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【小説】パン屋 まよなかあひる(7/8)マフィンと記憶

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第7話 マフィンと記憶


 とても美しい記憶ばかりではなかった。だけど、人生そんなものだとも思う。

 私が渾身の力で説得したからか、リッカさんは今すぐの閉店は思い留まってくれたらしい。そして私はしばし、まよなかあひるのお休みをいただくことにした。リッカさんと交換条件のように約束した、故郷に帰るためだ。
 猫峠の扉を開いたのは、出発直前の夜のことだった。ちりんとドアベルが鳴り、あの日嗅いだのと同じ、アルコールの混じった上品な香りに包まれる。愛貴くんに連れてきてもらって以来、ここに来るのは初めてだ。何も知らせていなかったからか、カウンターにいた愛貴くんはしばらく私を見つめたまま固まっていた。初めて会った日の私のようだった。

「決意が、揺らいじゃうかもしれないから。会いに来たの」
 事情を一通り話すと、愛貴くんは「ふうん」とだけ声を漏らして目を伏せた。
「行かなくても、いいのに」
「え」
「ううん、なんでもない」
 いつか飲ませてもらったお酒と同じものを、私は頼んだ。もちろん傍らにはチェイサーのグラスもある。ちびりちびりと飲むたびに、マスカットの華々しい風味が鼻腔を通り抜けていく。静かにグラスを磨く愛貴くんの指先は透き通るように白く、このままどこかへ消えてなくなってしまうんじゃないかと不安になるほどだった。

 私たちの間に十分な沈黙が広がると、愛貴くんはふいに奇妙な話をしはじめた。
「なあ、知ってる? まよなかあひるって、本当にここのパンを必要としている人の前には一匹の黒猫が現れて、道案内してくれるんだってさ」
 言われてみれば、確かに心当たりがあった。黒猫、黒猫、とお客の口から聞いたことが何度かあったからだ。そもそも私だって、まよなかあひるとリッカさんに出会ったきっかけは黒猫だった。あの黒猫についていかなかったら、私は今頃どうなっていたのだろう。今思えば、あの猫は私の命の恩人、いや、恩猫だったというわけだ。
「まあ、俺は会ったことないんだけどさ。俺は本当は必要としてなかったのかなあ、まよなかあひるのこと」
「……それは、違うと思うよ」
 今まで黒猫に導かれてやってきたお客のことを思い返し、首を振る。あの人たちは確かにリッカさんのパンを、私たちの力を必要としていた。そしてここにたどり着くにはきっと、本人の力だけでは足りなかったと思う。人には時になんの根拠もない、たとえばそのへんの黒猫のような存在にさえ縋らなければならなくなることがあって、そういう人々の前に黒猫は現れ、私たちに引き合わせてくれたのだろう。
「愛貴くんは、自力でうちに来る力があったから。だから、黒猫に頼らなくてもよかったんだと思う」
 本当は、まよなかあひるを訪れるだけで十分うちとの縁は結ばれているのだ。堀田のおっちゃんだって、うみちゃんとおばあちゃんだって、最初からうちに縁があるからやってきた。
「まあ俺、最初からあひるちゃん狙いだったもんなあ。パン目当てじゃなくて」
「え」
「なんてね。そんなに深く考えないで。今言ったことは本当だけどね。あと、まよなかあひるのパンも俺、好きだよ」
 なんだか試されているような気もしてきたけれど、愛貴くんが愉快そうにしているのでそれでいいと思った。細められた愛貴くんの目は、あの黒猫のようだ。
「知らないよ、他人のふりされても。何かひどいことされても。肉親だからって、油断したら痛い目見るんだから。……って、あひるちゃんならよくわかってるか」
「うん。期待はしない。でも、行ってくる」
「ん、行ってきな。だっていってきますって、行って帰ってきますってことなんだから。傷ついたり悲しくなったりしたら、すぐ戻っておいで」
 あひるちゃんの帰る場所はここにある。愛貴くんのその言葉を、心から信じることにした。


 ここに来た日以来、初めて肩から下げたボストンバッグは軽かった。何しろ、一年前に持ち物をゼロからスタートさせたのだから。まさかあれがスタートになるだなんて、と、すっからかんのボストンバッグを揺らしながら笑みをこぼすと、マフラーの隙間から冷たい風が忍び込んできた。
 駅に歩いて向かっていくと、集団登校する小学生に出くわす。街路樹に群がるムクドリのような騒がしさを耳にすると、自ずと閉店作業中の店の空気を思い出す。私もすっかり、深夜のパン屋のルーティンが板についてきたらしい。

 ムクドリの集団に見覚えのある姿を見つけたと思ったら、向こうもこちらに気がついた。
「あ、あひるちゃん」
「うみちゃんだ。おはよう」
「おはよう」
 きちんとお辞儀をした少女は、珍しいものでも見るような表情をする。
「ああ、ちょっとだけ里帰りするんだ」
「そういうこと? 昼間に会えることがないから、珍しくって」
 うみちゃんのおばあちゃんは、先月亡くなった。山を登れるくらい元気だったのに、眠っている間にころりと息を引き取ったらしい。うみちゃんのお母さんが、わざわざ店に連絡をくれたのだった。さらに深刻な症状になる前に旅立てたのは、ある意味おばあちゃんにとっても、うみちゃんたちにとっても幸せだったのかもしれない。
「夜中にはもう行けないけど……代わりに今度、すっごく早起きして行きます。まよなかあひる」
 ぎゅっと服の裾を握りしめるうみちゃんに、全力で手を振った。うみちゃんが本当はパン嫌いでないことを、私は知っている。


 新幹線と特急を乗り継ぎ、地元に着く頃には夕暮れが顔を覗かせつつあった。瀬戸内の天気とは打って変わって、どんよりとした雲が薄暗く空を包んでいる。そうだ、私の地元はこんな場所だった。冬になると滅多に太陽を拝めない、そうでなくても晴れの日が少ない鬱々とした地方。高校卒業以来、一度も帰ったことはなかったのでざっと5年ぶりになる。以前はもっと見晴らしのよかった駅前には高いビルが立ち並び、煌びやかな見た目にはなったものの、ずいぶん息がしづらくなったような感じがする。

 私が大学入学をきっかけに叔母の家を出てから、母が一人で地元に戻ってきたことは叔母から聞いていた。邪魔者の私がこの地方を離れたから戻ってきたのかもしれないけれど、どちらにせよ帰るつもりなどなかったので気に病むつもりもなかった。
 何かあったときに、と教えられていた母のアパートは、もらった地図を海に捨てても覚えていた。そこはかつて、母と二人で暮らしていたアパートだったからだ。
 記憶に比べてずいぶん薄汚れた、みすぼらしい建物の前に着く。母がわざわざこの古いアパートに戻ってきた理由はわからない。母にとって、そして私にとっても、ここは特段思い出の地でもなかったはずだ。一度住んでいたので暮らしの勝手がわかるからだとか、おそらくそんな理由だろう。
 ここは果たして、実家と呼んでいいのだろうか。チャイムを押しても誰も出ず、鍵も開いていなかった。仕方なく玄関前に座り込む。

 鞄の中にリッカさんが持たせてくれたバターマフィンがあったことを思い出し、それと同時に自分の空腹にも気づかされる。迷わず取り出し、袋を開けた。荷物に押されて多少ひしゃげたマフィンだけれど、味は変わりない。なんなら少し潰れているくらいが、口に入れやすくてちょうどよかった。そうだ、次の新商品は潰れたマフィンを提案しよう、と思い立ち、そりゃマフィンの意味がないと思うね、とリッカさんに却下されるところまで容易に想像できた。
 ほろほろと崩れるくずをスカートで受け止めながら、みっともなくしゃがみ込んだまま食べ続ける。喉が渇く、だけどもう少しこのまま味わっていたい。それはある種の逃避だった。今の私にとって、リッカさんのマフィンだけが心の拠り所だった。

 母が──というより、私のいる玄関前に家主らしき人の影が落ちたことで母だと気づいた──帰ってきたのは、日が暮れてずいぶん経ってからだった。その頃には私は芯から凍え、せっかくマフィンで蓄えた栄養もすっかり体温の維持に使い果たしてしまっていた。
 黙って入れられた部屋の中は殺風景だった。必要最低限のものしか置かれておらず、インテリアも写真の一枚も飾られていない部屋。生活の匂いがちっとも感じられず、もはや気味の悪さすら覚える。母はいったい、どんな生活をしてきたのだろう。
「死んだのかと思ってた」
 それが母の一言目だった。
「うん、まあ、死ぬ予定ではあったんだけどね」
 思わずリッカさんを相手にするような返しをしてしまったけれど、なんの感情の波も起きていなさそうな母の無反応に気が滅入る。そうだ、彼女はこういう人だった。殴られたことも罵られたこともないけれど、母は私への関心が絶望的になかった。薄いどころか、無に等しかった。それは母に恋人ができた頃から顕著になり、母たちが出ていく直前なんか、丸一日口を利かない日だってあったくらいだ。
「それで、今日は何をしにきたの」
 母の声は抑揚がなく、私の顔すら見ていない。
「今ね、パン屋で働いてるの。深夜営業のパン屋。お母さんと昔旅行に行った、瀬戸内海の見える街で。そこの店長……リッカさんって人に助けられて、私、そこで暮らしてるの」
「ふうん」
「……大学にも、行ってたんだよ。辞めちゃったけど」
「へえ」
 大して喋らなかったのに、不自然に息が上がっていた。情けなかった。どうでもいいと思っていたのに、彼女の前で必死になってしまう自分のことが。
「……それで?」
「……それだけ」
「へえ。まあ、頑張んな」
 それだけだった。10年ぶりの親子の再会なんて形だけのもので、それ以上も以下もなかった。けれど私はここに来ると決めたときから、こうなることを期待していたような気がする。
「じゃあ、帰るね」
「ん」
 息が詰まりそうな部屋から一刻も早く出たい気持ちが勝って、私は母の顔もろくに見ずに出てきてしまった。母が記憶よりも老けていたのか、まだ若々しい肌をしていたのかも確かめられないままだった。母の年齢すら、私は知らなかった。

 母親があの人じゃなかったら、私は孤独を味わわずに、こんな風にならずに済んでいたのだろうか、という考えがふとよぎり、しかしすぐさま自分の中で否定した。きっと、そうじゃない。一部はそうとも言えるけれど、全てが母のせいではない。強くあれなかった、私のせいでもある。
 私の心の奥にあった美しい記憶は、全部嘘だったのかもしれない。私の妄想だったのかもしれない。つまり私の中には美しい記憶など一つもなかったことになるわけだけど、そもそも美しい記憶とは、と考え出すと途端にどうでもよくなった。それでも私の母はこうして生きていた。存在していた。私の知らないところで、私の作り上げた記憶の中で。
 すぐ戻っておいで、と力強く言ってくれた子犬のような瞳を思い出し、私は駅へと真っすぐに向かった。この街にこれ以上いる必要はなかった。今から出れば、終電でうちに帰れそうだ。


最終話へつづく

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。