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【小説】パン屋 まよなかあひる(3/8)安眠芋パイ

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第3話 安眠芋パイ


 布団をぎゅっと抱きしめて、暮れゆく街の音を聞く。窓のすぐ下は観光客の花道なので、ラーメン屋に並ぶ人々のざわめき、若い女の子グループの甲高い声、子供が駄々をこねる声なんかがよく響いてくる。それらが徐々に引いていき波の音の方が目立つようになれば、外を見ずとも夜のはじまりがわかる。
 漠然とした孤独感。今までもやのように漂っていた薄暗い気持ちに名前をつけると、気休めのようだけれど、それでも多少は靄が晴れていく。昼間よりも、夜のほうが意識がはっきりとしてくる。夜のはじまりは、すなわち仕事のはじまりだ。そろそろ現実を見なければならない、とわかりながらも、布団の中でうだうだと転がっている。
 そろそろ起き上がるか、と目を開いたとき、部屋のドアがどごんどごんと音を鳴らした。ドアが割れんばかりの轟音だ。
「あーひーるー。仕事だぞーっ」
 リッカさんの大声も重なり、部屋はちょっとした災害状態に陥った。
「起きてます! 今行きまーす」
 そう大声で返事をした途端、意識の底を埋め尽くしていた靄が消え、どこかくすぐったい気持ちが湧き上がり、かと思いきやすぐにしゅるりと離れていった。何やらあたたかいものが、胸のあたりに留まっている。首を傾げつつ身支度をして、エプロンの紐を後ろ手に結びながら階下の店舗に降りていく。そしてようやく、私の一日が始まる。

「なあ、あひる」
 突然声をかけられ、不意に元の世界へ帰ってきた私は「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「聞いてなかったのかよ。堀田のおっちゃんがさ、今度うちの暖簾作ってくれるんだってさ」
「え、ああ、暖簾! ずっと真っ白でしたもんね」
「そうよ。わしの店、そういう仕事やりよるんよ。リッカちゃんの頼みときたら、わしも働かんとな」
「何言ってんだい、染めるのは職人でしょうが」
 二人のいつもの掛け合いも、今日はなんだか楽しく聞けない。今日起きたときには靄が晴れたような気がしていたのに、まだどこか頭の奥がぼんやりとしてしまう。気がついたときには堀田のおっちゃんは帰っていて、店の外がうっすらと明るんでいた。
「あひる。今日はもう先上がんな」
 これから早朝の客足が増えるというのに、リッカさんはそう言って私を二階に追いやった。

 このところよく眠れていない。頭の中にがらんどうの部分があり、その隙間を埋められずにいるような感覚がある。しかも埋めたいのに埋められない、果たして何をすればがらんどうを埋めることができるのか、その一方でがらんどうを埋めてはいけないような気もして、いつまでも寝つけなくなるのだった。
 閉店後、リッカさんが戻ってきてからそんな具合のことを掻い摘んで打ち明けると、リッカさんはあっけらかんとして言った。
「そんなの、腹が減ってるからに決まってるだろ」
「えっ」
「どうせこの頃パン食生活だからって、食うのサボってたろ、あんた」
 私はぐっと黙り込む。図星だった。閉店後にロスとなったパンを持ち帰らされるのは、パン屋従業員の宿命とも言える。かといって毎日パンばかり食べ続けていると、体重はうなぎ登りに増えていく。ある日鏡を見て自分の体型の変化に絶望してから、私は密かに持ち帰りのパンを減らしていた。今や出勤前にパンを一つかじる程度で、一日まともに食べ物を口にしない日も珍しくない。
「人間身体が資本って言うだろう。……この後の朝飯はあたしが作るからね」
 リッカさんの一言に、私は少なからず衝撃を受けた。私たちは同じ建物に住んではいるものの、食事を一緒に摂ることはまずない。あくまでも私たちはビジネスパートナーみたいなもので、仕事以外のプライベートに関してはなんとなく一線を引いているところがある。強いて言うならリッカさんが仕事前に私を起こしにくることくらいで、お互いの食事を用意するなど言語道断だったのだ。

 リッカさんがドアの隙間から顔を出したのは、私が自分の部屋でだらだらと寝る支度を進めているときだった。
「できたよ。降りてきな」
 新鮮なふわりと甘い香りが鼻を掠めたけれど、これは店舗から漂うパンの匂いなのかそうでないのかまではわからなかった。この建物は1階の店舗の奥にダイニングキッチンがあり、階段を降りるとそこに直結するようになっている。私はほとんど使われていないダイニングテーブルに座らされた。テーブルの上にはすでに食べ物があって、甘い香りの根源はこれだとすぐに判明した。
「結局、パンじゃないですか」
「結局ってなんだい結局って。あたしにパン以外のもんが作れると思ってるのかい」
「それは、思ってないですけど」
 失礼なやつ、とぶつくさ言いながらもリッカさんの耳は少し赤い。これが照れ隠しだ、ということに気がついたのは最近のことで、この気づきのおかげで私はリッカさんとの仕事がずいぶんやりやすくなった。
「それに、これはパイだよ。パンじゃない」
「なんですか、お芋ですか?」
「安納芋パイだよ。まあ、試作も兼ねてだね。あんた、最近顔色悪かったよ。いくら太るって言ったって、食べないと余計健康に悪いんだからね」
 どこかのお母さんみたいだなあ、と他人事のように聞いていると「ほら、またぼーっとして」とリッカさんにつつかれる。
「いいから食べな。冷めちまうよ」

 言われるがままにまだ熱そうなパイにそっと手をつけると、指先からパイの熱がじんわりと全身に這い上がってきた。掴んでも火傷はしなさそうだったので、そのまま勢いでパイにかぶりつく。さく、と気持ちのいい音がしたかと思うと、中身はまだ熱くて前歯がきんと痛んだ。少しずつ口の中を熱さに馴染ませながら、慎重に食べ進めていく。
 ねっとりとした安納芋のペーストは、思わず声を上げたくなるほど甘い。パイを噛み下していくにつれて、お腹の中は芋のほっくりとしたあたたかさで満たされていった。甘い、熱い、美味しい。頭の中はぎっしり詰め込まれたパイの中身みたいに、それだけでいっぱいになってしまう。

 一息ついたときに初めて、リッカさんが目の前で私のことを眺めていたことに気がついた。
「あんた、本当に美味しそうに食べるねえ」
 皿の上のパイの欠片まで余すことなく平らげた後だったので、なんとなくバツが悪くなる。なんだかすごくお腹が空いていた。いやそうではない、パイを食べ始めてからお腹が空いていたことに気づいたのだ。
「美味しかったです、とても」
「ふうん、そうかね」
 リッカさんも一口パイを齧る。かと思いきや、三口ほどで全て食べきってしまう。
「いんや、だめだね。安納芋の粘度とパイ生地のバランスが悪い。こりゃ生地の研究だな」
 何やらぶつぶつと言いながらリッカさんはすっかり自分の世界に入ってしまったので、私はひっそりと安納芋パイの余韻に浸ることにした。リッカさんの作るものなら間違いないけれど、疑いようもなく美味しかった、とても。

 幸せになるのが、怖いのかもしれない。そのときすとんと、答えが胸に降りてきた。私の隣にいつもいた孤独感や虚無感、いつからそれを実感するようになったのかは定かでないけれど、私はその状態に慣れて、自分が寂しい人間でないといけないような気がしていたのかもしれない。あんなに虚無感から逃れたかったのに、いざ何かを与えられようとすると怖くなるだなんて。
「これからは、飯食うときは一緒にするからね。あんた、一人で食わせたらまた何も食わなくなるだろ」
 私は素直に頷いた。リッカさんの言う通りになるであろうことは、私も自覚していたからだ。
 絆されている。私はちゃんと、この生活に絆されつつある。切り開かれていく未知の体験に尻込みしながらも、私の心はしっかりと受け入れようとしている。私はもう、これまでの私とは違う。ただ一つ、私もサラダくらいは作ろうと心に決めた。


第4話へつづく

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。