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「父の愉快なエピソード」

 あなたにとっては、見ず知らずの一無名人に過ぎないかもしれない。古き良き時代を伸びやかに育っており、家族としての欲目もあるとは思うが、純粋かつ朴訥、典型的な薩摩人だった彼は、語るに足る魅力的な男だった。息子である私の視点でとらえた彼の人間像を皆様にお伝えしたくて筆を執ることにした。まるで、明治時代の小説の登場人物であるかのような痛快なエピソードも数多く残している。

 大正13年11月、鹿児島県加世田市に生まれ育つ。89歳没。生きていれば,今年(令和5年)で99歳になる。
 幼少期から色黒で体が大きく、周囲より頭一つ抜けていて、腕っぷしも強かった。旧制中学卒業後、東京高等師範に進学し、公立高校の体育教師となり、その後鹿児島県教育委員会体育保健課長となった。課長在任中の昭和47年に鹿児島で開催された第27回国民体育大会(太陽国体)では総監督を務めた。以後、スポーツセンター所長や校長などを歴任する。平成12年瑞宝章勲4等受勲。 
 そんな経歴からだけでは伝わらない、彼の人となりが垣間見えるエピソードについて、紹介しようというわけだ。
   
 まず最初に、母が祖母から伝え聞いたこんな話。
 父が尋常小学校の1年生だった頃ではないだろうか。はちきれんばかりの元気坊主だった彼は、歌唱の時間にいつも大声を張り上げ、声を枯らして帰ってくる。これでは喉を傷めてしまうのではないかと心配した祖母。あまり大声を出さないようにとたしなめるのだが、一向に改まる気配がない。そこで祖母は一計を講じる。
 小学校に忍び込んで父の机の陰に身を潜め、大声で歌う我が子に「おらっな、おらっな」と囁きかけたという。「おらっな」というのは鹿児島弁で「叫ぶ」の意の「おらぶ」の禁止命令形だ。
 現在では想像すらできない、昭和初期の田舎町ならではの、まるでコメディーのような光景だ。

 次に、たぶん高等小学校か、そうでなければ旧制中学在籍時のある日ある時のこと、同級生に誘われて川遊びを楽しむつもりで約束の時間にその場に行ってみると、なんとそこは他校との果し合いの場だった。腕っぷしの強さを見込まれ、まんまと騙されて担ぎあげられた格好だが、さりとて仲間たちを置き去りにするわけにもいかず、その結果、八面六臂の大活躍をすることになる。絶大な戦果をあげた結果、学校の先生に喧嘩の首謀者と見られてしまい、代表して怒られる。そんなことが何度かあったという。

 当時ならではのこんな話もある。
 被差別部落出身の同級生がいて、クラスのみんなから苛められていたそうな。そんな中、父は一人で彼を庇ったそうだ。そんなことをしたら、自分までのけ者にされそうなものだが、すでに述べたように、当時としては図抜けて体が大きく力が強かったので、苛めの対象になること自体あり得なかった。
 「俺達には渡来人の血が混ざっているが、穢多は純粋な日本人なんだよ。だからいばっていいんだよ!」
 そんな言葉に励まされた友人は、そのことを父親に話したそうな。すると、是非一度会いたいので家に呼んでくるようにと言われ、それに応えて訪ねたところ、涙を流して感謝の意を伝えられたという。漁師を生業としており、何尾もの魚をお土産に持たせてくれたそうである。
 まだ「士族」「平民」といった階級制が残っていた時代であり、士族だった父を呼び捨てにする同級生が、彼の母親から「〇〇どんの息子さあにそげな呼び方をすっもんじゃなか」と強く窘められるのを目にしたこともあるという。たぶん、父本人は穢多の級友とも気軽に付き合っていたくらいだから、誰から呼び捨てにされようが気にも留めていなかったことだろう。

 次に教員時代のエピソードを一つ。
 高等師範での専門は柔道だったが、本当に好きだったのは相撲。体育実技で「相撲」という科目が無かったため、「柔道」を選んだ。国体の教員部門で選手としての出場体験もあり、大将を務めた。筋肉質で肥満体型ではなかったため、相撲選手の中では小さく見えた。試合を終えた後、「鹿児島の大将は、ちっこいけど強いね」などという声が聞こえてきたこともあった。得意技は前まわし回しを取っての内掛け。速攻相撲で相手を仕留めていたらしい。2回戦ぐらいまでは勝つことが多かったが、相手が全国優勝クラスになると歯が立たなかったとも言っていた。

 鶴丸高校教員時代は、相撲部の顧問を任せられ、生徒の練習に胸を貸すこともあった。体の大きな生徒が突進してくるのに、やせ型の父がびくともしない。土俵が表通りから見える位置にあり、その様子に驚いた人がその様子に目を奪われ、一人また一人と立ち止まり人だかりができたものだという。
 相撲に関しては、息子の私も恩恵にあずかり、回しの取り方や足の配りなどを実際に体を使って教えてもらった。そのおかげで小学校の相撲大会では負けたことが無かった。20代だった音大学生時代、当時の体重も現在と同じく50キロに満たなかったが、バイト先での休憩時間に、体重100キロの奴と相撲を取って勝ったこともあった。こういう楽しい思い出が残っているのも父の遺産だと言える。

 県立国分高校に赴任したときの話も面白い。この学校では相撲部ではなく柔道部の顧問になった。前任の顧問は体育ではなく物理の先生で、あまり体も強くはなく、生徒と試合をしても勝てなかったらしい。生徒たちはそれを面白がって、「先生、稽古を付けてください」と申し出ては先生を投げ飛ばし、日頃のうっ憤晴らしをしていたようなのだ。
 新任の若い父に対しても、同じようなつもりで声をかけてきた。注文してある柔道着が出来てくるまで待つようにと言うのだが、生徒たちは待ちきれずに、同じくらいの体つきの生徒の柔道着を持ってきて、それを貸すから胸を貸してほしいとせがむ。父も根負けして、それに応じることにした。
 柔道着を着て道場に行くと、生徒たちが長蛇の列を作って待ち構えていた。練習熱心な生徒たちだと頼もしく思い嬉しかったという。
 一人ずつ相手をしたが、所詮父の相手になどならない。

 ― 高校生に負けるほど弱くはなかったよ。―

 1人2人と相手にしているうちに感づいた。

 ― ははあん、こいつらは俺を投げ飛ばそうと思ってるな・・・
  それならば、手加減なんぞするものか ―

 容赦なく畳に叩きつけることにした。すると、いつの間にか長蛇の列は雲散霧消しており、道場には倒された生徒一人だけが横たわって顔をゆがめていた。

 この国分高校教員時代については、私が幼稚園児だった頃、父に連れられて体育祭を見に行った時などの断片的な記憶がいくつか残っている。

 国分に向かう汽車に乗ること自体が楽しかった。蒸気機関車から漂う石炭を燃やす匂い、車窓から眺めた機関車から立ち上る煙、木製の弁当箱に詰められた駅弁、トンネルに入る前に、開け放された車窓を慌てて閉じたことなど、日常から離れた体験のひとつひとつが珍しく面白かった。

 職員室で、通っている幼稚園の名前を聞かれ、
 「さみどりようちえん」
 と答えると、
 「さみどり幼稚園? みどり幼稚園じゃないの?」
 と聞き返されたこと。
 その職員室に設置されていたテレビに映ったマリオネットの人形劇を見たこと。
 体育祭の仮装行列で、藁性のゴジラの着ぐるみ姿を間近で見て恐怖心を覚えたこと。
 自衛隊の国分駐屯地で戦車を見たこと・・・、
 そういった断片的な記憶が、数枚のぼやけたモノクローム写真のように、記憶の底に無造作に散らばっている。
 
 次に紹介するエピソートは、たぶん運動部の夏合宿だったのではないかと思うが詳細は分からない。吹上浜で起こったある事件のことを何度となく耳にした。
 生徒の1人が沖へ流されたとの緊急報告を受け、父はあらかじめ準備してあった丸太を小脇に抱え、慌てふためいて浜辺へと全力で駆け付けた。潮流に流され、苦し気に手をバタつかせて浮き沈みしている生徒の姿が見えたとき、最悪の事態が脳裏を掠めた。
「しまった。生徒一人失ったか」
 極度の緊張の中、丸太を小脇に抱えながら懸命に泳ぎ、生徒に向かって大声で叫んだ。
「この丸太につかまれ!」
 バタつかせていた生徒の腕がなんとか丸太に届き、関係者が見守る中、命は救われ、皆が胸を撫でおろし安堵感が漂った。
 同僚の教師から、その日の夕食時、慌てふためいた姿が滑稽だったとからかわれた。だが、もし救助に失敗していたなら笑っているどころではなかったのである。
 これらの話を楽しそうに話すのを繰り返し聞かされたものだが、話し上手だったこともあって、まるでその場で見ているかのようにありありと目に浮かび、聞いているこちらも楽しかった。

 現場で教えている姿を直接見たことは一度もなかったが、南日本新聞夕刊に連載されていた「名物先生」という記事に取り上げられていたことは覚えている。
 私が中学2年か3年の頃、教育委員会保健体育課に配属されたので、それ以前のことということになる。確かまだ常盤町に住んでいた小学校5,6年の頃ではなかったかと思う。
 父の姿が写し出された写真が添えられたその記事の内容を、詳細までは覚えていないが、「生徒に対しては絶対に暴力は振るわない」と書かれていたことが強く印象に残っている。生徒に対する暴力が「犯罪」とみなされる現在と違って、鉄拳教育が「愛の鞭」として捉えられ、「悪い時は、どうぞ打ってください」と親の方から申し出ることも珍しくなかった時代。父は並外れて腕力が強かったので、まかり間違えば相手を殺すことにもなりかねないと考え、絶対に手は上げないと心に誓っていた。

 これ以外にも、新聞記事として取り上げられたことが、保健体育課長時代に2度ほどあったようだ。後年母から聞いた話だが、県議会年次報告での教育委員会各課長に対する質疑応答が記者の目に留まり、取材を受けることになった。他の課長連中が、資料集から該当箇所を探し出すのに手間取り、額に汗して答えていた中、父は資料全てが頭に入っており、何も見ずに明快に即答する。重複質問があった場合は、笑みを浮かべながら「それについては、すでに回答済みです」と軽く流す。
 新聞記事は、「質疑応答において彼の右に出るものはいない」と締めくくられていた。
 直接その様子を目にしたわけではないが、是非この目で見てみたかったものである。

 何かと目立つ存在だったようで、立ち姿にも威厳があったようだ。
 これは5、6年前のことになるが、教員現役当時を知っている後進の教員だった方から、
 「先生の前に立つと緊張して、体中に力が入って直立不動になるもんでしたよ。こちらは『はい』と答えるのが精いっぱいでした」
 と聞いたこともあった。
 私が東京に住んでいた学生時代、父の東京出張時に原宿にある教職員専用の宿泊施設「さつま寮」に会いに行き、夕食を共にしたことがあったが、その時同席していた部下にあたる方との会話の中で、切り取られたように強く印象に残っている部分がある。
「最初ん頃は、先生が怖くてなかなか口も利けんかったですよ」
 後輩教師にとって、何か無言の圧力を感じさせる存在だったようなのだ。
 これについては、父本人がこんなことを言ったことがある。
「俺は優しい人間なのに。みんな勝手に怖がるんだよ。生徒には人気があったんだぞ」
 一度聞いただけでは、本気とも冗談とも取れないような本人談であるが、この言葉を裏付けるような出来事があった。
 私が47歳で帰郷した後のことになるが、かつて教え子だった方が訪ねてきたことが2度あった。その中のお一人が、息子の私に向けて言った言葉が忘れられない。
「大好きな先生でした」
 最初の「だい」の部分に特に力の入った心のこもった口調だった。
 父が笑った時の目元には、ごつい体つきには不意会いな、無邪気とも言えそうな親しみが感じられ、そんなところも生徒に好かれていた一因だったのかも知れない。

 幼児期の私にとって、彼は「優しいお父さん」だった。
 常盤町に引っ越して間もなかった3歳の頃、父に連れられて城山展望台まで歩いたときの話を、その後繰り返し聞かせてくれたものだ。
 「小さい体で長い距離をよく頑張って歩いたよ。疲れただろうから、抱いてやろうと思って声をかけても、首を横に振って、自分で歩くと言って聞かなかったよ」
 どこから歩いたのかは聞かされていないが、たぶん、市営バス常盤線に常盤から天文館まで乗車した後、天文館アーケードを北上し照国神社を参拝。その後国道3号線を鶴丸城跡沿いに歩いた後、城山に上ったのではないかと推測される。大きな鳥居に目を見張ったことや、西郷隆盛銅像の前で、それが誰なのかを父に聞いた一場面などが記憶に残っている。

 「あの人は誰?」
 「西郷さんという偉い人だよ」
 「天皇陛下より偉いの?」
 「それは天皇陛下のほうが偉いよ。だけどね。うちに来れば、お父さんが一番偉いんだよ」

 家族の中では父親が最も偉いという、男女平等意識が一般的になった現在ではちょっと考え難い、懐かしき昭和30年代ならではの親子の会話だ。

 言うまでもないことだが、いつも「優しいお父さん」だったわけではない。
 小学校入学が近づいたある日、こんなことを言われた。

「学校に行ったら、先生の言うことをよく聞きなさい。よく聞いていれば解るから」

 はっきりとした歯切れの良い発音での「はい」という明快な返答を求められた。
 家の中で騒いだり、聞き分けのないことをやらかすと、強い口調で叱責され、そんなときの父は、本当に怖かった。
 書き仕事をしている最中に、何度静止しても繰り返し騒ぎ、仕舞には雷を落とされたこともあった。軒下に立っているように言われ、しばらく立たされたあと、しっかりと反省の言葉を口にするまでは、赦してもらえなかった。発音が曖昧だったり口ごもったりすると「何て言っているのかわからん。はっきり言いなさい」と、完璧な答弁を要求される。窮地に追い込まれて逃げ出したくなりながらも、なんとか文言を考えて反省の弁を言い終えると、最後に「もうしません」と言わされるのが決まりごとになっていた。その一言で締めくくると、「よし、分かればいい。これからは気を付けるんだよ」の一言で、父の顔から潮が引くように怖さが消え失せ、優しいお父さんの顔に戻るのだった。

 思春期以降の一時期、親子間に精神的な緊張状態が訪れた。特に高校2,3年時代だ。父からすれば、ロックなどと言う父にとっては訳の分からない音楽に熱中し、髪の毛を伸ばし始め、父の目には好ましくない音楽仲間と大音響を奏で始めた息子。教育者だった父にとって、「生徒には厳しいのに、自分の子供の躾はできんのか」と陰口を叩かれない厄介ごとだったことだろう。今でこそ、ロックジェネレーションも老境を迎える年頃になり、高校の軽音楽部でロックを演奏するような時代になったが、そのころはロックなど不良のするものだと思われていた。親子関係は、気楽に顔を合わせられないほどギクシャクし、互いの存在そのものがストレスに感じられたものだ。 だが、それも過ぎ去ってみるとわずか3、4年のことに過ぎず、今となってはそれも懐かしい。

 19歳から47歳までの28年間、私は故郷から離れて暮らし、その間は、年に一度新年の挨拶電話を入れることが恒例になっていた。父が退職して後、いつだったか、焼酎を飲んでほろ酔い状態で電話に出た父が、
 「電話があったから、嬉しくて、ますます焼酎が進みそうじゃ」
 と声を弾ませたことがあった。
 母と二人、穏やかな新年を迎えている様子が目に浮かび、父の笑顔そのままにこちらまで微笑んでいた。

 晩年の父は、大腸癌の摘出手術を受け後、ストーマ保有者となり、海馬の衰えにより、新たな記憶が定着しないいう軽い認知症をも患っていた。食事の準備などの他、人工肛門のパウチ交換、デイサービス利用の準備など、介護一切を母が担っていたのだが、この時期が、彼らの人生上最も穏やかで幸福な日々だったのではないかとも思っている。二人寄り添って静かに暮らしている様子は、息子の私の目にも好ましく映っていた。

 若い頃は、優秀であった反面、奔放でもあった父。添い遂げるのは、容易なことではなかったようだ。母がまだ脳梗塞で倒れる前、「今だから言えるけど」と断ったうえで、こんなことを話したことがあった。
「若い頃のお父さんは、自信家だったけど熱血漢でね・・・、手加減というものを知らないのよ。まだ結婚前、デートしてるところを冷やかされたときなんか、放っておけばいいのに、いちいち言い返すの。最後にはその相手を投げ飛ばしてたよ。夜の街で、誰かに絡んでる酔っ払いを見かけたときなんかも、放っておけなくてすぐに割って入るの。相手が歯向かってきたりすると、喧嘩になることもあったよ。お父さんは力が強いから、どうなるかは解ってる。あたしはもう気が気じゃなくて、半泣きになって止めるんだけど、お父さんそんは、もう頭に血が上ってるから留まることを知らないの。思いっきり地面に叩きつけたこともあったよ。肋骨のニ三本も折れたんじゃないかね。お父さんは我儘なところもあってね。これは結婚してからのことなんだけど、好きな素人相撲に一か月の給料を全部つぎ込んだこともあったよ。あたしが仕事から帰ってきて、準備しておいた晩御飯を食べようと思ったら鍋が空っぽになってたこともあったよ。『どうして?』ってきくと、お父さんは『美味しかったから全部食べたよ』って、無邪気に笑ってるのよ。あたしのことも少しは考えてよって・・・、もう泣きたくなったよ。そしてね、気に食わないことがあると、ものすごい勢いで責められたよ。その言い方はもう徹底しててね。人をまるでボロ雑巾のように言うのよ。心の底から傷付いたよ。暴力を振るうことはなかったけど、その代わりに物に当たるのよね。色んな物を壊すもんだから、勿体ないからそんなことしないで、って言ったら、『そうだな』ってひと言答えて、それからはそんなことしなくなったけど、あたしを責めるときの口の悪さだけは変わらなかったよ。あんたたち兄妹がいたから、別れるわけにもいかなかったんだよ。子どもたちが育って大人になったら、そのときは別れてやる。そう思ってずっと我慢してきたんだけど、年とともに丸くなったね。そんなきついことは言わなくなったよ。退職してからは、優しくていい人だよ。あんたたちが大人になったら別れてやろうって決めてたはずなのに、いざ大人になってみると、別れようなんて思わなくなってるよ。今思えば、若い頃は仕事でのストレスが大きかったんじゃないかね。あれは元々の姿じゃなかったんだよ。今は本当にいい人だよ。あんたたちがいてくれたおかげで我慢できて良かったよ。病気してからのお父さんは、手がかかるから、放っておくわけにもいかないし、別れるどころじゃないよ。人生上手くできてるね。」
 そう言うと、母は静かに笑みを浮かべた。

 長年連れ添うことによって長短併せ持つ父の魅力を最も理解していたのが母だった。息子の目から見た両親は、長い道のりを経て、夫婦として理想とも言える領域に達したかのように見えた。

 だが、そんな均衡も、ある日突然崩れ去ってしてしまう。

 母が脳梗塞で倒れたのだ。

 以後、それまで母が行なっていた介護全般を、全て私が引き継ぐこととなり、当時就業していた介護職を辞して、両親を介護する生活が始まった。

 入院中の母を見舞い、病院と自宅を行き来しながら、父の介助を行なう。父をデイサービスに送り出している間だけが自由時間という慌ただしい生活ではあったが、父と多くの時間を共にできたことは、代え難い貴重な体験となった。

「ドライブに行こうや。家に籠ってばかりいると気が滅入る」
 父は、よくそう言って誘いかけてきたものだ。
 近隣の思い出の町を巡ったり、小さな公園、城山展望台などで散歩することが多かったが、たまに姶良方面、川辺加世田方面など遠方にまで出かけることもあった。
 思い出の地を巡りながら、父は楽しそうに昔を振り返った。ここに書いてきたことの幾つかは、その時耳にしたものだ。

「ああ、いい人生だった」

 それが父の口癖となっていて、ゆっくりしみじみとつぶやく声を何度も聞いた。
 ハンドルを繰りながら、その言葉を耳にするたびに、私も幸福な気分になったものだ。

 最後に、入院中の母を二人で見舞ったときの一場面について触れておこう。
 母の病室に向かう途中、たまたま車椅子で廊下を移動中だった母の姿が近づいてきた。

「あらぁ、お父さん!」

 こちらの存在に気付いた母は、満面の笑みを浮かべた。

 二人で訪ねているというのに、脳梗塞の後遺症で少し子供帰りした母の視線は父にのみ向けられていて、それには苦笑いを浮かべるしかなかったが、同時にまた微笑ましくもあった。
                          (2023年 9月)

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