答える。
「春のときですか」
「春?」
「発情期です」
「またそれか」
 王は最近なにかと僕の『春』を気にする。恋のようなものに憧れがあるのか、はたまた僕の過去や恋愛経験が気になるのか。
「僕はいつでもキミに忠誠を誓ってるつもりなんだけどな」
「忠誠心は今関係ありますか」
「……ないね、うん」
 またひとつ剥いて、王の口元に差し出すと「あげます」と唇を引き結ばれた。僕が買って僕が剥いたものを「あげます」とは如何なものか。仕方なしに自分の口に放り込み、残った甘栗の袋を小さく畳んでポケットに押し込む。
 街の名所でもある濠河は観光特区に位置しており、夜に訪れると水面にネオンが反射して眩しいくらいだった。その濠河に架かる大きな橋の辺りまでやってくると、人波がどっと増し、人々の吐く息がひとつの熱塊のように感じられる。往来のご機嫌な彼らがカメラ機能のついたあれやそれを濠河に向けているので、その熱視線の先を辿ってみると、龍を模して豪奢でありながらも、鋭利な造形をした船が河面に何隻も並べられ、煌びやかにライトアップされていた。僕はこういった人混みでは持ち前の高身長で得をするのだが、王は比較的小柄なので、抱き上げてその光景を見せてやる。
「ドラゴンボートって言うんだって。端午節はこれでレースをするみたいなんだけど、残念、レースは昼間みたい」
 データベースで確認した内容を説明してやると、王はポシェットを開いてスマホを取り出した。頭上からシャッター音がするので写真を撮っているのだろう。
「これは悪政に抗議して入水自殺した文人の追悼をするお祭りで、あの船はその人の遺体を探すためのものなんだよ」
 どんな功績も道程も、言葉で説明するとあまりにも軽易だ。
「その人の亡骸を魚に食べられないよう、河に粽を投げ込んだのがこの時期に粽が売られている理由。諸説あるみたいだけどね。そう考えるとあんまり美味しそうには思えないけど、まぁお魚さんたちがグルメだったということかな」
 降ろしてやった王に写真を見せてくれるよう求めると、ようやくスマホを手放せるという喜びからか王はそれを僕に押し付けた。どうやら王の中では、写真が撮れて便利だということと、スマホを所持するというのは結び付かない事柄らしい。そのままふらりと歩いて行こうとする王の首根っこを掴んで引き寄せながら、預かったスマホをチェックすると、ボートは写真の端っこだ。構図もへったくれもない。スライドすると、僕の旋毛。人を撮るときに旋毛を見下ろす構図を選ぶなんて中々に前衛的だ。
「いいねえ。上手だ」
 世辞を口にしながら思わず笑う。少し得意げな王の横顔が可愛くて、その肩を引き寄せインカメラで並んで写真を撮ってスマホを返してやる。すると王は写真を見て、「カメラを内側にするのはどうやるのですか」と目を輝かせた。そこからか……と漏らしながらもやり方を教えてやり、今度は王の手持ちで並んで写真を撮る。
「わほほ」
 気の抜けた笑い声を上げる王は、どうやらこれがきっかけでスマホがお気に召したらしい。今度はきちんとポシェットにしまい込んでいる。そしてそのままポシェットの中を覗き込みながら歩き出し、なにもないところで躓きそうになったので、すかさず捕まえて立たせると、王は「シュエシュエ」と言って微笑んだ。 
「もう、きちんと捕まっててよ」
 王はその欠食児童のような体型に不釣り合いな乳房を有しているため、重心のバランスをよく崩す。成長期に上手いこと育たなかったのもあるが、なにより女性体に近いフォルムをしているにも関わらず、産む側ではないがゆえに骨盤が未発達でちいさいままなのだ。だから持て余した膨らみが揺れないよう下着で固定する必要があるし、その二次性徴を迎えたての少女のような痛々しい痩躯を、僕が支えないといけない。つまり僕は王のコルセットなのだとも言える。
「なつめ、あさり、おにく」
 僕に手を握られて、王は思い出したかのように粽の具を呟く。それに対して「じゃあ僕は干し貝柱、椎茸、桜海老」と返歌すると、王は笑顔のまま「半分くださいね」と僕を見上げた。
「わぁ、王ってば王だね。暴君だね」
 いつも通りのジャイアニズムに、僕も王と同じだけの笑顔を作る。
「じゃあおまえは入水自殺するのですか?」
「……しないよ。絶対にしない。僕は王を置いていかない」
 そんな会話をしながら、有名高級飯店がこのイベントシーズンでのみ出店しているという、店前に展開された立派な屋台に足を止める。伝統的な具材の他にも、昨今の流行りなのか変わり種が多く見受けられ、少し迷った末に、もともと買う予定だった『伝統五種+肉の食べ比べセット』に追加して『干し肉チーズ』と『肉団子パイナップル』を買う。サンプルを見る限り虹色に染まっている『ゲーミング粽』なるものもあったが、あまりにもゲテモノの雰囲気だったので咄嗟に目を逸らした。王が気付いたら欲しがりかねないので、それが王の視界に入らないよう身体で死角を作りながら、電子マネーで決済をする。

 コンビニでビールとやたら甘い謎の茶を買い、ホテルに戻る。道すがら、王が屋台で売られていた子供向けの七色に光るブレスレットを欲しがったので買ってやると、いよいよ夜の散歩をしている小型犬のようになったので、可笑しくなってしまいスマホで写真を何枚か撮った。それを弊社のグループチャットに送りつけると、「陛下可愛すぎ」「陛下を私物化するな」「先程の明細でご質問したいことが」「おさんぽたのちいねえ」「ペキニーズの赤ちゃん」等と多種多様なレスポンスがつく。そして目に止まった『明細』の文字にザッと血の気を引かせていると、王が「あ、さきほどのうねうねはどうしたんですか?」と僕の袖を引いた。恐らく明細に書かれた型番を調べたであろううちの会計士と同じく、王もクリア素材で虹色に光るブレスレットを見てアレの存在を思い出してしまったようだ。その『なにとは言わないが模したやつ』を。
 二重に血を抜かれていくような心地のまま、曖昧な返事や呻き、そして独り言で王の追及を躱しつつ、ようやくホテルの部屋に辿り着くと、どっと疲労感が肩に圧し掛かってきた。
「手、洗ってきて。メイクもちゃんと落としてね」
 洗面所に向かって王の背中を押してやり、待っているあいだに椅子の上に置かれたバスローブの袋を破って開封する。着ていたものを脱ぎ、部屋着代わりに袖を通せば、あらゆる丈が短い。しかしそれはいつものことなので、袖を捲りながら洗面所に顔を出すと、メイクを落とそうとしているだけなのにほとんど溺れている様子の王がいた。王は僕の気配を察したのか顔を上げると、顔だけでなく上半身と髪、挙句床までびしゃびしゃにしたまま「どうぞ」と言って下がろうとするので、捕まえて顔を拭いてやる。
「いや、いやっ」
「嫌じゃないの」
 細い顎を両脇からがっしりと掴んで基礎化粧品を塗りたくり、つやつやにしてやってから放り出す。すると王は深刻な人権侵害を受けたとでもいいたげに、困った眉毛で僕を見上げて「暴力」とそれだけ呟いた。
「キミ、よくそれで侍女たちを異動させまくりましたよね」
 王宮にいた頃、王が一斉に侍女を解雇した事件を思い出す。気が狂ったかと噂されたものの、実際は再就職先や異動先を確保してからの人事だったので、前々から入念に根回しをしていたようだった。これらは僕には無断で行われた出来事だったので印象に残っている。
「おなごにわたくしの世話は大変だろうと思いまして」
 王にも一応は不器用の自覚があるらしいので、そこには安心する。しかしそれが侍女が可哀想、という理由で解雇するに至るほどのものであるかどうかについては疑問が残るところだ。
「お陰で僕が大変だったねえ」
「おまえは好きでわたくしの世話をしていたのでしょう」
「確かに?」
 そんなやり取りとともに床の片付けをしてから、王を着替えさせてやる。ワンピースを脱がせ、下着のホックを外してやると、幾らか呼吸が楽になったのか、蟠りを吐くか細い声がした。
 そしてお揃いのバスローブ姿で買ってきた粽を開ける。部屋には電子レンジやマルチクッカーがあり、部屋自体のレトロさと比べて設備の類いは最新鋭だ。レンジ加熱が可能だという説明用紙が入っていたので規定通りに粽を温め、冷蔵庫から冷やしておいたビールを取り出す。
「はい、乾杯」
 申し訳程度に缶をぶつけ合い、まずはビールをひとくち。
「ぷは」と王が数時間前とまるっきり同じ声を発するのを聞きながら、僕も盛大に吐き出した溜め息と共に身体を弛緩させる。ん、と喉から声を発し王が缶を押し付けてくるのを、ちゃんと全部飲みなさいと叱りながら笹の葉を剥けば、湯気立つ褐色のもち米が露わになった。
「はい、おにく」
 まず初めに王の分の粽を手渡してやると、王はしばらくそれを矯めつ眇めつしたあと、おそるおそるの目線とは反して大きく齧った。もち米のためか噛み締めている時間が長く、ゆっくりと飲み込むと王は「ハオチー」と僕に笑顔を向けた。この星がきらめくような笑顔に僕は滅法弱く「それはなにより」だなんて涼しい顔で笹を剥きながらも、内心嬉しくて堪らない。見られている訳でもないのに、緩んだ口許を隠したくて剥いた粽を齧ると、ねっちりとインパクトある食感とともに海鮮の芳醇な滋味が口いっぱいに広がった。次いで、笹の葉の清潔な野趣が鼻に抜ける。確かにこれは食感以前に、舌の上に提示された風味をすべて捉え切ろうと何度も噛み締めたくなる料理だ。手軽なところも美味しさに大いに貢献している。
「ハオチーですか?」
 王が首を傾げる。
「ハオチーだねえ」
 答えながらビールを傾けると、その隙に王が身を寄せてきて僕の手の中の粽を齧った。こら、と叱りながらも口をもぐもぐと動かしている王の頬がいたたまれないほど可愛くて、文句が尻切れてあとは溜め息に変わる。
 王も王なのだからそれなりに礼儀作法を叩き込まれていた筈で、なのにこうやって僕の前ではガチャガチャと行動煩く真面目にしていないということは、僕に対して多少なりとも甘えてくれているという証左なのだろう。勿論、王という肩書き相応の横柄さも存分に持ち合わせていて、それと甘えたの区別が付きづらいのは難点ではあるものの、そこもひっくるめて持ち前の可憐さがペイしてくれているのだから上手いことできている。可愛さでどうにかなることは、大抵その可愛さでオーバーキルしてどうにかしてしまうのだ。
「次はこれを食べます」
 暗に「剥け」と言われているので、王が指差す粽……『干し肉チーズ』を手に取り、葉を剥いてやる。そしてそれを口にした王がなぜだかピタリと静止するので、不味かったかと口直しに甘い茶の蓋を開ける構えをしていると、数秒の沈黙のあと王は「知ってる味がします」と言ってビールを口にした。そして中々ふたくちめを口にせず、飽きた様子で粽をテーブルの上に置くので、引き受けるつもりで齧ってみる。
「……ピザだね」
 率直に頭に浮かんだものを声に出すと、王はビール缶を手放さないままこくりと頷いた。これは明らかにテンションが下がっている様子である。
「いや、でも悪くな……あ、これは葉っぱの風味が邪魔ですね。不味くはないんだけど、ピザと笹が合うかと言われたら困るというか、スシ・バーの店内でピザを食べさせられてるみたいな違和感が……うん、逆にトマトが入っていないことが救いになっているかもしれない。ギリギリセーフって感じが新鮮っちゃ新鮮」
 美点を見つけようと注力すればするほど、その砂金を掬い取れなくてだらだらと言葉を連ねてしまう。王は僕の言葉に何度も細かく頷くと、それでも食い気は諦めないのか「こっちを食べます」と『肉団子パイナップル』を指差した。
「……僕の桜海老のやつあげようか」
「こっち、も、食べます」
「全部食べる気なんだねえ」
 想定はしていたので、王の発言は受け流して葉を剥いてやる。すると今度は慎重になるかと思えば、王は相変わらずの勢いでぱくりと食むと、長い咀嚼のあと口を開いた。
「さっきのよりハオチーです」
「本当? ちょっと頂戴」
 さっきのやり返しのつもりで王の手から直接食べてやる。確かに似非ピザよりはずっと良いが、これは。
「……酢豚、だね」
 新しいものを作ろうとしているのに、既存の何かにしかならないのは皮肉なことだ。奇を衒ったものは結局スタンダードには勝てないということを再確認するが、こうなると『ゲーミング粽』なるものも買っておけばよかったと思わなくもない。既存の何かを準えた味のものを食べさせられるのなら、いっそのことゲテモノに振って欲しい。はたしてあの虹色のもち米は何味なのだろうか。エナジードリンク味だろうか。
「スブタ?」
 エナドリ味の米に思いを馳せていると、王が再び首を傾げた。相変わらず梟のような、ぐるんといってしまいそうな小首である。
「ああ、食べたことないか。酸味のある味付けの豚肉の炒め物なんだけど、地方によってスタイルが違って……ってまぁそこはいいか。中でも広東風の酢豚には野菜が入っていて、そこにパイナップルが入ることもあるんだ。まさにそれの味がする」
 説明してやるものの、王はあたたかい炒め物に果物が入っているということが理解しづらいようで、口を笑顔のかたちに引き結んだまま静止している。処理落ちのようなこの仕草は、王が思考を整理していると思しきシーンで頻繁に見られるのだが、これにより王の根本が熟考の末に少ない口を開く思慮深い性質であることが窺えるので、僕はこのひとときが好きだ。納得するにしろしないにしろ、王がその纏まった考えを他者にシェアすることは滅多にないのだが、それらが外部に向かって提示されるとき、王の中で確かに世界が広がっているのだという他者目線からの実感と期待がある。これは成長の美しさだ。
 ぱくり、と王のちいさな口が再び『肉団子パイナップル』を齧る。パイナップルの実の繊維が引き裂かれる様子が、やけに鮮やかに僕の目に映る。ひとり頷くちいさな頭。その塩味と甘みと酸味で、世界を旅する意欲がもっともっと刺激されたらいい。
「味がたくさんあります」呟くように、王は言った。「匂いもたくさんある」
「そうだよ。それが料理だ」
 粽をまたひとつ腹に収めた王に、甘い茶を開けて手渡してやる。それを急な角度で傾けてひと息吐いた王は、もそもそとソファの上に横たわり、ぎゅっと身を縮めて丸くなった。王は蹲って眠るのが癖らしく、どんなに広いベッドの上でもちいさくちいさくなる。
「こら、お行儀が悪いよ」
「ここにはおまえしかいません」
「確かに?」
 僕しかいないのだから、高級そうに見せる必要もない。血統書付きの猫でも本質はただの猫。人間がいなければ甘い声で鳴かず、媚びもしない。王にとっての僕は、さしずめお気に入りのクッションや段ボールといったところか。
「まだ粽残ってるよ。珍しいねお残しなんて」
 普段の王は与えたら与えた分だけ食べるのだが、今日はもうそういう気分ではないらしい。なにやらぽそぽそと喋っているようだが、明確に僕に宛てたものではなさそうなので、僕は僕で残りの粽を食べる。

「ちまき……」
 王のちいさな声で目が覚めた。
 殆ど愛玩動物の鳴き声のような音量で粽のことを呼びながら、王は部屋をぐるぐると歩き回っているようだ。そんな忙しない王と対照的に、僕は寝惚け眼の鈍い動きでヘッドボードのパネルを弄り、電動のブラインドが上がり切ったことを確認してから起き上がる。欠伸をし、乱れていた寝間着代わりのバスローブを脱ぎ捨てて身体を伸ばしていると、王が裸の胸に突っ込んで来たので勢いのままベッドに押し倒された。
「なになに、どしたの」
 毎度毎度、新鮮に「でっかいな」と感心してしまうほど立派な乳房が僕の胸板を殴打するかの如く打ち付けられ、その衝撃に呻きながらもダイレクトにその柔らかさを感じる。しかし朝っぱらから色気のある展開になるわけもなく、王は語尾の震える細い声で「ちまきはどうしたのですか」と訴えると、僕の肩口に突っ伏した。
「え、食べたけど」
 やってしまった、と肝を冷やしながらも、いや王はなにも言っていなかったと思い直し真っ直ぐに王を見据える。すると王は僕を見上げ、小さな拳を僕の胸板に叩き付けると、喉奥から絞り出すように「なつめとあさりは」と遺失物の名を呼んだ。
「だってお残ししてたじゃん」
「朝また食べようと取っておいたのです……」
「えー、報連相……」
 しかし僕がどれほど聞いていないと訴えようと、王の食べ物の恨みは消えないのだろう。もしかしたらこれが初めての食べ物の恨みなのかも知れないと思うと、自分が引き起こしたことにも関わらずなんだか愛おしい気がして、笑いを堪え切れないまま王の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。あれほど食に興味がなく、必要な栄養素すら摂れずに骨が細いまま成体になってしまった我が王が、食べ物のことで胸をざわつかせ呻いているのだ。
「はっはっは、ごめんごめん」
「なんだかモヤモヤします」
「ひっひっひ……」
 王には申し訳ないが、笑いが止まらない。嬉しくて可哀想で可愛いと、知性体は笑うしかなくなるようだ。
「どうして笑うのですか」
「なんでもないんだよ、なんでも」
 王を抱いたまま起き上がり、その背中を叩いて着替えるよう促すと、王は僕が用意した着替えに渋々といった様子で袖を通し始めた。
「美味しいもの食べに行こうね」
 無理矢理に王を元気づけながら、僕も身支度を整えていく。残した粽を想いながら夢をみていたのか、王はすっかり腹を空かせた様子でとぼとぼと動き回っているらしく、その足取りは見ているだけで切ない。そんな、すっかりと消沈している王を捕まえてその髪に櫛を入れ、髪留めを挟み込んでやっている間に、王は幾らか気を持ち直したのか、ちいさな声で矢鱈と上手い鼻歌をうたい始めた。
「なつめ、あさり、なくなっちゃった」
 しかしその歌詞は未練タラタラで、僕は何度も繰り返し謝りながら外出の準備をする羽目になる。それからふたり手を繋いで部屋の外に出て、エレベーターに乗り、細い路地を抜けながらも、王は繰り返し棗と浅蜊の不在を嘆くので「なつめ、あさり、買ってあげるよ」と返歌した。

 開店したての屋台で棗と浅蜊の粽を買ってやると、王はもう誰にも渡したくないという意思表示からか、両手でひとつずつ握って離さない。仕方がないのでその肩を抱きながら昨晩写真を撮った橋まで移動し、欄干の前に陣取って片方の粽を剥いてやれば、もう片方も突き出されたので同様に剥いてやった。できたて熱々の粽に、王はニコニコ笑顔で交互に齧り付いては、微笑ましく見守る僕を時折睨んで牽制する。
「機嫌直してくれた?」
 中身のすっかり消えた笹の葉を受け取り、代わりにウェットティッシュを握らせると、王は「まぁ」と素っ気ない返事をし、欄干を抱くようにして濠河に向かって幾らか身を乗り出した。その手がくしゃくしゃとウェットティッシュを弄ぶのを取り上げ、その柳腰を抱き寄せ支えながら共に待つのは、ドラゴンボートレースの開幕である。
 長江からの川風に前髪をなぶられている王の丸い額が、陽光を受けてきらめき、どこか黄色い青空に向かって受け取った紫外線を跳ね返している。真っ白な肌はその場でたちまち霧散しそうに淡く、しかし青空とばっきりとしたコントラストを描いて美しい。そんな至上の美を湛えた我が王が眼差しを向ける濠上には、ドローンが連隊を組み、参加チームの紹介をするホログラム映像を流していた。
 どこを応援する? と訊ねると、王は「たちまちちまきーズです」とふざけたチーム名を口にする。映像を見ると、企業チームや地元チームの名前に並んで、確かにそのような気の抜けたチーム名が並んでいた。
「なんというか、強くは……なさそうだね」
「失敬な。おまえがたちまちちまきーズのなにを知っているのですか」
「だってさぁ……ほら、あの『碧林興業カイリンズ』とかのほうが強そうじゃない?」
「響きから得られる印象が確かなら、わたくしの名も強くなさそうということですか。しかしわたくしは強いのですが」
「王のお名前はねえ、綺麗で僕は好きですよ」
 そんなことを言い合いながら待つこと十数分。突如響いたクラシカルなピストルの音に、言い争いを止めて歓声の一員となる。人力で漕ぐものだからと甘くみていたが、目の前で鋭利なボートが水面を切り裂いて進むさまは中々の迫力で見応えがある。今いる橋の真下を通り過ぎれば、あとは巨大モニターの映像を目で追うしかないのだが、それでも王はがんばれ、がんばれ、と声に出して両の手を握り締めていた。
「励みなさい、励みなさい」
「わぁー、応援からして王だね」
「励……わ、わあ、差せー!」
「どこで勉強したのそれ」
 弊社の誰かが変なことを吹き込んだか、ネット動画辺りの影響だろう。社員だったら許さないぞ……と僕が雑念に取り憑かれているうちに、もう先頭はゴール寸前。だが、後続も末脚ならぬ末漕ぎで突っ込んでくる。歓声が立体となって押し寄せてくる感覚。僕がボートを漕いだ訳でもないのに、風になったかのような爽快さが全身を包む。決着を見届けようとモニターを注視すれば、各チーム横並びとなり、大接戦の様相を呈していた。
 そして、決定的瞬間。ゴールインと同時に、ゴールラインの両サイドに据えられたキャノンから、一斉に花弁が撃ち出された。勝者を祝う、景気の良い花吹雪が、風に乗ってここまでやってくる。
 巨大モニターと濠上ホログラムには、勝利チームの名前が大々的に。優勝は……『人の金で南通フグ食べ隊』
「……王、なにかコメントは?」
 笑顔を作って王を見遣ると、王も僕に同じだけの笑顔を向けてきた。
「ふぐ……食べてみたいです。ひとのお金で」
 発表によると、たちまちちまきーズは四位。碧林興業カイリンズは七位だ。どうやら僕たちの見る目は無かったらしいが、それでも楽しめた。王もニコニコと上機嫌である。
 撤収しようと促し、王が両足を乗せていた欄干下部の段差からぴょんと降りるのを待っていると、ふと背後に瘴気に似た香りがした気がして振り返った。見ると王とはまた違った白さをした男が、僕らのすぐ傍に立っている。
「……人の金で南通フグ、食べたくありません?」
……低く、シルキーな声だ。
「いや、自分の金で食います」
 新手の詐欺にしては謳い文句が雑過ぎるが、しかし人間ではなさそうなのでさり気なく王を後ろ手に庇って一歩退く。不思議と不愉快な感じはしないが、売り文句が胡散臭いので警戒に値する。
 メインイベントが終わり、大移動する人波。雑踏を背後にしても、男の周りはスポットライトが当たっているかのように明瞭に、辺り一帯から区分けされ、浮いている。それどころか清浄な気すら感じられ、気のせいかと思う程度の野花の淡い香りが川風のなか、僕たちの周りで停滞していた。
「……どちらさんでしょう」と、慎重に声を発する。
 すると男が口を開くより先に、王が僕の背から顔を出した。
「ニー、ユェンイー、ズゥォ、ウォ、デァ、ラオポオ、マー?」
……わたくしの妻になってくれませんか?
「ちょっ、早い! 早い早い早い!」
 また、である。慌てて王の口を塞ぎ、背後の男に「今のナシ!」と訂正を入れると、挨拶じゃないのよそれは……と王を詰める。手のひらの下で王の唇がなにやら喚いているが聞いてやらないことにして、その体勢のまま──ある意味で人質を取っているように見える──で男を振り返ると、ちょうど彼が堪え切れないといった様子で吹き出したところだった。
「あっはっは、面白いね君たち」
「面白いのは我が王の頭だけですが」
「おや、主従関係かい。可愛い主君がいていいねえ」
「はい、わたくしは可愛いです」
 僕の手を口から剥がした王が言葉を発し、途端に混沌とし始める。喩えるなら、人と人の会話に突如として黎明期のバーチャルアシスタントが参入してきたような感じである。会話を拾える性能があるくせ、言葉の応酬は妙に下手だ。
「可愛いわたくしの求婚へのお返事は」
「うーん、まだ出会ったばかりだしねえ」
 王の回答要求に、白い男は顎を揉む。
「やーい、王ってば振られてやんの」
 それ見たことかと王の肩を叩くと、王は恨めしげに僕を見上げてきた。その膨らんだ頬をつねって萎ませながら、残念でした! と吐き捨ててやっていると、それを見ていた男は「ちょっと待ちなよ」と顔の前で否の動きで手を振った。
「まだ振ってないよ。保留してるだけ」
「いや、もう終わる流れだったでしょ。見ず知らずのアンタまでボケ始めたら僕もう立つ瀬ないんですが」
 王の恨めしげな眼差しが、僕に伝染し、じっとりと男を映す。ショートカットの白髪。臉譜の紅の下には、怜悧な金眼。服装は今どきのスポーティーな誂えだが、漂う貫禄からして永く生きていることが察せられた。まぁ見るからに御目出度そうな美男子で、陰キャの僕のはらわたは昏い熱を持ちそうになる。
 そんなふうに鬱屈としている僕を指差し、男はうつくしく微笑みながら言った。
「違うね。単に灰髪の兄さんがお嬢ちゃんに振られたくないだけでしょ」
 その言葉に、真っ先に王が聞いていないかを横目で確認する。王は道ゆく子供が持っている風船に気を取られているようだ。聞いていないことは幸いだが、つまりは現時点で敵でも味方でもない。僕の王なのに。
「あらら〜、片想いかな」男はそう言って愉快そうだ。
「なんで僕が見ず知らずの方に刺されなきゃいけないんですかね」
「ねえおまえ、あの風船がほしいです」王はこちらを見ずに僕の袖を引いている。
「王、僕の状況わかってる?」
 味方がいないことに、昨夜と違って今度は僕が処理落ちしそうになりながら、頭を抱える。これまで波風立てずに生きてきたわけではないが、ここまで理不尽な波乱をぶつけられる謂れだってないはずだ。
 男は狼狽える僕を見てひとり満足げに頷くと、馴れ馴れしく肩を叩いてくる。陽キャだ。絶対に相容れないタイプ……ひとことで言って、苦手だ。
「私は目出度い雰囲気が好きでね」と、男は切り出す。
「今日は祭があるから山から降りて来たんだけど、その中でも君たちがずっとイチャイチャイチャイチャして楽しそうだから引き寄せられてしまったんだ。いきなり声を掛けてごめんよ。いつチューするのかと思ってね。でも中々しないからけしかけてやろうかと」
 なんだ、コイツ。そう思った心の声は、実際に声帯から漏れ出ていたかも知れない。
「は……チューぐらい、普通にしますが。ね、王?」
「……?」王はきょとんと首を傾げている。
「梯子外さないで」
「タベモノノウラミです」
「今復讐するのはやめてね。……ほら、スマホポチポチしてなさい。ソシャゲのログボ貰ってないんじゃない?」
 こうなれば王には戦果を求めず、大人しくしていて貰うほかない。王の提げているポシェットからスマホを取り出し、渡してやると、ものの見事に食いついた。この活きのいい魚を放流しないよう、その首根っこを掴みながら、今一度男に向き直る。
「僕の名前はラドレ。こっちは我が王。目的はカリナリーツーリズム。サイトシーイング。オーケー?」
 紳士的に接して事なきを得る方向に作戦を設定し、僕は男に握手を求めた。
「オーケー。私はシャンスゥだ」
 シャンスゥと名乗った男は、躊躇いなく僕の手を握ってくれたので幾らか安堵する。その華奢な手からは悪意は感じない。
「しがない白澤はくたくだよ」
 白澤。知恵を司り、良い為政者には助言をくれる瑞獣だ。その情報が加算されると、尚更男が眩しく感じられ、瞼が震えた。しかしこれはこの男の有する麗しさに思わず、ということではなく、ストレスが原因である。
「そのように徳の高そうなお方が何用ですか」
「だからチューしないかなって」
「カップルがチューするのが見たくて山から降りて来るんです? 悪趣味ですね」
「いや、正しくはカップル未満がチューするのを見たい」
……男はあっけらかんとそう言って、僕の軽蔑を集めていく。
「そういう感情、ない? 少女漫画みたいに、付き合うまでがピークみたいなさ、あの甘酸っぱい盛り上がりが好きと言うか」
 少女漫画……ティーンエイジャーの女子向けコミックのことだ。そのようなコンテンツを積極的に摂取した試しはないが、弊社の事務員が読んでいるのを見かけたことがあり、彼女の口から概要を聞き、何冊か貸してもらったことがある。内容はどれも僕にとってはやきもきするもので「やれよ」「そこでやらないとかフィクションすぎる」と感じるものだった。実際に実行できるかどうかは勿論別の話ではあるのだが、それをわざわざ好むだなんてとんでもない性癖である……などと思ってしまうのは、僕が不勉強だからか、それとも単に合わないだけなのか。
「ないですね。あと、僕たちをカップル未満とか言うのやめてもらっていいですか」
「そうじゃないのかい?」
 彼は神妙な面持ちで問うてくる。
「そうじゃ、ない、です。うん」
 僕も神妙さを意識して、返答する。
「じゃあなんで彼女は私に求婚を?」
「ぐぬぬ」
「ぐぬぬってリアルで言う人初めて見たよ」
 相手のペースに引き込まれていることを感じながらも、もう黙って背を向けるしか状況を打破する方法がないような気すらしてくる。傍らの王はソシャゲのキャラガチャを僕の指を使って回しているし、男……シャンスゥは揉み手をして距離を詰めてくる。僕の心は寄る辺ない。四面楚歌ならぬ二面楚歌だ。二面の『僕を追い詰めてやろう』という圧が強過ぎる。極めて腹が痛い。勿論ストレス由来だ。
「あはは、ごめんね。お兄さんの反応が可愛くて虐めたくなっちゃった」
 唐突に、シャンスゥは二拍手を打って空気を変えた。僕のような大きな男が可愛いだなんて変わっているが、なぜだか歳上の個体からはからかわれがちなのでその方面に僕のなにかが作用するのだろう。それはそれとして許す気はないので無言でシャンスゥに視線を留めると、彼は爽やかな笑顔でボートレースの振り返り配信をしていた巨大モニターを指差した。
「実はね、私はスポンサーなんだ。ここの地域代表である『人の金で南通フグ食べ隊』の」
 その言葉に、はぁ、と間抜けた相槌が漏れる。
「人の金で〜がウチのチーム。碧林興業は麒麟のとこの。ちまきがなんたらは鳳凰のとこ。この時期になると三人で自分のチームを競わせたり賭けたりして楽しんでるんだ。勿論、ボートを漕いでいるのは人間だよ。それぞれのフロント企業の人たちで……まぁ、言ってしまえば我が子の運動会やらお遊戯会みたいなものだね」
 瑞獣を代表する三体のうち、二体のネーミングセンスが壊滅的なことがやや気になるが、長寿の彼らが人間と共に穏やかに暮らしていること自体は、それなりに喜ばしい。人の歴史と切っても切れない存在が故に、消えたり弱ったりしている神魔も少なくはないからだ。
「今のはまぁ、宣伝なんだけど。……つまり、ここら辺は私の管轄の土地なんだ。その中で明らかな異分子が検知されたら様子を窺うのは当たり前だろう? 特にそっちのお嬢ちゃんはその気になれば社会のひとつふたつ、簡単に壊せるほどの力がある」
「それは、まぁ、そうですね」
 王自身は極めて大人しい個体で、人間社会や人外社会に対する敵意や悪意は一切ないと言い切れる。ただ、その不器用な婚活行脚のせいで時折死人を出すだけだ。
「要は他所のシマに来るなら挨拶くらいせんかい! ってことなんだけど、まぁ単純に旅行ならね、いっか。厄いものは感じないし」
 シャンスゥはそう言って、引いたばかりのレアキャラにゲーム内リソースを突っ込んでいる王の姿を感慨深く眺めているようだった。その眼差しは王が人間を見るときのものに近く、要はちいさくて可愛いと思っているのだろう。
「王ちゃん、可愛いねぇ。幼体かな」
「成体ですよ。子供の頃の栄養状態がよくなかっただけで」
 王の身長は低くなく、基本的にヒールの靴を履いているのもあり高身長に見える筈なのだが、胸部に視線誘導があり、どうにも重心が低く印象付けされてしまうのに加えて行動が幼いため、同族からは幼体だと思われることが少なくない。
「君は?」
「見て分かるでしょう」
「おねショタ、或いはおにロリの可能性もあるかなって」
 耳慣れない単語がふたつ並んだが、意味は知っている。なぜなら弊社のエンジニアにオタクがいるからだ。
「僕は成体同士の恋愛しか受け付けません」
 手を胸の前に出し、きっぱりと答える。この辺りの宣言は大切だ。王にも成体以外に手を出すなと言い聞かせている。
「年の差は?」
「まぁそこそこありますが」
「幼体のときに手、出したの?」
 デリカシーのない輩だ。本当に苦手なタイプである。
「出してないんですが?」
 これについては、ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ……とその胸倉を掴みたくなるが、王の手前ぐっと堪える。この期に及んでまで、僕には王の前ではいい子で可愛い騎士でいたいという意識があるのだ。しかし僕の思いなど微塵も気にしていないであろう王は、今度は僕の指で武器ガチャを回しながら、言った。
「春ですか?」
「はい?」
「発情期ですか?」
 普段通りのポーカーフェイスで、王はスマホ画面を注視している。そちらでは確定演出が入ったようだが、僕はそうじゃない。負け確、という予感が目の前にちらつき、それを払拭しようと強くまばたきをするが、消えない。
「いやそこはわかって……って、いやいや、違うって。なんでそうなるの意味わかんないよ」
 思わず語気が強くなるが、王は気にした様子もなく更なる爆弾発言を投下した。
「だっておまえは男性体が好きなのでしょう」

 円卓の上にはフグ料理が並べられている。照りの見事な醤油煮込みや、見るからに滋味の利いていそうな真っ白なスープ。揚げに蒸しに、様々な調理法で七変化したフグのフルコースに、大粒さを際立たせるかのように繊細なドレッセの蛤料理まで添えられている。江の河豚に海の蛤とは聞いたことがあったが、それらの麗しくも勇壮な佇まいには思わず舌を巻く。特産を謳うだけのことはあるようだ。
「おいしそう。ありがとうございます、シャンスゥ」
「たんとおあがり。ウチのシマ自慢の食材だよ」
 普段の僕の役目を、さり気なく王が代打しているが、現に僕は深刻に落ち込んでいるので使い物にならない。申し訳程度に王の言葉に頷いたくらいだ。それどころか鬱屈とした心地から腹も減っていないし、おまけに鳩尾の辺りが不愉快で、今すぐにでも布団に入って寝込みたいような気分である。
 先程の王の発言に愕然としていた僕に、初対面であるシャンスゥですら不味いことが起きたと察したのだろう。慌てたように「奢るよ! 本当だよ! 私はちゃんと分かってるよ! 大丈夫だよ!」と僕の背中をガシガシと摩った彼が、素早く車を手配してくれたので、うっかり乗ってしまった。瑞獣らしく優しい彼を見直している間に連れて来られたのは立派なレストランで、上階の広い個室に案内されて現在に至る。
 嬉しそうにニコニコしながら、相変わらずの手つきで料理を口にして「ハオチー」と愛嬌を発揮している王とは対照的に、僕は笑顔を作って箸を握るだけ。それを見かねたシャンスゥがスマートに白汁河豚を取り分けてくれたので、幾らか救われる心地がしながらそのスープをひと口啜ると、コラーゲンの溶け出した滑らかな舌触りと生姜の温かさが、腹の底でじんと染みた。
「これは殻を食べますか?」
 ホイル焼きの蛤を一粒摘んで、王が問うてくる。辛うじて「食べないよ」とそれだけ口にして、僕はスープをちびちびと飲んだ。ほぐしたフグ身は非常に柔らかく、殆ど食感がないに等しいが、白身の味の濃厚さは舌に残る。美味い。美味いのは、確かだ。
「元気出して、ラドレ君。たぶん王ちゃんはなにも考えてないんじゃないかな。ほら、無邪気だし」
 黄ニラと一緒に蒸された剥き身の蛤を僕の皿に取り分けてくれたシャンスゥは、蛤の殻は食べないと教えたのにフグの骨はバリバリと噛み砕いている王に眼差しを向けそう言った。
「いや……王については、行動も発言もいつも通りなんで特に……なんですけど。元々ああいう子なので」
「うん」
 僕らの視線の先で、王はニコニコと……『食べる』というより『捕食』をしている。それを同族のSPと思しき黒スーツたちが凝視しているが、王は微塵も気にしていない。
「王に『そう』思わせていないかと問われれば後暗い部分があって、僕のせいだなぁと。僕じゃなくて、王が可哀想で」
 王は考えを滅多にシェアしない。しかし話してくれないからといって考えがないわけではない。わかっていたはずなのに、僕は目の前に転がっていたものを取りこぼしてしまっていたのだ。
「……つまり王ちゃんは、自分がラドレくんから関心を持たれているとは思っていないと」
 彼の推測は、僕が自ら生み出した驕りと同位だ。僕が研いで、僕が僕を刺突する。
「そうですね。……あの子は今も自分はひとりぼっちだと思ってるんだという片鱗を、突き付けられたというか。……よって、今は食が進まなく、申し訳ない」
 美味い飯がいつでも腹に入るとは限らないことを、きょう初めて知る。新鮮で、しかし二度は勘弁して欲しい感覚だ。胃の奥が不気味に痙攣している。
「なに、食えるときに食う。食えないときもある。それが人生さ。お土産も持たせてあげよう。如皋蟹黄湯包……カニ味噌肉まん、なんてどう?」
 観光大使よろしく宣伝に余念が無いが、今はその厚意を受け取っておくことにする。初対面で胡散臭いだの苦手なタイプだのと思ってしまったことを反省しながら、せめて彼が取り分けてくれた分は完食しようとレンゲから箸に持ち替えた。蒸し蛤はばつんとした歯応えが小気味よく、元気だったら酒とともに味わいたいところだ。
「そうそう、食べられるだけお食べ。精がつくものばかりだから、今夜は一発セッ……男らしいところを見せるといいさ」
 どうしてこの男はお目出度い気を背負っているのに、こう俗っぽいのだろう。そこが残念というか、なんというか。
「……やっぱり僕、貴方のこと苦手だなぁ」
 言いながら、王の滅茶苦茶な箸を正す。

 
「発情期ですか?」
 組み敷いた王の、眠たげな眼窩に嵌め込まれたプレシャスオパールが七色のライトを受けて滑らかに照る。
 心を病み続けるのもそれはそれで疲れるので、浅慮にも目先の鬱屈をどうにかしたくなった。ならば助言の瑞獣に唆された通り一発かましてみようと思い立ちはしたものの、いざ押し倒してみると王はそんなことを言うだけで抵抗をする素振りを一切見せてくれない。しかしそれはわかりきっていたはずで、王が思う通りの反応を見せてくれないのではなく、僕に現状を打破するだけの度胸がないだけだ。手首なんて捕まえなくても、王は逃げたりしないというのに。
「……どうしたのですか?」
 僕が中々次の一手を打たないからか、王が不思議そうに問うてくる。言葉が出ない僕はただただ王の睛に見入ることしかできなくて、沈黙だけが流星のように僕と王のあいだの僅かな隙間を繰り返し縫った。
「ん? ああ……いいですよ。同意ですよ」
 沈黙の流星群をただただ観測していた王は、なにかを察したふうにそんなことを言った。僕が普段から口を酸っぱくして『性的合意を取れ』と言い聞かせているからだろう。しかしそれが今の僕にはあまりにも深く刺さる。やめてくれ、とですら。
 王は、箸こそ上手く持てないが、僕の言うことを聞こうとはしてくれているのだ。やっていいこと、わるいことを王なりに分別もしている。だから以前僕が「僕みたいに身体通りの生殖能力を有した雄の個体には大抵欲がある」と教えたことも覚えているだろうし、肉体を使った『やりかた』も忘れず、行為に伴う咬んだり舐めたりの加減も褒めた通りのままで維持しているのだ。王は学習して、賢くなっていく。つまり学習して、どんどん僕にとって都合が良くなっていくということだ。
 しかし青い嵐の真っ只中で様々なことを学び糧としているその清廉な姿は、間違いなく庇護に値していて、王のことが可愛くなればなるほど、断罪されたくなる。
 既に手は出している。起こってしまったこと、起こしてしまったことを受け入れろ。そう乱暴に鐘を鳴らすほどに己のグロテスクさが浮き彫りになる。今になって始まってしまったその過去を回想する影絵劇は遅効性の毒だ。神経に効いて、弛緩した僕の手が王の手首を解放する。しかしいち早く投了していた筈の王は、手首を離してもなお動かないまま、しずかに僕を見上げていた。
「おなかがいたい?」
 無垢な声で、王が問うてくる。首を傾げながら自らブラウスのボタンを外し始めるその手を、咄嗟に掴んで制した瞬間に「おなか、痛いね……」と、脂汗の滲んだ声が唇の端から漏れた。
 先の発言から、きっと王は今まで僕に愛されていないと思いながら僕に抱かれていて、それを今日初めて開示したことにより、僕に対して、王が受けていたものと同じだけの刺し傷を与えた。ただ同じだけの熱量で返されただけなのに、狼狽している僕は自分の加害性を自覚しないなまくらだ。
 可愛い。愛おしい。飯を食わせたい。着飾らせたい。抱きたい。……なんなんだ、僕は。僕は王のなんなんだ。ぶつ切りの思考の合間を、黒々とした感情が這い回り満ちていくが、満たされない。
「ふむ。……よしよし、ラドレ。抱いて眠ってあげましょう。ここに寝なさい」
 ふと、王はそんなことを言って自身の脇のスペースをぽんぽんと叩いた。そして躊躇っている僕をほらほらと急かし、横にさせると、横臥するかたちで王は僕の頭を抱いてきた。「よし、よし」と王は妙にしっかりとした口調でそう言って、やわらかく僕の髪を撫でる。
「……王、外出た服のままだし、シャワーも浴びてない」
「そうですね」
 それがどうしたとでも言いたげな王は、僕を離してくれるつもりがないのかヘッドボードに手を伸ばして灯りを消した。操作パネルだけが微かに発光する薄青い闇のなかで、王は子守唄のつもりなのか粽が消えた悲しい歌をうたっている。
「なつめ、あさり、なくなっちゃった」
 それを王の懐深い胸の中で聴いていると、なんだか可笑しくなってきて、震える腹から外部へと逃げようとするその振動を喉で押し殺す。どうにも『なくなっちゃった』が切ない。切ないから、可愛い。なくなっちゃったものは、いつだって永遠だ。こうして歌になるほどに。
「なつめ、あさり、買ってもらった……なつめ、あさり、ハオチーだね……」
 ぐ、と堪え切れない振動が息を震わせた。
 なくなっちゃったものは消せない。しかしなくなっちゃったことを打ち消して無にはできない。なくなっちゃったものの不在を埋めるのは、別の新しいなにかだけなのだ。
 掛けたままだった眼鏡を外して王を見上げる。照明操作パネルが象る青いヘイロー。キスしていいかと問うと、王は真面目な顔で「それも同意が必要なことなのですか」と首を傾げた。

「にくまん……」
 王のちいさな声で目が覚めた。
 薄く空いた瞼を指で揉みこみ、幾らか視界がクリアになってから起き上がると、寒そうな姿の王がソファに座ってなにかのパッケージを矯めつ眇めつしているのが見えた。操作パネルに触れてブラインドを開けながら、探し出した眼鏡を掛ければ現在時刻が視界に表示される。まだ早い時間帯なのに……と思いつつ、ベッドの縁に引っ掛かっていた下着を手繰り寄せ、脚を通して立ち上がれば、王がなにやらもにょもにょ言っているのが聞こえてきた。そしてスツールの上に畳んで置いていたバスローブに袖を通し、重ねてあったもう一着を持ってソファに近付くと、どうやら王が手にしているのは昨日シャンスゥが持たせてくれたカニ味噌肉まんの箱らしいということがわかった。
「……食べたいの?」
 植物のような裸体にバスローブを掛けてやりながら、隣に腰を下ろす。すると王は「せいろがないです」と眉根をぎゅっと寄せ、そのパッケージを僕の目の前に突き出してきた。それを受け取りお召し上がり方法の欄を見れば、確かに蒸篭でふっくら! と躍る文字の下に個数あたりの蒸し時間しか書かれていない。
「ちょっと待っててね」
 王のちいさな頭を撫でながら立ち上がり、キッチンスペースに歩いて行くと、記憶通りに筒型のマルチクッカーが置いてあった。中を確認し、ザル型のアタッチメントを軽く洗って肉まんを並べ、規定量の水をクッカーの内部に入れて蓋を閉じる。すると王が駆け寄って来たので、入力コマンドを教えてやれば、王はきちんと覚えてボタンをピッピッと押した。
「何分ですか?」
「三分くらいじゃないかなあ」
 答えながら王のバスローブの前を留めてやっていると、王は膝を折った僕を見てなにやらニコニコしはじめる。どうしたの、と訊ねると、王は「わたくしはですね」とその薔薇のようなくちびるで切り出した。
「おまえにぎゅうとされるのが、好きなのですよ」
 はぁ、と間の抜けた相槌が僕の口から漏れる。王は言うだけ言って満足したのか、ぺたぺたと裸足の音を立てながらソファに戻って行った。数拍遅れでじわじわと嬉しさが込み上げ、ぐっと眉間に力を入れて顔が綻ばないように努めるが……ままならない。堪え切れず王を追い掛け、ソファに座ると、勢いのまま王を押し倒した。
「ね、今日はずっとぎゅっとしない?」
 額をごつんと合わせてお伺いを立てる。すると王は瞼を半分ほど下ろしてむすりとしながら「えー」と不満の声を上げた。
「やなの?」
「ううーん……」
「好きなんじゃないの?」
「……あ、肉まんができたみたいです」
 完成を告げる電子音が響き、王は僕の腕からするりと抜けてマルチクッカーへ向かって駆け行くと、少ししてザルごと肉まんを持って戻ってきた。熱い滴を垂らすプラスチック製のそれを「わほほ」と笑いながらテーブルに置き、見るからに熱そうな黄色い肉まんをひとつ掴んだ王は、それをゆっくりと半分に引き裂いて片方を僕に差し出してくる。
「ありがとね」
 受け取って礼を言うと、王は満足げに何度も頷いた。そしてぱくりとおおきなひとくちで、半分になった肉まんを齧り「知らない味です」と僕に笑顔を向ける。
「ハオチー?」
「ハオチーです」
 あっという間に食べ終えたらしい王は、もうひとつを手に取り、また半分こにして僕に渡してきた。僕の両手にはそれぞれ肉まんが半分ずつ。どうしろと……と思いながらも先に貰った方を口にした。カニ味噌と肉まんの組み合わせはいかがなものかと思っていたが、あっさりめの肉餡にカニ味噌の濃厚さが丁度良く、塩味も強めなのでなんというか酒が飲みたい味だ。
「王、冷蔵庫のとこの自販機でビール買ってきて」
「いいのですか?」
「いいよ、ピッピして」
 すると王はぴょんと機嫌よく立ち上がり、冷蔵庫のほうへ駆けて行く。そして「うねうね買っちゃダメですか」と性懲りもなく訊いてくるので「ダメに決まってるでしょ」と答えて振り返ると、王はきちんとビールだけを買ってくれたらしく、缶のプルタブを持ち上げながらこちらに向かって歩いてくるところだった。直後に「ぷは」と景気の良い声がする。
 片手が空いてようやくビールにありついた頃には、王はもう自分の肉まんを食べ終えて僕の膝を枕にしてスマホを弄っていた。どうやら旅の写真を眺めているらしく、いつの間に撮ったのかシャンスゥと王のツーショットも中に紛れており、複雑な気持ちのまま僕も昨晩から置きっぱなしのスマホを手繰り寄せた。すると奇遇にも一番上の通知がシャンスゥからのメッセージになっており、そういえば「元気になったらまた飯を食おう」と誘われていたことを思い出す。まだ元気とは言えないかもしれないが、届いたものの返事だけはしておいてやろうと通知をタップしてメッセージを表示する。
 するとそこには「一発どうだった?」と一文。そして彼自身の公式スタンプがあるらしく、デフォルメされたイラストの彼が『ガンバレ』とサムズアップしているスタンプが添えられていた。
「……やっぱ嫌いだわー」
 つい声に出してしまいながら、残りのビールを飲み干そうと缶を傾ける。



End.


なくなっちゃった赤と黒。
きみはルル・オン・ザ・ブリッジ。
さすれば次に来るのは愛人(ラ・マン)である。


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