60 「光を選ぶ」とは
スピリチュアル業界なるものを認識したのは数年前。私の人生において間違いなく転換期に入った時のお話である。
当時の私がよく見かけた言葉は「心地良いを選択する」「自分を最上級に扱う」「自分を愛する」。
こんなワードが飛び交っていたように思う。
それは実に衝撃的だった。生まれてこの方、周囲は敵だらけ。心地良い居場所など味わったことが無かった私。それに「愛」がなんなのか分からない私に「愛する」行為が理解できるはずもなかった。言うまでもなくアユミは戸惑い、脳内はハテナで埋め尽くされる。ちんぷんかんぷん。。
58でも話したように、現在のアユミは進化系他人軸を生きている。それがホントの私だと気づいたからだ。よそ見と道草ばかりだけど、転んでも立ち上がり、えっちらおっちら歩いてきた人生だった。
でも、だからこそ気づけた私だけの真実がある。
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読まなくても今日の記事は分かりマス。
が、良ければどーぞ😃↓
さて、、“スピリチュアル”という言葉を知り、だいたい時を同じくしてカルチャースクールのアルバイトをしていた私。そこで“世の中”を知った。
(まぁ…私が“世の中”を知らなさすぎたのだけど…。)
日本史や世界史、キリスト教や仏教、古文書、仏像、遺跡、ヒエログリフ、ヨガ、太極拳…。
段々と広い世界に興味が湧いてきた。仕事は覚えることが多くて脳みそは大変だったけど、講座の中身は私の知的好奇心をくすぐるものばかりだった。
ある日、引き寄せの法則を教える講師がいらした。
勿論、“引き寄せの法則”も初耳ワード。
何か“引き寄せ”るのだろうか🤔
しかもその法則…?あ…怪しい…😃。…てな具合い。
講座当日、何も分からない私ですら、なんとも言えない空気が教室の外まで漏れてきているのには気づいた。
受講者の方たちは講座終了後、表情とテンションが一変し別人になって帰っていく。講座を見学していたスタッフが「スゴイ良かった!」と興奮した様子で私のもとに駆け寄ってくる。いつもブスッと不機嫌で上司の悪口ばかり言っている子が、満面の笑みになりテンションマックスまで跳ね上がらせることができる“引き寄せの法則”とは、いかに。
“引き寄せの法則”という言葉との出会いだった。
でもこの日の光景は私の目には“異常”なものとして映った。講座内容も法則の中身も知らないくせに、この時点で懐疑的に見ている自分がいた。
勿論、今となっては引き寄せの法則自体は常に働いている波動の法則であり、否定の余地などない。
そうではなく、この空間(講座)に身を投じる人間の心理に一抹の不安を感じたのだ。
この時点では“不安の正体”を説明することはできなかったけれど、当時私は、受講前と受講直後の人間をつぶさに観察していた。そして帰宅後の彼らの姿まで容易に想像できた。
「これだけ上がったテンションは
いずれ必ず冷める(下がる)」
例えば、、
芸人さんの異常なハイテンション(+100としよう)を見ると、カメラが回っていない時や自宅で一人になった時は−100まで落ちているんだろうな…とか、真面目で冗談の一つも言わない無口な上司を見ると、実は変わった趣味や性癖があるのかな…とか。
私はいつも対極を考えてしまう。
人は、色んな面を持ち合わせていて必ずどこかでバランスを取っている。勿論ハイテンションや変わった趣味が悪でもないし、真面目が善でもないけれど。
先に挙げた受講者とスタッフが体験したことは、場の力により働く作用で、必ず作用には反作用がセットでついてくる。上がったテンションはその同等の幅で下がる。人間の恒常性で正常な働きだ。体温が上がっても、また平熱に戻るように。
受講中に上がったと思った受講生の(講師も)テンションは帰宅したら日常に引き戻される。もしくは反動で通常より下がる可能性もあるのでは。
意地悪で言っているのではなくて、人間とはそーゆーものだと言いたいのである。
つまり意識をポジティブに引っ張れば引っ張るほどネガティブに引き戻されるということ。
ずっと喜び😍!とか、一生怒りっぱなし💢なんてできないのだから、振り子が右に振れた後は必ず同じだけ左に振れる。そして最終的に自分のニュートラルへと戻る。
つまり何度も言うけど、ネガティブや怒りが悪ではないし、ポジティブや喜びが善でもない。
そんなことより自然な感情をそのまま味わうことを否定しているという事実に目を向けたい。ネガティブでもいい。ココロのフタ(=感情)を取ってその中身を見たほうがいい。なぜ自分は怒っているのか、なぜ自分は喜んでいるのか。
“その奥底”を見てしまえば、なんてことない。新しい自分に出会い直すだけ。
「感情」は自分を知るのに非常に有効なツール。
宝物を探す冒険の途中、蝶の番(つがい)がヒラヒラと舞い草木にとまる。
「感情」というものは“蝶”に過ぎない。
宝物は蝶が誘(いざな)ってくれた名も無い草木だ。
蝶(感情)が、気づかなくてはならない宝物(本当の思い)を教えてくれる。
だから蝶が教えてくれた草木に注目してみる。
そこに本当の私がいる。
感情は大切。だけど本当の私を知るツールに過ぎない。で、奥底の感情や観念を見まくったあとに、やっとこさ「善悪二元論」的なるものを外していくタームが訪れる。
上がったり下がったり、ポジティブ・ネガティブを行ったり来たり、正解・不正解を探したり、誰かの意見に触れて肯定・否定を繰り返しているうちは
そこから一向に抜け出せない。
☽
私はこのブログを始める前に書いていたブログがある。当時、カバー画像にいつも陰陽太極図のマークを入れていた。私自身なぜそうしていたのか分からなかったけど、最近やっと分かった。
私はあの時、善悪二元論から脱却することを課題としていたのだ。自分でも無意識だった。
私は今、どーやら新たなターニングポイントを迎えたらしい。今まで歩んできた人生の辻褄がピタッと合い、生まれてきた意味が分かった。
地球に誕生後、肉体的な欲望に目も暮れず、ココロや感情や精神という不可視なものに重きを置いてきた。
私の人生。
周りは敵だらけだった。理不尽な仕打ちを受け続けた。オトモダチや恋人の要求を拒否せず受け入れた。親の身勝手や甘えを受け入れた。人を信じたが裏切られた。人を愛したけど愛されなかった。私のココロは誰にも伝わらなかった。
孤独と絶望で満たされてしまっているのに、私は“孤独”と“絶望”の意味を知らなかった。
ひたすら自分を抑制し、受け入れ、そしてそれでも周囲を愛した。
自分が“光”で在れば在るほど、周りは“闇”で満たされる。陰陽太極図はそれを意味している。一般的な正解は知らない。私がそう解釈した。
図のように。
私はいつだって光を選ぶ。
小さな頃からそうだった。
受け入れ続けた。負け続けた。我慢もした。
自分は間違っていないという場面、時に負ける選択をした。攻撃されても仕返しはしない。卑怯な真似もしない。そのために涙をのむこともあった。
高潔であるために。
人にやさしくしたい。
困っている人は助けたい。
だけどそこに何も期待をしたくない。
たぶん皆そう在りたいはずだ。
だけどその選択をすればするほど私に寄ってくるのは、勝ちたい人、自分勝手な人、自分の要求を通す人、強引な人、褒められたい人、楽をしたい人、許して欲しい人、甘えたい人、依存したい人、ズルイ人、寂しい人、悲しい人、愛されたい人・・・
そのような景色が広がる。
自分とは対極の人たちを引き寄せる。当たり前だ。
地球はそーゆーしくみなのだから。
そりゃ周りは闇になるさ。
だからといって私は自分の生き方に後悔していない。もう一度やり直すことになったとしても同じ生き方を選ぶと思う。
☽☽☽
光を選び続けるには覚悟が必要です。
闇に囲まれ、闇に深く潜っていくことになるからです。自分が光を選べば選ぶほど周りはすべて闇になってしまうのです。
一方、闇を選ぶのは簡単です。心地良い環境が用意されるからです。見渡すと、自分の言う通りに動いてくれる人たちに囲まれていきます。
いつも自分の欲求を満たすことができるでしょう。
「そんな辛いことしなくていいんじゃない?」
「自分が良ければそれでいいじゃん」
「誰も見てないんだから」
「傷つけられたんだし少しくらい
やり返していいんじゃない?」
「嫌ならやめちゃえばいいじゃん」
「あなたは悪くないよ」
闇を選ぶこととは悪魔のささやきに屈する行為なのです。だから心地良いという面もあるのです。
厳しさや事実を述べる人は嫌われます。
厳しいことを言わない人や嘘をつく(ホントのことを言わない)人は一見すると無害に映りますが実は弱さとずるさを抱えています。
人は弱いから自分の本当の姿には目を伏せたくなるもので、簡単に悪魔のささやきに耳を貸してしまいます。誰でも経験するものです。魔が差すというやつです。その方がラクだから、段々と無自覚に闇を選ぶようになっていくのです。
悪魔とオトモダチになり自らが孤独に闇堕ちするならともかく、ややもすると自分が悪魔の手先となって活動している場合もあります。
悪魔とは神話や物語の世界に登場するだけの存在ではないのです。
近頃の地球は、この“向き合いたくないもの”に向き合わされるような流れが加速しているように思います。それがいわゆる二極化といわれていたものですが、“どう在りたいか”を問われているだけなのです。
ちなみに私は「二極化」という言葉の成り立ちを知りませんが、おそらく悪魔由来の思想なのでしょう。不安の煽り方が独特で絶妙ですからね。
もしもタイミングを迎えているのなら、光を選んでみてはいかがでしょうか。
闇の中に一人ぽっちで佇むことになると思いますが、必ず今以上に自分を愛せるようになるはずです。
嘘がない選択をした自分は、揺るがない自信を手に入れることができるのです。地球では“失敗”や“間違い”はないのです。光の世界でそれらはすべて経験と呼ばれています。
それに、得意を伸ばすことや名声や功績を手に入れることが自己肯定感を上げるのではありません。何もできなくても何も無くなってもそのままで愛されているという事実を受け入れることができ、どんな事があってもそれが一切揺らがないことこそ「自己肯定感がある」という状態なのです。
お金をいくら増やしてもが満足することはありません。もっと増やしたいという欲が膨らむ一方です。そればかりか同時に失う恐怖が大きくなります。
大切な何かが増えるほどに手放したくないという執着も生まれます。
しかし手放すと手に入るものがあります。何も無くなった時にしか得られないものがあるのです。
手放してみた人にしか分かりません。
私の祖父は水害に二度遭っており全て流されたそうです。その後に建てた丘の上の一軒家で余生を過ごしました。亡くなった後、残された祖母は17年間そこで健康に暮らしました。
祖父の口癖は「旨いもんは宵に食え」「言いたいことは明日言え」「金は持って死なれへん」でした。
今を生きろと聞こえます。
負け続け、一切を諦め、自分の運命を受け入れた人にしか見ることのできない景色があります。
この世には何もありません。
だからこそどう生きるか、どう在りたいか、ということに尽きるのです。
しかしながら、光を選んでも闇を選んでも両者は
すでに救われる道に乗っています。救われている上でどのように命を使うか。
つまりこれが選択ですね。
では、光を選び、進んだその先には何があるのか。
陰陽太極図で表される二極ごと自分の中に取り込み三点目の視点を見つけていく道があります。
人ではなく神になっていく道です。
その話はまたいつか、私が今よりも成長した時に。
今の私が分かるのはここまでです。
Ayumi☽