見出し画像

【小説】パン屋 まよなかあひる(4/8)ダークチェリーデート

最初の話

前の話


第4話 ダークチェリーデート


「あひる? それ、源氏名なの?」
 そう聞かれたのが始まりだった。まさか、と口にしようとしたら先にリッカさんが派手な笑い声を上げ、私は何も言えずに固まるしかなかった。今思えば、相当面白みのないやつに見えたことだろう。
「源氏名なんて大層なもんじゃない、あだ名だよあだ名」
 笑いの止まらないリッカさんをぽかんとした顔で見つめていた丸い瞳は、今でもよく覚えている。

 さて、彼がまよなかあひるを訪れた何度目かの夜のこと。
「いいじゃん、一回来てみてよ。サービスするからさ」
 レジカウンターに身を乗り出し、愛貴まなきくんは子犬のように黒目がちな目をきゅっと細める。今、私は誘われているのだ。彼の働くボーイズバー、「猫峠」に。
 猫峠とは、まよなかあひるの裏にあるボーイズバーである。田舎の港町にも、寂れてはいるものの歓楽街のような場所があるのだ。愛貴くんは奇しくも私と同い年で、留年2年目の(一応)大学生。猫峠は彼のバイト先で、このあたりのバーやスナックを出入りする人々と同様、彼もうちの常連になりつつある。

「そんなこと言われたって……」
「でも、お高いんでしょう?」
 愛貴くんは冗談めかして言う。
「高い安いの話じゃなくて、だって私、行ったことないもん。そういうお店」
「夜の店で働いてるくせに?」
「ここは夜の店だけど、夜の店じゃないでしょ。夜の世界みたいなのとは無縁だもん。それに、うちの店のこともあるし……」
 すると裏に引っ込んでいたリッカさんがひょっこりと顔を出し、「店のことはいいから行ってみな。経験だ経験」とよく通る声を上げてまた引っ込んでいった。今夜の商品の仕上げがまだ終わっていないらしい。
 あれからすっかり寝不足から解放された私は、なんとなくリッカさんの善意を無下にできなくなっている。
「ってことで……ね」
 愛貴くんのウインクに、いったい何人の女の子が悩殺されてきたのだろう。経験だ経験。リッカさんの言葉が胸の中で反響していた。


 おそるおそる足を踏み入れた猫峠は想像以上に明るく、そのへんの居酒屋やバーと変わらない雰囲気だった。アルコール成分の漂う、それでいてふわりと外国の香水のような上品な香りがする。カウンターに並ぶスタッフは確かに全員男性だけれど、それ自体にはあまり違和感がない。ただぽつぽつといるお客はみんな女性で、ここが単なるバーではないのだという事実を思い知らされる。
「さすが、顔の綺麗な人が多いね」
「だろ。一番人気のショウさんなんか見てみなよ。非の打ち所がないってこのことだよ」
 そう言ってスタッフたちに私を紹介しだした愛貴くんも、十分非の打ち所がない顔立ちだ。黒目がちでくりっと丸い瞳、筋の通った鼻に薄い唇が、見事なほど左右均等に配置されている。それに横顔をよく見てみると、目の周りや鼻筋の陰影から彼が化粧を施しているのがわかる。素顔の良さを活かしたさりげないメイク技術に見惚れているうちに、それではお客様、お席へどうぞとうやうやしくカウンターに案内された。
「何にされます? お客様」
「もう、急にお客様扱いやめてよ逆に照れる。お酒のことよくわかんないから、いい感じの作って」
「ふふ、わざとだよわざと。はい、承りましたっと」
 子犬のように微笑んでいた目が伏せられ、カウンターの向こうでカクテルか何かが作られていく。私がお酒に詳しくないのは本当だ。大学に通っていた頃は何度かお酒を飲む機会があったけれど、そのたびに上手に飲むことができず、いつしかお酒を遠ざけるようになっていた。

 すっと目の前にカクテルが差し出され、私はその弾ける泡を見つめる。誘われるように口をつけると、爽やかな甘みを含んだ炭酸の泡が舌を刺激した。フルーティな香りが鼻腔を通り抜けていく。
「マスカットのマティーニ。お酒が弱い人にも飲みやすいかなって」
 言いながら、愛貴くんはカクテルの隣にチェイサーのグラスを置く。
「……なんで弱いってわかったの?」
「見てればわかるよ。あひるちゃん、お酒弱いし、あんまり好きじゃないでしょ。ごめんね、こんなところに連れてきて」
「それはいいの。こういうところに来たの初めてだから、戸惑ってはいるけど」

 二つ隣の席では、私と同じくらいの女の子が一番人気と言われるショウさんと親しげに会話している。髪を二つに結んだロリータファッションの彼女は、いかにもホストか何かに狂いそうな見た目だ。ボーイズバーで済んでいるあたり、まだ健全なのかもしれない。ホストが不健全だと言いたいわけではないけれど。
「あんなに若い子も来るんだね」
「ああ、あの子は僕らの二つ下。ショウさんが担当だね」
「あの子二十歳なの!? やっぱりボーイズバーにも担当ってあるんだ……」
「あったりなかったりってとこかな。ホストほど厳密じゃないし、ショウさんがシフト入ってない日は僕が相手することもあるよ。もっとも、ショウさんがいない日にあの子が来ることは滅多にないけど」
「だろうね……」
 なるほど言われてみれば確かに、女の子はショウさんと話しているときもそうでないときも、常にショウさんへ熱い視線を注いでいる。それは紛うことなき、恋する乙女の表情であった。
「世の中いろんな人がいるもんだね」
 しみじみと呟くと、愛貴くんはぶはっと目の前で吹き出した。
「はは、夜の店で働いてたらわかるでしょ。世の中の広さも、狭さもさ」
「だから、うちは夜の店だけどそうじゃないんだってば」
 愛貴くんは何がおかしいのか、くすくすと笑い続ける。私もあっという間にお酒が回ってしまったようで、一緒になって笑った。頭はぼんやりとするけれど、ぼんやりとした意識の向こう側が楽しげだ。ちょうど暗がりになった天井の角あたりから、うきうきとした自分を見下ろしているかのような陽気さだった。

「ね、あひるちゃん。前からずっと言いたかったんだけどさ」
 とりとめのない話をしていたはずが、ふいに愛貴くんが小声で顔を近づけてきた。潜めた声が妙に緊張感を煽ってくる。一瞬にして、頭の片隅を様々な想像が駆け巡る。そんなはずはない、ともう一方の片隅が否定するのに、私の想像は愛貴くんの様子だけでどこまでも飛躍してしまった。その間、コンマ5秒ほど。
「ん、どうしたの」
 ごくりと生唾を飲み込む。開いていく愛貴くんの唇が、スローモーションのように動いて見えた。
「あひるちゃんさ、まだこのへん観光したことないんじゃない?」
「へ?」
「だってほら、商店街のプリン屋さんのこと話しても、ぴんと来てなかっただろ。あひるちゃんのことだから昼間はずうっと寝てそうだしさ」
「う、うーん……それは図星」
 確かに、ここに来てから近くの観光地は全く巡ったことがなかった。活動時間が日暮れから朝方までなので、何かの用事で外へ出たとしても観光地の店は軒並み閉まっている。昼間にわざわざ動いて近所を散歩しようという気にも、なかなかなれなかった。
「じゃあさ、今度僕が案内するよ」
「えっ……いいの?」
「もちろん。あひるちゃんには仲良くしてもらってることだし。それにあひるちゃんの店に行っても、リッカさんの目があるからさ」
 その言葉がどういう意味を含んでいるのか、さっき散々想像力を羽ばたかせた私は察してしまう。察していいのだろうか。
「い、行く。愛貴くんに、案内してほしい」
「よしきた。最高のデートプラン組むから期待してて」
 デート、やはりこれはデートのお誘いだったのかと、期待と安堵がないまぜになった感情がくるくると血管を巡り、かあっと耳まで熱くなってきた。
「あー、だめだ私弱すぎる。すっかりアルコール回っちゃったみたい」
「ほんとだ、あひるちゃん真っ赤じゃん。ほら水飲んで水」
 愛貴くんに促され、チェイサーの水を一気に飲み干す。その冷たさにきんと頭が痛み、顔の火照りが冷めてきたような気がする。
「ちなみにそれ、アルコール入ってないからね」
 くすりと笑ったその目が、三日月のようにしなやかに細められた。心臓をぎゅっと掴まれたような感覚があり、その鈍い痛みがじんわりと全身に広がっていく。そうか、こういう感じなのか。私は二つ隣の女の子に心底同情した。
 そのとき、店の前をとととっと早足で通り過ぎる、黒猫の姿が見えたような気がした。


 リッカさんに叩き起こされた定休日のお昼、とても天気がよくて、窓を開けたら清々しい初夏の風がぴゅうっと頬を駆け抜けた。この地方へ来てからというもの、私は天気の良さに救われている。陽の光さえ浴びていれば、暗い気持ちに苛まれてずるずると闇に落ちていくこともなくなる。逆に言えば、日光がないと人間どうやったってだめになるのだ。ここに来るまでの私はおそらくそれだったのだろうと、今なら説明がつく。
 リッカさんがあまりにもしつこく私を呼ぶので、私は寝巻きのまま階段を降り、店の外に飛び出した。
「やーっと来た! これ、見てみなよあひる」
 リッカさんの指差す方を見ると、長らく真っ白だった暖簾に「パン屋 まよなかあひる」と書かれている。しかもそれは、あひるが水面をぷかぷかと浮かんでいるような、水色のロゴになっていた。
「すっごく可愛いじゃないですか。どうしたんですか、これ」
 するとリッカさんの背後から、堀田のおっちゃんがにやにやと登場した。
「わしわし。わしの仕事」
「じゃなくて、おっちゃんの店でやってもらったんだよ。ほら、前にお願いしてた」
「そういえば、この間話してましたね」
 得意げな堀田のおっちゃんを小突きながら、リッカさんの表情からは溢れる喜びが抑えきれないらしい。そんなに嬉しいなら、もっと早くにやってもらえばよかったのに。

「なんだか、あまりにも爽やかすぎて、深夜営業の店っぽくないですね」
「それがいいんだよ。あの店通るたびに閉まってるけど、ほんとにやってんのか? と思ってたら夜中に煌々と明かりがついてんだ。そういうのがいいのさ」
 相変わらずリッカさんはひねくれている。でも、その気持ちもわからなくもない。私も深夜営業のたまらなさがわかるようになってきたのかもしれないな、としみじみしていると、リッカさんがずいと顔を近づけてきた。
「あんた、今日は用事があんだろ? 支度しなくていいのかい」
「えっ、リッカさんなんで知ってるんですか」
「知ってるも何も。あんたがカレンダーを指折り数えてにまにましてんの毎日見てんだよこっちは」
 リッカさんの睫毛は、起き抜けなのにもうばさばさに整えられている。まるで全てを見透かしたかのような目を向けられ、この人には本気で敵わないと思った。
 デートごときに浮かれるだなんて高校生でもあるまいし、と自分でもわかっているのだけれど、愛貴くんの黒目の大きな濡れた瞳やきゅるきゅると可愛らしく笑う声を思い出すだけで、ぶるっと身体の芯から震える。今日は明るい時間に会える、たったそれだけのことでも、夜型人間にとっては貴重な一大イベントなのである。今のこの気持ちを、パウチにでもして大事にとっておきたいくらいだ。


 お昼過ぎ、店の前で愛貴くんはにこにこしながら待っていてくれた。
「なあんだ、デートの相手って愛貴くんか」
「ちょっと、リッカさんは出てこなくていいです!」
 店の入り口から顔を出し、リッカさんは意味深に私と目を合わせると素直に引っ込んでいった。きっと帰ってきたら散々尋問にあうはめになるのだろうけれど、今の私にはそんなこと気にする余裕などなかった。
「じゃ、行こっか」
 愛貴くんの自然な笑顔に対して、私はぎこちない動きでついていくことしかできなかった。まよなかあひるの裏を抜け、猫峠の前を通り過ぎ、路地を真っすぐ通り抜けると商店街のアーケードに出る。
「ああ、そうだ、忘れてた」
 先導してくれていた愛貴くんが、ふと振り返る。
「あひるちゃん。ようこそ、しまなみの街へ」
 ぱっと腕を広げた愛貴くんの背後は、わらわらと思い思いの方向へと向かう観光客でごった返していた。これがこの街の、本来の姿なのだ。

 今日はまだ何も食べていなかった私たちは、まずアーケードの中のごはん屋さんを探すことにした。最初に目に入ったたこせんのお店にかなり惹かれたけれど、行列ができていたので諦める。商店街にはパフェが美味しそうなカフェに雰囲気のある喫茶店、クレープ屋や同業のパン屋など、昔ながらのお店から今どきのお店まで、賑やかに所狭しと並んでいる。
「うーん、おしゃれなカフェとかカレー屋さんも気になるけどさ。あひるちゃん、普段パンに囲まれてるから和食の方がいいんじゃない?」
「うん、確かに。どうりでクレープを見てもそそられないと思った」
「だよね。このあたりに海鮮丼のある店があったはずなんだよな……せっかくだから、いいもの食べようよ」
 愛貴くんはするりと猫のような身のこなしですぐそばの狭い路地に入る。自然に手を握られたおかげで、どの路地を通り、曲がり角を何回曲がったのか数えることすらできなかった。気がついたときには、青い暖簾のかかった雰囲気のいいお店の前に出てきていた。愛貴くんが手を離すと、右手だけがひんやりとした風に吹かれる。

 暖簾をくぐった先はカウンターと奥に二組ほどの座敷があるだけの、こぢんまりとした定食屋だった。愛貴くんが席の空きを尋ねると、運よくカウンターが二席空いていたので案内してもらう。
 メニュー表を見るとお昼は海鮮丼と天丼、それから御膳も頼めるらしい。海鮮丼の口で店に入ったけれど、ちょうど隣の席の人が天丼を食べていたのでそちらにも惹かれる。
「天丼も美味しそうだよね」
「うん。でも、せっかくだしやっぱり海鮮丼にしようかな……」
「じゃあ、僕は天丼にするよ。そしたら両方食べられるでしょ」
 愛貴くんの提案に乗っかり、私たちは天丼と海鮮丼を一つずつ頼んだ。
 間もなくして運ばれてきた海鮮丼には、両手に収まるほどの丼にぎゅぎゅっと刺身たちがひしめき合っていた。隣にやってきた天丼も、これでもかというほど天ぷらがボリューミーに盛られている。こんなに食べられるかどうか心配しながらも、目の前の生魚を眺めているだけで胃が活発になってきた。宝石箱のような艶やかな丼に、早速箸をつける。
 口に入れた瞬間、ひんやりとした舌触りだけでうっとりする。鯛は嚙めば嚙むほど涼やかな味わいがあり、サーモンは脂がのっているのに爽やかに舌の上を滑っていく。魚の種類には疎いので、なんの魚かわからないものもある。けれどどれも新鮮さがよくわかる歯応えだ。なんと手頃な幸せだろうか、と私はほっと息をついた。
「天ぷら、食べていいよ」
 海鮮丼に夢中になっていたので、天丼の存在をすっかり忘れていた。愛貴くんが取り皿に置いてくれた天ぷらを口に運ぶ。さく、と軽やかな音がして、ほっくりとした食感が歯を刺激した。
「これ……もしかして牡蠣?」
「そうみたいだよ。珍しいよね」
「うん、おいひい」
 頬張りながら、思わず何度も美味しい美味しいと声を上げてしまった。そのまま海鮮丼もするすると平らげ、私たちは大満足で店を後にした。ここにはきっとまた、必ず来よう。

 再び商店街に戻り、腹ごなしにアーケードの下を歩く。さっきまでは食べ物ばかりに目が吸い寄せられていたけれど、見回してみると雑貨屋や鞄屋のような、観光客にも地元の客にも喜ばれそうな店が軒を連ねている。そして何より、猫モチーフの多さといったら。噂には聞いていたけれど、さすがは猫を愛する街だ。
 そのとき、紙袋にパンを隙間なく埋めていくように、私の中のパズルのピースが順番にはまりだした。
 ここをかつて、私は歩いたことがある。
 急に立ち止まった私を愛貴くんが振り返り、どうしたの、と声をかける。なんでもない、となんとか答え、再び愛貴くんの隣を歩き出す。けれど頭の中はすっかり、あの日母と歩いた同じ道の記憶を辿りはじめていた。今よりもずっと高く大きく見えた街並みの風景、だけどこれは間違いなく同じ場所の記憶だった。嬉しくも切なくもないけれど、感動したことには違いなくて、私は素直にその感情を噛み締めながら歩いた。

 街を見渡せる展望台があるというので、線路を越えた先のロープウェイに乗って山を登った。徒歩で行き来もできるらしく、下を見下ろすと人々が展望台へ向かう階段をぞろぞろと上り下りしている。この道中にも観光スポットやカフェがいくつかあるのだと、愛貴くんが教えてくれた。振り返るとロープウェイはずいぶん高くまで上っていて、街並みを越えて海、そのまた向こうの島々までが見渡せた。
 ロープウェイを降りて案内の通りに進むと、開けた場所に躍り出た。ぐるりと大きくカーブした、オブジェのような白い階段が見える。ここまでそれなりに歩いてきたので、一歩一歩踏みしめるようにしないとうまく足が持ち上がらなかった。やっとの思いで頂上に着くと、愛貴くんが私の背中をそっと押した。
「ほら、見てごらんよ」
 眼下に広がっていたのは、ジオラマみたいな街と海と島、そして空だった。運河のような海には大小様々の船が点々と浮かび、時折電車がプラレールのようにやってきては去っていく。無数の車に連なる屋根、ここには確かに人の営みがある。
 ここは富士山の頂上ではないし、地道に山登りをしてきたわけでもない。なのにどうして、高いところから眺める生活はこんなにも美しく見えるのだろう。きっと細かく見れば、汚い部分なんていくらでもある。だけどこうして遠ざかってみて見えるものが綺麗だと思えるのなら、人の暮らしは大雑把に綺麗だと言ってもいいのかもしれない。

「ここ、いいね。すごくいい」
「だろ。たぶん、ここはこの街に住むほとんどの人たちにとって大事な場所、なんじゃないかな」
「そうかもね。そうだよきっと。だって、自分たちの街が一気に見渡せるんだよ」
「僕の地元にもこんな場所があったらよかったのに」
 しばらくの間、二人で黙って柵にもたれかかる。愛貴くんの地元。愛貴くんの生まれ育った場所。ぼんやりと景色を眺めているうちに、そんなことに思考が及んでいた。
「ねえ、愛貴くんって、なんで愛貴っていうの」
「え、名前? そうだなあ、うーん……なんでこんな名前つけられたんだろうなあ」
 ふと気になって聞いてみただけだったのに、愛貴くんは眉間に皺を寄せてじっと何かを考え込んでいた。

「あひるはさ、愛瑠って名前、たまに重たくならない?」
「重たい? ああ、なんかわかるかも」
「愛とか、よくわかんないからさ。たまに重荷なんだよな、この名前」
「不釣り合いっていうか、名前負けしてるなって、思う」
「そう。それなんだよ。愛を貴ぶなんて、いやに高貴だろ。僕んち、別に金持ちでもないのに」
 私の名前に愛という文字をつけたとき、母は私のことを愛していたのだろうか。愛したいと、思っていたのだろうか。それが唯一の希望であり、呪いでもあった。リッカさんがあひると呼んでくれなかったら、私はここで今ほど気楽に生きられなかったかもしれない。過去も持ち物も捨ててここへ来たけれど、名前だけはどうやったって捨てることのできない私の構成要素なのだ。
「まあ、よくわかんないから愛を売る店で働いてるのかもしんない。俺は」
 さすがにホストまでは無理だったけど。あれは正常思考の人間がする仕事じゃないよ、と彼は呟いた。一人称がそれまでよりもくだけてきたことに、彼自身は気づいていただろうか。
「じゃあ私も、愛を知らないから愛貴くんの売ってる愛を買ったのかもね」
「あれは無理やり売りつけたんだよ。でもまた店には来てほしいな」
 夕日を浴びた愛貴くんの瞳が、眩しそうに細められた。

 まよなかあひるまで愛貴くんに送り届けてもらうと、店の前でリッカさんが待ち構えていた。
「おや、そろそろ戻る頃なんじゃないかと思ってたんだよ」
「リッカさん、娘のデートを見張る親みたいなことしないでください」
「へえ、やっぱりデートだったのかい、へえ」
 にんまりとするリッカさんをむっと睨みつけたら、違う違う、と半笑いで制された。
「そうじゃなくて、商品の試作ができたんだよ。せっかくだから愛貴くんにも味を見てもらいたくて、ね」
「えっ、いいんすか。まよなかあひるの試作食えるなんてラッキー」
 差し出された袋から甘酸っぱい香りが漂ってくる。どうやらフルーツを使っているらしいな、と鼻をひくつかせていると、「ダークチェリータルトだよ」とリッカさんに答え合わせをされた。せっかくだからこのまま食べて帰ろうと、店の前の防波堤に二人並んで腰かける。

 ダークチェリータルトは、ダークチェリーの甘さとクリームチーズの甘酸っぱさが絶妙なバランスに整えられていた。タルト生地はほろほろと海にこぼれ、中身のクリームチーズはつるりと舌の上で溶けていく。私みたいな鈍い舌だと完璧な仕上がりに思えてしまうけれど、リッカさんはここからもまだまだ突き詰めるつもりなのだろう。
「さっきの話の続きなんだけどさ」
 口の横にタルトの欠片をつけながら、妙に改まった口調で愛貴くんは話し出した。
「なんか、たまに猛烈に寂しくなるんだよ。うまく言えないけど、この世に俺は一人きりだ、誰も俺のことなんか理解してくれない、みたいな。こんな大層な名前を持ってるから余計にそうなのか、みんなそうなのか、わかんないんだけどさ。でも、うまく言えないけど、今日みたいな日があったら俺、今夜は安心して眠れそうな気がする」
 まあ、今夜もバイトなんだけどさ、と愛貴くんははにかむ。海風に前髪が煽られ、彼のおでこが瀬戸内海にさらされる。
 大学に、いや、私の今までの人生に愛貴くんみたいな人がいてくれたら、全然違ったのだろうなと思う。

「私も、寂しくなるよ。それはもうしょっちゅう」
「やっぱりなる? 俺だけじゃない?」
「うん、そう思う。たぶん、みんな、そうなんだと思う」
 口にして初めて、きっとそうなんだ、と胸に落ちてきた。私の孤独は私だけのものではない。それは孤独でないことの証明にはならないけれど、少なくともここに二人分の孤独を集めることができただけで、私は構わなかった。
「私も今日は、よく眠れそう」
 墨を垂らしたような海が、すぐそこまで迫ってきていた。


第5話へつづく


ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。