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皮膚と心/ジンマシンとわたし。

この間、仕事をしていると左手小指側の側面がむずむずと痒くなってきた。ジンマシンの兆候だ。発症する時は、大体いつも手に症状が出る。手の甲、手のひら、手首、指、指の股…そういったところに、プツッと出てくる時もあれば、ミミズ腫れのように露骨に姿を現す時もある。見慣れているのに、ミミズ腫れ状態のプックリとした姿は、総毛立ってしまうくらい生理的に嫌な気持ちになる。最近は薬を飲まなくても症状が落ち着いていたから、油断していた。慢性的なジンマシンとお付き合いをしてもう7年ほどになるが、本当に嫌なヤツだなあ…と、常備薬を飲みながら思う。


ジンマシンが出てきて思い出すのは、太宰治の「皮膚と心」という作品だ。(新潮文庫の「きりぎりす」に収録されている)わたしは太宰の大ファンで、その中でも特に好きな作品の一つである。互いに自信のない、ある一組の不器用な夫婦の話。ある日、妻の体いっぱいに赤い吹出物が現れてしまう。妻は取り乱し、落ち込み、疑心暗鬼になるけれど、それを夫が優しく慎ましく愛情深く支えてくれる様子が、わたしは大好きだった。

さらに印象的だったのは、この妻が女学校時代に友人と議論した「痛さと、くすぐったさと、痒さと、三つのうちで、どれが一ばん苦しいか。」という一説だ。彼女は迷わず「痒さ」と答える。なぜなら、痛さ・くすぐったさは知覚の限度があるが、痒さは果てが無く、生ぬるい苦しみにずっと悶え続けるから…というのだ。これを読んだとき、わたしは大いに同意した。また、皮膚が醜くただれ心が落ち込む様子にも、激しく同情した。こうした場面での思い入れが多いからか、「皮膚と心」は他の作品とは違った特別さがあった。


そんなわけで、久しぶりに「皮膚と心」を読み返してみたのである。途中までは、上記のような一種愛情深い気持ちで読んでいた。しかし、後半が凄まじかった。自分の体が醜い吹出物に侵されると、抑え込んでいた感情が湯水のように湧き出て、野生に近い本当の自分が頭角を現す。それが切なくて、(誰に対してだか分からないけれど)そんな彼女を嫌いにならないで欲しいと思った。なぜなら、昔読んだ時よりもぴったり共鳴してしまって、まるで自分を見ているようでもあったからだ。

器量は悪く性格も陰気で、人の影に隠れるようにして生きていた彼女。唯一、自分の肌だけは大事に愛でながら生きてきた。その肌が醜い姿に変わってしまった今、自分に残るのはそんな上辺だけではない、本当の「女」の部分。嫉妬、憎しみ、周りと同じような一喜一憂を味わいながら、生きていたという事実。…その一つ一つがいじらしくて、わたしは始終「あぁ…」とか「うーん」とか声を漏らしながら読んでいた。

自分を支えるほんの小さなネジが壊れた時、人は信じられないくらい脆くなるという怖さ。わたしは大学時代、肌がつるりと綺麗で、心身ともに健康で快活なバンドメンバーをこっそり羨ましいと思っていたことを、ぼんやりと思い出した。
「肌の問題」がどれだけ自分に自信を失わせるのか、「痒み」がもたらす生き地獄感がいかなるものか…そんなことをテーマに、わたしと彼女なら陰気な女子会で盛り上がれる気がするのだ。

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