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【小説】パン屋 まよなかあひる(1)蘇るメロンパン

あらすじ

大学を辞め、家も持ち物も何もかも捨てて瀬戸内の街へやってきた愛瑠あいるは、黒猫に導かれるうちに深夜営業のパン屋に出会う。そしてひょんなことから、店主・リッカさんのもとで働くことに。
深夜のパン屋にやってくる、妻と喧嘩したおじさんやボーイズバーの男の子、おばあちゃんと孫娘、そんなお客たちと触れ合ううち、愛瑠の心情には変化が訪れる。

愛瑠がこの街を選んだ理由とは? リッカさんが深夜営業のパン屋を始めたわけとは? そして不思議な黒猫とパン屋との関係とは……?

これはパンと夜の世界の人々に囲まれた、親子をめぐる連作短編小説。真夜中にこそ、美味しい救いを求めたくなりませんか。

第1話 蘇るメロンパン


 あーもう死んじゃお、って闇みたいな海に飛び込んでやるつもりだったのに、気がつくと猫のあとを追っていた。
 猫は、私がボストンバッグの中身を逆さまにしてざらざらと海に流していたら、いつの間にやら隣に座っていた。何かを待ち構えるように煌々と黄色い目を光らせて、残りは全て夜闇に紛れてしまいそうな黒猫。
「君も死にたいの?」
 話しかけてみるけれど、もちろん答えはない。まあ、死にたい猫などいたら世も末だろう。本当はこのまま自分も海の藻屑となるはずだったのだけれど、気が変わった。最後くらい気の向くままに動いてみてもいいだろうと、踵を返した猫についていくことにした。

 昼間は観光客で賑わうはずの道も、今は人っ子一人歩いていない。すぐ目の前に見える岸は隣の島のものらしい。瀬戸内の海は陸と陸との距離が近すぎて、ちょっとした運河のようにしか見えない。潮臭く肌寒い風に顔をしかめている間にも、猫は歩みを止めずに歩き続ける。
 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。さっき海に捨て損ねたのだ。振動するそれを拾い上げ、画面も見ずに海へと投げ捨てた。とぷん、と間の抜けた音を立ててそれは水の中に消え、手の中には最後に震えた感覚が余韻のように残る。大学を中退して、家も連絡先も洗いざらい手放した。これでもう、何も振り返るものはない。
 手元が空っぽになった私は、案内人のように歩く猫のあとをぼんやりとついていく。このままどこへ連れて行かれようが構わなかった。もしかすると私は実はとっくに死んでいて、これはすでに地獄のはじまりで、死んだつもりのない魂として永遠に海沿いを彷徨い続けるのかもしれない。それでもいい、と静かに思ったときだった。

 目の前でぽっと、灯りが灯った。それは確かにたった今、ついた灯りだった。このあたりは海辺の商店街のはずで、とはいえこの時間に開いているのは居酒屋とスナックくらいで、しかしこの店はそのどちらでもなさそうだった。店の灯りだと一目でわかったのは、正面が一面ガラス張りで、明るい空間にレジらしきカウンターのようなものが見えたからだ。
 ぬくもりを含んだ光に誘われ、思わず足がそちらへと向かう。なんの店かはわからない。海風に揺らめく暖簾は真っ白で、店の名前すら書かれていなかった。鼻先をふわりとあたたかな甘い匂いがくすぐる。まさかと思いながらドアを押すと、からん、というドアベルの音とともに色とりどりのパンに出迎えられた。
「ああ、いらっしゃい」
 店の奥から出てきたのは、すらりと背の高い、驚くほど美人な女の人だった。お客さん第一号だ、と言ってほころばせた目尻に皺が寄る。
「あの……第一号って」
「ああ。さっき開店したばかりなんだよ。よかった、ちゃんとお客さんが来てくれたね」
 腕時計を見ようとして、つい先ほど海に投げ捨ててきたことを思い出した。店内を見回しても、壁掛け時計一つ掛かっていない。体感では夜10時か11時頃だろうか。物好きな店だな、と思う。
 おそらくこの人が店主なのだろう、彼女の他には店員が見当たらないから。ただ女優のように整った顔と顎の下で切り揃えられた黒髪を見ると、パン屋というよりできるキャリアウーマンみたいだ。

 それにしてもこの店のパンは、本当に充実している。クロワッサンにソーセージパン、シナモンロールにメロンパン。店内に並ぶ様々な種類のパンたちから、ほんのりと熱が伝わってくる。まだできたてみたいだ。見た目と香りだけで、丁寧に作られているのがよくわかる。誰が作っているのだろう。まさかこの店主が、全部?
 くん、と鼻をひくつかせてから、自分がとてつもなく空腹だったことに気がつく。そういえば今朝から何も食べていなかった、というか、いつどんな死に方をしてもいいように、身体の中身は極力空っぽにしておきたかったのだ。
 食べたい、という感情が久しぶりに湧いてきた。身体の奥深くから突き上げてくる、本能的な衝動。大変長らくご無沙汰していた感情だったので、私はかなり驚いた。そうか、パンを食べたいのか、私は。一度自覚してしまうと欲は止まらなくなり、即座にトングを手に取って次から次へとパンをトレイに載せていく。それだけで消化器官がぐるぐると動き、熱を帯びてくる。
 勢いのままにレジへ向かうと、「おや、こんなにいいのかい?」と店主が目を丸くした。「いいんです、全部ください」とお会計を済ませると、店主は順番にあたたかなパンたちを袋詰めし、最後に紙袋に一つずつパンを収めていった。それはまるで宝石箱にそっと宝物をしまっていくようで、なんだかとても儀式的な作業だった。
「いいよ、そこで食べていきな」
 私があまりにも物欲しそうな顔で様子を見守っていたからか、店主はカウンターを指した。レジの脇のカウンターには椅子がいくつか並べられていて、どうやらちょっとしたイートインスペースになっているらしい。パン屋なのに、まるでバーや喫茶店のようだ。そのうちコーヒーなんかも用意しようと思ってるんだけどね、それはまたおいおいだね、と店主は言う。私は早速席に着き、紙袋の中身をじっと吟味する。中には十個ほどのパンが敷き詰められている。どれから食べよう、でも、やっぱり。私はメロンパンを一つ手に取った。

 表面に歯を突き立てると、さく、と小気味よい歯ごたえの直後、ふわふわの生地に歯が吸い込まれていく。そしてじんわりと、舌にやさしい甘みが広がる。ああ、これだ。表面がこんがりと焼かれてほろほろと崩れるくらいのメロンパンが、私は好きだった。子供の頃に好きだった、母が買ってきてくれたメロンパンと同じ食感。
 メロンパンを買って帰ってくることが、母の機嫌がいい証拠だった。息の詰まるような日々の中、母が私のことを真正面から見つめてくれるだけで、私は世界に救われたような心地がしたものだ。
「……おかあさん」
 あんな母親のこと、とっくに忘れていたはずなのに。
 メロンパンの塩気が強くなってきて、そこでようやく自分が涙を流していたことに気がついた。いつぶりに流した涙かなんて考える間もなく、涙はとめどなく両目から溢れてきた。泣いている間、店主が私をどう見ていたのかは知らないけれど、私は心ゆくまで一人で泣き続けることができた。

 涙が涸れた頃に店主がやってきて、これは試飲ね、とコーヒーを持ってきてくれた。
「すみません。このメロンパンを食べたら、涙が止まらなくなっちゃって」
「いいんだよ、泣きたいときに泣きゃ。ただね、泣くときは泣く、泣かないときは泣かないってちゃんと決めておかないと、いつまでもたらたら泣いてたってしょうがないからね」
「はい。おかげさまで、なんだか元気になりました」
 なあんだ、本当にさっぱりした顔してるじゃないか、と店主は満足げに笑う。口調は荒いけれど、この人はいい人そうだ。何より顔がいい。不思議と、初対面なのに彼女にはすんなりと口が利けた。
 ぐるりと店内を見渡し、それから外の漆黒のような暗さを見て改めて驚く。今は紛れもなく、夜なのだ。私もそこそこ長居しているはずなのに、私の他にお客は一人も来ていない。
「あの、失礼なこと聞いちゃうんですけど」
「ん、なんだい」
「こんな夜中にお店をやって、いいんですか」
「ああ、あたし夜の仕事やってたからさ、夜にしか働けない身体になっちまってね」
 店主はそう言うとだははははっと豪快な笑い声を上げた。大きく開いた口の中には真っ白な歯がずらりと規則正しく並んでいて、なるほど確かに彼女はその業界にいてもちっともおかしくない。
「でも、夜ならスナックとか、バーでもよかったのに……どうして夜中にパン屋を」
 店主は、んなことどうでもいいじゃないか、と一蹴した。けれど、私にはどうでもよく思えなかった。
「だって、誰も来ない時間に店を開けるだなんてもったいないですよ。暖簾にも何も書いてなかったし、こんなにパンがあるんだから、もっと人が来てもいいのに」
 思わずまくしたてると店主がふいに黙るので、さすがに図々しかったかと気持ちがひとつ萎んだとき、「そういや、店の名前決めてなかったな」と小さく呟くのが聞こえた。
「えっ、まだ決めてないんですか?」
「名前なんていつつけてもいいだろ。生まれたての赤ん坊だって生まれた瞬間に名付けろなんて法律、ないじゃないか」
「いや、店の名前には法律がありそうな気がするけど……それに赤ちゃんにも遅かれ早かれ名前はつけなきゃいけないし……」
 すると店主が突然「あんたの名前は?」と聞くので、「あ、井上愛瑠あいるです。愛に瑠璃の瑠で、愛瑠」と咄嗟に答える。
「愛瑠、あいる……あひるか。じゃあ、この店の名前はあひるだね」
「えっ……え、は? どういうことですか」
 生まれてこの方22年、あひるなどと呼ばれたことは一度もなかった。
「『ベーカリーあひる』、『あひるベーカリー』、『パン屋あひる』、どれがいいだろうね」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんなので決めちゃっていいものなんですか」
「いいんだよ。人の赤ん坊にだって今どき安直でキラキラしたのをつけるじゃないか。ましてや店なんか適当でいいんだよ。で、名前の由来のあんたは、うちの看板娘だね」
 はあ? ともう一度声が出た。そりゃあ出るだろう。いきなり私の名前から店の名前をつけられたかと思えば、いつの間にやら私はここで働くことにされている。あまりにも強制的に進められる展開に頭が追いつかず、すっかり言葉を失ってしまった。店主はというと、店の名前も看板娘も決まったことだし、となんだかうきうきしていて余計に断りづらい。
 だけど今の私に、断る必要などあるのだろうか。後ろを振り返ればかなぐり捨てた過去しかなく、前を向いても未来などなかったのに、これじゃあ。
 そういえば、と真っ暗な店の外を見やる。あの猫は、どこへ行ったのだろうか。

第2話につづく


第2話 ごめんねバゲット

第3話 安眠芋パイ

第4話 ダークチェリーデート

第5話 だいすきクリームパン

第6話 冷ややかトースト

第7話 マフィンと記憶

第8話 くろくてまるい

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