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山口青邨先生が詠まれた4つの短歌とそこに描かれた春の季語、そして...🙄

こんにちは!
matsunoya です。

今日は短歌と春の季語、そして「自由な詩」について語ります。
Here: https://note.com/matsunoya_note/n/nd8e86f9c36d4

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36514 文字、73分-104分|500文字-350文字/分

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山口青邨先生が詠まれた4つの短歌と、そこに描かれた春の季語、春宵、春灯、そして春の闇について読み解きます。

そして、 #この春やってみたいこと   #この春やりたいこと

というか、最近、俳句・短歌に興味があって、ワタクシ...春の季語を使った自由な小さな詩(短詩)を書いてみたのでご紹介します。

山口青邨先生が詠まれた4つの短歌とそこに描かれた春の季語。そして...🙄

Twitter でツイートしたのですが、note.com ( matsunoya_note 🔍) で読んでくださる方もいらっしゃるかと思いまとめました。

山口青邨先生の句を拝見したのは「春の季語」を探していた最近のこと。

青邨先生が詠んだオランダでの4句、春の季語に目が留まりすっかり気に入ってしまいました。

春宵、春灯、春の闇(後半2句)という季語で連句のよう。
春の闇に風車の姿が浮き上がる風景を表現していらっしゃいます🙂

Twitter @Mats_blnt_pharm でのスレッドは、こちらから。。👇

|山口青邨先生の句と春の季語

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Tweet には書かなかったのですが、

第3句と第4句の季語「春の闇」、その間にある春の時間の経過と春の闇の深さについて、ちょっと考えてみました。

時計は動いている。チクタク、チクタク。
まるで目の前にある巨大風車の翼のように。

第3句の主題はドン・キホーテの出現、
第4句の主題は走る一筋の水です。

青邨先生には、ドン・キホーテが出てきそうな風車が存在する春の闇の重い揺らぎが見えます。

けれど、見えたと思った瞬間、その「ラ・マンチャの男」は闇の深みの中ににじんで消えてしまった。

チクタク、チクタク。。

先生がオランダのアムステルダムを発ってハーグへ向かわれ、ライデンを通過したのは、一月十二日、夕方5時少し前だったそうです。
引用:雑草園さんのブログ
https://zassoen24.exblog.jp/page/10/

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青邨先生には、そのオランダ風車が春の闇に存在する風景の中で、翼が「グラウンド・ゼロ」の θ を通過し、水がその翼によって切り裂かれて一筋流れ落ちる姿が見えたのではないかな、とワタシは思います。

そしてそこに超えてはならぬ結界が見えたのだと。

春が経過して、1月にオランダで見た風景は、4月、先生が外遊から日本へと帰国されたのちのご自宅「雑草園」の春の闇、夜の庭の風景へとワタシの心の中で展開します。

鹿威しの音と同時に流れる水。

そして溢れた一筋の水が、庭の石畳の間を細い小川のように走る。
そんな光景をワタシは思い浮かべます。

雑草園の春の闇を横切って走る一筋の水のその奥に、さらに深い春の闇が広がっている。

人の心の中を推測することはする必要のないこと。

ですが、先生には、一流の科学者としてそしてひととして、春の闇の結界とその奥の一層深い闇がここでもまた、同じように見えたのではないでしょうか。

おこがましい話になってしまいますが💦、

企業人として、製薬会社のR&D部門で医薬品の品質と安全に関するレギュラトリーサイエンス分野のキャリアを(若干、20数年間)歩んだワタシの心象にも、その先生が詠まれた4つの短歌の中の時間の経過と最後に先生がご覧になった「結界」が刻まれている。

そのように思えて、東京大学工学部教授「山口青邨」工学博士が、科学者としてひととしてその結界の奥の闇をご覧になった時のお気持ちへと、
自分の心が飛来していくのでした。

ただし、先生が深い闇を見たときのその一筋の水が走る結界は、山口青邨工学博士がそこに明らかな物理学的な美を見出されている円運動における力学とどう連関するのか。

想像ですが、日本の文化的な宗教・倫理を包摂した結界のその先の先に、科学者が純粋に深く深くのめり込んでいく量子力学の世界、そうです、おそらくは核分裂にいたる臨界点が、風車の円運動を横切る、闇に光る一筋の中性子線として、見えていたのではないでしょうか。

ベルリンにおいて、ハーンとシュトラスマンが核分裂過程の間の追加の中性子の存在と遊離を予測し、その論文(※ref. 1)が出版されたのは、その年、1939年2月10日のことでした。この論文において初めて、核分裂(fission)という今では有名な科学用語が学術誌にテキストで書かれその概念の定義がされました。

そして、フレデリック・ジョリオ=キュリーが同年3月、この現象が連鎖反応であることを証明します。

その後、ハーンは原子核分裂の発見によって1944年のノーベル化学賞を受賞します。

※ref. 1 Wikipediaより
Hahn, O.; Strassmann, F. (10 February 1939). “Proof of the Formation of Active Isotopes of Barium from Uranium and Thorium Irradiated with Neutrons; Proof of the Existence of More Active Fragments Produced by Uranium Fission”. Die Naturwissenschaften 27 (6): 89–95

( ´Д`)=3 フゥ

※理科が苦手(爆)👈 言っちゃダメなやつ

これは人類が初めて火を手に入れたときのように、熱エネルギー産生の革新的テクノロジー「核分裂(fission)」を、その不幸な時代の工学系科学者が手中にした瞬間でした。イノベイティブテクノロジーが概念のみならず実証された瞬間をその目にした工学博士の昂揚と、未だ、他の人類がその言葉を知らないそのイノベイティブテクノロジーを、その深さを辿る孤独な心を、ワタシは、春の季語を初めて見つけたことによって、辿り始めるのです。

以下に、少し専門的な解説を主に原子力百科事典ATOMICAから引用しておきましょう。

原子力百科事典ATOMICAは原子力に関連する幅広い情報を提供するインターネット上の百科事典で、平成31年3月14日より、国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構(JAEA)によって運営されています。
専門性の高い事柄に関してもできるだけ平易に解説し、原子力を専門としない方々(教育関係者、報道関係者、原子力行政に携わる公務員、大学生など)が理解できるよう配慮されています。
原子力百科事典 ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/
原子力百科事典 ATOMICA 紹介
https://atomica.jaea.go.jp/intoro.html

興味があれば、薬学生、薬剤師の先生などは、お読みいただけたらと思いますが、知識が無くても読める程度の科学読み物ですので、広くご紹介させていただきたく思い、以下に引用します。

|核分裂(nuclear fission)

参考資料:原子力百科事典ATOMICA https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_760.html

核分裂は、核反応の一種で、ウランやプルトニウムなどの重い原子核がほぼ同等の質量をもつ二つ(まれには三つ以上)の原子核(核分裂片)に分裂する現象をいい、中性子、陽子、γ線、β線の吸収などによって誘起される誘起核分裂と自然に起きる自然核分裂とがあります。

中性子の吸収による核分裂では1核分裂当たり2億電子ボルト(=200 MeV)程度のエネルギーを放出します。このとき、新たに2〜3個の中性子の放出を伴うので、この核分裂によって新たに生まれる中性子によって次々と核分裂の連鎖反応が起こるのです。核分裂の連鎖反応を利用して莫大なエネルギーを取り出すのが原子炉です。

matsunoya_note でも動画と分かりやすい図表を用いて解説しています。

松廼屋|論点解説 薬剤師国家試験対策ノート問104-1【物理】
論点:放射線 / 壊変・核分裂|matsunoya_note https://note.com/matsunoya_note/n/nf8835472e646

|ハーン、シュトラスマン、マイトナー、フリッシュによる核分裂現象の発見

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_16-03-03-11.html

1938年末、ベルリンのハーンとシュトラスマンは、中性子で照射されたウランの中にバリウムが生成されていることを確認しました。結果は公表前に、元の共同研究者でありスウェーデンに亡命したマイトナーに知らされ、彼女は、偶然訪問してきた甥のフリッシュと共に、この結果をどう解釈すべきかを論じて、これを核分裂現象として説明しました。

フリッシュは電離箱による測定でこのことを実証します。

1.ウラン放射化生成物の分析
ウランを中性子で照射した場合に生ずる放射化生成物の分析は、フェルミ達の実験以降、ベルリンのハーン(Otto Hahn、独、1879〜1968)、マイトナー(Lise Meitner、オーストリア、1878〜1968)、シュトラスマン(Fritz Strassmann、独、1902〜)のチームによって遂行されていました。

ベルリンのチームは、半減期23分でベータ壊変するウランの同位体(現在、ウラン239として知られており、半減期23.47分で超ウラン元素のネプツニウム239に壊変する)を発見したほか、ベータ壊変して次々に他の元素に移っていくいくつかの放射性核種の壊変系列を見い出しました。

最初これらは、超ウラン元素に属するのではないかと考えられました。

1938年の夏、パリで同様な研究を続けていたイレーヌ・キュリーとサビッチが、3.5時間の半減期を持ちランタンに似た放射性核種を、ウランの放射化生成物の中に見い出します。

これに疑問を感じたベルリンのチームは、これを確かめようとして、ウランの放射化生成物の中で互いに異なる半減期を持つ3種類のラジウムの同位体と考えられる放射性核種を、担体として添加したバリウムと一緒に分離しました。

1938年の夏、この頃、ヒットラーがオーストリアを併合したために、ユダヤ系であるということで迫害を受ける立場となったベルリンのチームの一員であるマイトナーはスウェーデンに亡命し、契約上はハーンのチームとの共同研究を終えることになりましたが、ハーンとマイトナーは引き続き手紙でこれまでの研究と現在の課題について議論を続けました。

2.核分裂生成物バリウムの発見
1938年の暮れになって、マイトナーの抜けたベルリンのチームは、予想外の事実を発見しました。

ウランの放射化によって生じた「3種類のラジウム同位体」は、バリウムから分離することができなかったのです。ハーンとシュトラスマンは、3つの方法によって入念にこのことを確認しました。

1)ラジウム228を加えてラジウムとバリウムの分溜を行ったところ、「3種のラジウム同位体(と思われた物質)」はラジウム228から離れて、バリウムと行動を共にした。
2)「3種のラジウム同位体(と思われた物質)」の壊変生成物にアクチニウム228を加えてランタンとアクチニウムの分離操作を行ったところ、壊変生成物もまたアクチニウム228から離れて、ランタンと行動を共にした。
3)多くの異なったバリウム化合物の結晶を生成させたが、「3種のラジウム同位体」がバリウムから離れることはなかった。

以上の結果から、「3種のラジウム同位体(と思われた物質)」はバリウムそのものであることがわかりました。すなわち、ウランを中性子で照射すると少なくとも3種類のバリウムの同位体ができ、これらは壊変してランタンになることが判明したのです。

ハーンとシュトラスマンは、研究チームの一員であったマイトナーに12月19日付の手紙でこの結果を知らせ、12月23日に論文を投稿した。

3.マイトナーによる核分裂現象の説明
手紙を受け取ったスウェーデン亡命中のマイトナーは、ウランを中性子で照射するとバリウムを生じるという現象を、どのように理解すべきかについて考えていました。

年末を共に過ごすために甥のフリッシュ(Otto R. Frish、オーストリア、1904〜1979)が訪ねてきます。フリッシュは、当時デンマークのコペンハーゲンにあるボーアの研究所で物理学を研究していました。

マイトナーはフリッシュに議論の相手になってもらい、ハーン達が発見した現象について考察し、次のように現象を説明しました。

1)これまでに発見された核反応では、核から大きな電荷が一挙に失われることはなかった。これは、クーロン障壁が核から大きな電荷を持った粒子の放出を阻んでいるためと説明される。
2)核内では粒子同士が核力によって結び付こうとしており、これによって核の表面には表面張力が生じている。重い核では核内の電荷によって生じる核子同士の反発力のため、上記の表面張力は弱められ、原子番号が100程度にまで増加すれば0となって、核子同士が1つの核にまとまることはできなくなる。
3)ウランのような重い核では、外から中性子が入ってきて、核内にエネルギーが持ち込まれた場合、核内での核子の集団運動が生じて核が変形し、変形がある限度を越せば、クーロン力による反発が核力によってまとまろうとする力を上回り、液滴が分裂するのと似た形で、核が2つに分裂することが起こり得る。 
4)もしウランが上記の過程によって分裂すれば、分裂片はクーロン反発力によって互いに加速され、概算すると2つの分裂片の合計で約 200MeVの運動エネルギーを得る。このようにして解放される約 200MeVのエネルギーは、ウラン、中性子、核分裂片の質量を用い、アインシュタインの式e=mc2から計算された値とも一致する。

マイトナーの説明によれば、ウランの中性子核分裂によって莫大なエネルギーが放出されることが予想されたのです。

1gのウランが核分裂すると石油2トン分のエネルギーが発生する計算です。

4.フリッシュによるエネルギー発生の実証
1939年1月にデンマークのコペンハーゲンのボーアのもとに帰ったフリッシュは、ボーアと相談してマイトナーの説明を実証するための実験を行いました。

電離箱内でウランとトリウムに中性子を照射したところ、核分裂で発生した2つの分裂片の電離作用によって生じる巨大な電気的パルスが観察されました。

|電離箱

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_1102.html

電離箱は、放射線によって空気または他の気体中に電離生成されたイオンの分量を測定して、その放射線の強度を測定する装置をいいます。

その構造は密閉した箱の中で2つの電極を気体(目的に応じて適当なものが選ばれる)中に向き合せ、その間に高電圧で電場をつくり、放射線の電離作用によって生じたイオンを電極に集めます。一方の極を電気計測器に接続しておけば電気量の変化から放射線の強度を知ることができます。

電離箱の場合はガス増幅材を使わないで、単に発生した自由電子と陽イオンを分離収集するに過ぎない点が特徴的である。これを利用した放射線測定器には、熱中性子測定用のフィッションチェンバー、γ線補償型電離箱等があります。

|原子力発電の基礎

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_02-01-01-12.html

一部を抜粋します。詳細は、原子力百科事典ATOMICAのリンク先を参照してください。

原子力エネルギー(核分裂エネルギー)※薬剤師国家試験に出るかもね!

核燃料の中にあるウラン235(U−235)は速度の遅い中性子(熱中性子)を吸収してウラン236になりますが、二つの破片に分裂(核分裂)して、その分裂片(核分裂生成物)とともに、2〜3個の中性子が同時に放出されます。
核分裂の際には、同時に β線、γ線もまた放出されます。

核分裂によって放出された中性子が減速材(軽水)で遅い中性子にされ、その中性子がウラン235に吸収されて核分裂します。
このように核分裂の連鎖反応が続いていきます。

核分裂生成物は不安定な放射性物質なので、β線やγ線を放出しながら次第に安定な核種になっていきますが、この際、熱を発生します(崩壊熱)。

核分裂のしかたは様々です。その一例として、下記の反応が発生します。

U-235 + n(中性子)→
Y-95(イットリウム)+ I-139(ヨウ素)+ 2n(中性子)

核分裂前後の質量を比較すると、差し引き 0.215amu(原子質量単位)の質量欠損が生じます。

核分裂前後の質量の比較
核分裂前:
ウラン235|235.124 amu
中性子|1.009 amu
__
合計|236.133  amu

核分裂後:
イットリウム95|94.945  amu
ヨウ素139|138.955  amu
__
合計|235.918  amu

質量欠損:236.133 - 235.918 = 0.215 (amu)

アインシュタインの特殊相対性理論の結果(※)に従えば、質量欠損はエネルギーに換算することができます。
※質量はエネルギーと等価|e=mc^2

これは約200MeVに相当します。
0.215amu×931.5MeV=200.3MeV

これが、ウラン235原子核1個からの核分裂エネルギー(原子力エネルギー)です。

核分裂エネルギーは、核分裂片の運動エネルギーが約80%、中性子の運動エネルギーが約20%、ほかγ線、β線などの運動エネルギーの形で放出されます。これらは、最終的には原子炉(核燃料)内で熱エネルギーになります。

一方化石燃料の石油や石炭の燃焼では、その構成物質である炭素水素が化学反応で燃焼します。

C(黒鉛)+ O2(酸素)= CO2(二酸化炭素)+ 94.1kcal(4.1eV)
H2(水素)+ (1/2) O2(酸素)=H2O(水)+ 57.8kcal(2.5eV)

双方合わせて約7eVなので、化学エネルギーより核分裂エネルギーの約200MeVが圧倒的に大きいことは容易にわかります。
例えばウラン235 1kg が全部核分裂したとすると、そのエネルギーは重油換算で約240万リットル、石炭換算で約300万kgに相当します。

|核燃料増殖のしくみ

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-01-04.html

天然ウランは2種類の同位体からなり、約 0.7%がウラン235、残りの約99.3%がウラン238です。

ごく少量しか含まれていないウラン235はどのようなエネルギーの中性子であっても核分裂反応をおこす核分裂性物質ですが、ウラン238は約1MeV (百万電子ボルト)以上の中性子でのみ核分裂反応を起こします。

一方で、天然ウランに99.3%含まれるウラン238は、どのようなエネルギーの中性子も容易に捕獲してウラン239になります。このウラン239からは、
     β線       β線
ウラン239 → ネプツニウム239 → プルトニウム239
      23.5分(*)    2.35日(*)
                * 時間は半減期
のように、2回のベータ崩壊によりネプツニウム239を経てプルトニウム239が得られます。プルトニウム239は人工の元素です。ウラン235と同じく核分裂反応をおこす性質を持っていますから、原子炉の燃料として使用可能です。

このようにウラン238は、核分裂をおこしにくい一方で、中性子を捕獲して核分裂性物質を作る性質を潜在的にもっています。ウラン238は、親物質(潜在的核分裂性物質)とよばれます。

原子炉燃料は、ウラン235やプルトニウム239のような核分裂性物質、ウラン238のような親物質が混ざってます。原子炉を運転すると、核分裂性物質を消費しますが、同時に親物質から新たな核分裂性物質を生産します。新しく生産された核分裂性物質の量が、消費した量より大きいときは、エネルギーを得るために消費した量以上のエネルギー資源を生産し、増やしたことになります。このことを”増殖”といいます。そして増殖する大きさを増殖比(増殖率)といいます。
増殖比 =(親物質から生産された核分裂性物質の量)/(消費した核分裂性物質の量)>1
なお、増殖比が1より小さい場合には、増殖比といわず転換比と呼ばれています。
核分裂性物質の生産量は、核分裂をおこす物質と核分裂反応をひきおこす中性子のエネルギーによって左右されます。増殖比の大きさを決める重要な物理量は、核分裂性物質が1個の中性子を吸収した時、放出される中性子の平均的な数(η)です。

核種が中性子を吸収する反応には、核分裂(n,f)と捕獲(n,γ)の2種類があります。核分裂反応では結果として2〜3個の中性子が放出されますが、捕獲反応では中性子は放出されません。ηはこれら両反応の発生確率も含めて吸収された中性子1個当りの放出中性子数の平均値です。

原子炉では、核分裂により放出される中性子のうちの1個は連鎖反応を持続するのに使われるので、増殖を実現するには核分裂で放出される中性子の数ηが2個以上である必要があります。

実際の原子炉では炉心から漏れて外へ出る中性子や燃料以外の構成物で吸収される中性子があり、η の値からこのようなロスを差引いても2個以上の中性子が残っていること、すなわちηの値が2よりできるだけ大きいほど増殖の可能性が高いと言えます。
ηが2を大きく超える中性子のエネルギーはウラン235では1MeV 以上、プルトニウム239では100keV以上の高速中性子領域です。中性子のエネルギーが高くなるほどηも大きくなりますが、ウラン235に比べてプルトニウム239はより大きな余裕をもっていて、増殖するのに有利です。

したがって、プルトニウム239を高速中性子で核分裂反応をおこさせる原子炉が増殖に最も適しています(高速増殖炉)。

現在原子力発電の主流になっているウランを燃料とする軽水炉は、減速材(軽水)でエネルギーを低くした中性子(熱中性子)で核分裂連鎖反応をおこさせるしくみであるため、増殖比は原理的に1を超えないので、増殖は起こりません(転換比 0.6程度)。その他の重水炉、黒鉛炉などもまた熱中性子炉で軽水炉と同様、転換比は1以下です。

補足|

参考資料:高速増殖原型炉もんじゅ
https://www.jaea.go.jp/04/turuga/monju_site/page/history.html
https://www.jaea.go.jp/04/turuga/monju_site/

もんじゅは、1994年に初臨界しましたが、1995年に40%出力運転中に2次系ナトリウムの漏えい事故が発生して以降およそ14年間、運転を停止していました。2010年にゼロ出力での性能試験を再開し、運転再開を目指して東京電力福島第一原子力発電所の事故を踏まえた安全評価・安全対策などに取り組んでいました。その後、平成28年12月に「もんじゅ」の取扱いに関する政府方針が決定され、これに従い廃止措置に係る作業に着手、現在、平成30年3月に廃止措置計画が認可され、第1段階の燃料体取出し作業を行っています。

もんじゅ廃止措置計画等の認可

高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)は「もんじゅ」廃止措置計画及び原子炉施設保安規定の変更を原子力規制委員会に申請し、平成30年3月28日に原子力規制委員会から認可されました。日本原子力開発機構は、平成30年4月1日に敦賀廃止措置実証部門を新設、もんじゅとふげん(新型転換炉原型炉)の安全確保を最優先に、廃止措置を着実に実施することになっています。

|臨界

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_714.html

臨界は核分裂連鎖反応において体系内の中性子の生成と消失の均衡が保たれている状態をいいます。
有限の大きさの原子炉では、体系の表面からの中性子の漏れがあり、これを考慮した中性子増倍率を実効増倍率 (k−eff)といいます。臨界のとき、実効増倍率 (k−eff)は1です。

通常、臨界というときには即発中性子と遅発中性子の総量について考慮します。
臨界に達するのに遅発中性子が必要なことを強調するときには遅発臨界といいます。
これに対し、即発中性子のみで臨界になることを即発臨界といいます。

臨界に達しない状態を臨界未満又は未臨界といい、臨界を超えた状態を臨界超過又は超臨界といいます。原子炉が臨界になるにはある程度の核分裂物質の量の大きさが必要で、それは燃料や減速材の性質、幾何学的配置などに依存します。

|フェルミのグループによる世界最初の原子炉CP-1

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_16-03-03-12.html

一部を抜粋します。詳細は、原子力百科事典ATOMICAのリンク先を参照してください。

人類最初の原子炉 CP-1(Chicago Pile-1)は1942年フェルミの指導の下に建設・起動されました。

ヒットラーの台頭によって、アインシュタイン、フェルミ、ボーア、シラード、フリッシュなど、優れたヨーロッパの物理学者がヒットラーの迫害を逃れるために米国に渡り、これらの渡米した人々はヒットラーが原子爆弾を独占し世界を支配することを極度に恐れていました。

これらの優れた学者達に米国の若手の学者、技術者が協力しました。米国の工業力と経済力がこれを支えます。1940年以降、秘密保持のため原子力開発に関係する研究報告は非公開となりました。

その原子炉 CP-1 は最初の計画ではシカゴ郊外のアルゴンヌの森の中に建設されることになっていましたが、建物の完成を待てなかったため、シカゴ大学のフットボール場のスタンドの下を利用した建設が急ピッチで進みました。その原子炉の断面図は最大 7.36 m の幅を持つ 楕円形をしていて、短いほうの半径が 3.09 m、長いほうの半径が 3.68 m という規模のものでした。

1942年11月4日に炉の組み立てが始まり、一か月後の12月2日に試運転が行われました。

CP-1 の見取り図(図4)|原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/pict/16/16030312/04.gif

※ CP-1 の見取り図(図4|原子力百科事典ATOMICA)で左側に描かれた人物がロープを引いて動かそうとしているものが、カドミウムの制御棒です。
一方、天井から吊り下げられて原子炉の手前にある3本の棒状のものが、中性子束測定用検出器です。

「マンハッタン計画」に関する引用で後述する様に、その 1942年12月2日(それは、真珠湾攻撃のあった1941年12月8日からおよそ1年後の事でしたが)、フェルミの指揮下で、天然ウランと黒鉛からなる人類最初の原子炉 CP-1(Chicago Pile-1)が初臨界を達成します。

その試運転には、原子炉の開発に参加した43人が立ち会いました。
フェルミを始め、コンプトン、シラード、ウィグナー、ジンなどの有名な学者もその中に含まれていました。試運転はフェルミの総指揮の下に行われました。

その初臨界に達したときの様子を、フェルミの助手を務めたアンダーソンの手記から引用したものです。

アンダーソンの手記(抜粋)

カドミニウムの制御棒は一段一段ゆっくりと引き抜かれた。
−−−−− 最終段階に到達したとき、次の段でフェルミは原子炉が臨界に達する確信を得た。

カドミニウム棒を必要な位置まで引き出したとき、中性子強度の増加は目に見えて早くなった。最初、計数管の音はチクタク、チクタクと聞こえていたが、この音は急速に増え、しばらくするとゴウゴウとうなるような音になった。

計数管はもはやこれに追随できない。

この瞬間グラフを描くスイッチが入る。すべての人は急に押し黙り、記録のペンが山なりに振れるのをじっと見つめた。それは恐ろしいような沈黙であった。だれもがスイッチの意義を理解していた。あまりに高い強度の領域を相手にしているので、もはや計数管はこれ以上対応できないのである。

何度も何度も記録計の目盛りを切り換えねばならなかった。ますます急増する中性子の強度に呼応する必要があったからである。

急にフェルミが手を上げた。そして、”炉は既に臨界に達した。”と宣言した。

そこにいる人はだれもそれを疑わなかった。そして、どうしてフェルミが炉を停止させないのかと皆がいぶかり始めた。しかし、フェルミは全く冷静そのものだった。彼はそのあと1分、そしてまた1分待った。

皆の心配が頂点に達したように見えたとき、彼は命令した。

”ジップをおとせ。”

ジンがジップのロープをゆるめた。制御棒が落下して炉に挿入され、中性子の強度は突如として低下した。
−−−−−  だれも笑わなかった。だれもが興奮していた。彼らは歴史の中の偉大な瞬間の証人となったのである。

ジョリオのグループによる核分裂中性子の発見と原子炉の考案

原子炉を最初に考案して設計したのは、フランスのジョリオ(Frederic Joliot、1900〜58、イレーヌ・キュリーの夫)のグループです。

ジョリオとその共同研究者のハルバン、コワルスキーは、ウランが分裂するたびに次々に中性子が発生し連鎖反応を起こしながら、中性子が遠くまで拡散していくことを明らかとして、1939年4月に分裂によって発生する中性子が2個以上あり、中性子源がなくても連鎖反応が自立することを確認しました。

彼らの考案した原子炉は1939年5月1日にスイス特許233011号として発効されました。

考案された原子炉(図1)|原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/pict/16/16030312/01.gif

その概要は以下の通りです。

1)燃料|天然ウラン板

低エネルギー中性子が入射すると、ウラン235(0.7%)が高い確率で核分裂を起こす。

2)減速材|重水

重水は中性子をほとんど吸収することなく、散乱によってそのエネルギーを下げる。重水中を拡散してきた中性子は、エネルギーが十分に下がっているので、燃料に入射すると高い確率で核分裂を起こす。

3)制御材|カドミニウム板

カドミニウム板は表面に入射した低エネルギー中性子をほとんど吸収する。ウラン板の代わりにカドミウム板が炉内に入ると連鎖反応は停止する。

4)冷却材|CO2 ガス

CO2の炭素および酸素は中性子をほとんど吸収しない。

当時、これら主要材料のうち、重水だけが入手困難でした。大量の在庫はノルウェーのものが唯一でした。ヒットラーもノルウェーの重水を接収しようとしていましたが、ジョリオらはそれに先んじてノルウェーの重水をフランスへ運ぶことに成功しました。

しかし、第二次世界大戦において、ヒットラーの支配するドイツは、1940年の春に、デンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略しダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐したことから、フランスにおける原子炉の建設は不可能となりました。

ハルバンとコワルスキーは重水を持って英国へ渡りました。一方、ジョリオはフランスに残ってヒットラーに対する抵抗運動に参加しました。

その後、1944年、ヨーロッパの連合軍はついにフランスに上陸します。

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※付加情報|

|エンリコ・フェルミ

エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi、1901年9月29日 – 1954年11月28日)は、イタリア、ローマ出身の物理学者です。

統計力学、量子力学および原子核物理学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験で新規の放射性同位元素を数多く作りました。

1938年に37歳でノーベル物理学賞を受賞しています。このころイタリアはベニート・ムッソリーニのファシスト政権下にあり、妻のラウラ・カポーネがユダヤ人であったため、ユダヤ人排撃の動きが強まる中、フェルミはアメリカの大学からの招聘依頼を獲得し、国外移住を決意しました。

そしてノーベル賞授賞式出席の為イタリアを出国し、ストックホルムで賞を受け取ったのち、そのままアメリカに移住しました。その後、マンハッタン計画に参画し、世界初の原子炉の運転に成功します。

フェルミは、「核時代の建設者」、「原子爆弾の建設者」とも呼ばれました。

CP-1(Chicago Pile-1)が初臨界を達成した1942年12月2日から12年後の 1954年11月28日に、フェルミはがんのため死去しました。
享年53歳という早すぎる死でした。

|フレデリック・ジョリオ=キュリー

ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie、1900年3月19日 - 1958年8月14日)は、フランスの原子物理学者です。

妻はイレーヌ・ジョリオ=キュリー。義母はマリ・キュリー、義父はピエール・キュリー、義妹はエーヴ・キュリーです。

1925年、ラジウム研究所でマリ・キュリーの助手となり、そこで彼女の娘であるイレーヌと知り合いました。2人は翌1926年に結婚します。

そして、その際、姓を2人の旧姓を組み合わせた「ジョリオ=キュリー」としました。

1934年に妻イレーヌと共に、アルミニウムへアルファ線を照射することによって世界初の人工放射性同位元素であるリン30 (Phosphorus-30, 30P) の合成に成功し、これにより1935年に夫婦でノーベル化学賞を受賞しました。
ジョリオが35歳の時です。

第二次世界大戦の戦時中はレジスタンス運動に参加しましたが、戦後はフランス国立科学研究センター総裁に就任すると共にフランス原子力庁長官となり、コレージュ・ド・フランスの教授を務めました。1947年には、フランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功します。1956年にイレーヌが亡くなると、彼女のパリ大学教授の職も兼任しました。

1958年に白血病で死去。享年58歳でした。それは妻イレーヌの死から2年後のことでした。

参考資料:Wikipedia

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|マンハッタン計画

参考資料:原子力百科事典ATOMICA
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_16-03-01-09.html

マンハッタン計画とは、第二次大戦中の米国の原爆開発・製造計画をいいます。

1938年暮のドイツにおけるウランの核分裂発見を契機に、米国内各地の大学や研究所でも核分裂に関連する研究が一斉に開始されました。

1939年秋に第二次世界大戦が始まると、ドイツで原爆研究が開始されているという情報がもたらされ、ドイツが先に原爆を手にすれば世界がファシズムに制されるとの危機感が高まりました。

こうした危機感を背景に米国でも原爆研究が始まり、1942年9月には本格的な国家軍事プロジェクト、すなわち「マンハッタン計画」(Manhattan Project)へと発展していきました。

その後原爆開発は急速に進み、巨大なウラン濃縮工場がテネシー州オークリッジに、またプルトニウム生産用の原子炉と化学分離工場がワシントン州ハンフォードに建設されました。これらの巨大施設は1944年秋から翌年春にかけて次々と完成し、原爆の原料となる高濃縮ウランやプルトニウムの生産を開始します。

一方、原爆の設計開発と製造は、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所で進められました。1945年7月16日にプルトニウムを原料とする最初の原爆が完成し、ロスアラモスから南に約300km離れた砂漠の地アラモゴードで人類初の核実験が行われた。こうして1945年8月6日に高濃縮ウランを用いた原爆リトルボーイが広島に、またその3日後の8月9日にはプルトニウムを用いた原爆ファットマンが長崎に投下されました。

1.核分裂の発見とその影響
ウランの原子核に中性子線を当てると二つに分裂する現象、すなわち核分裂が1938年暮、ナチス政権下のドイツでオットー・ハーンらによって発見されたという衝撃的なニュースは、翌年の1939年1月中頃に学会参加のため渡米したデンマークの原子物理学者ニールス・ボーアによって米国の関係者に伝えられました。

その伝聞は直ちに米国中に広まり、各地の大学で核分裂に関する研究が一斉に開始されます。

イタリアの物理学者エンリコ・フェルミは、1938年12月にストックホルムでノーベル物理学賞を受賞したが、夫人がユダヤ人であったため、ムッソリーニ政権下の母国を棄て、家族とともにそのまま米国に亡命しました。

米国到着後まもなく核分裂発見のニュースが伝わり、彼は、コロンビア大学に招聘され核分裂の研究に取りかかりました。フェルミやハンガリーからの亡命科学者レオ・シラードらの実験で、ウランの核分裂で新たに2個以上の中性子が発生することが確認され、核分裂の連鎖反応の可能性が明らかになると、核分裂研究はにわかに軍事的重要性を帯び始めました。

連鎖反応を利用すれば、核分裂で発生するエネルギーを大量に取り出すことができるからです。

その原理を強力な爆弾、すなわち原子爆弾として利用できる可能性が明らかになってきました。

核分裂が発見された当時のドイツは科学の最先進国であり、ハイゼンベルクを筆頭に原子核研究に携わる優秀な科学者が大勢いました。1939年9月、ポーランド進攻で第二次大戦が火ぶたを切ると、ドイツは旧チェコスロバキアのウラン鉱山を手中に収め、ウランの輸出を禁止する措置を講じました。

こうした状況と、ドイツでウランの核分裂連鎖反応の研究が開始されているという情報から、連合国側の科学者達は、ドイツが原爆開発を始めているに違いないと考え始めます。

特にナチスの手を逃れて米国に亡命したレオ・シラードやユージン・ウィグナーなどのユダヤ系科学者は、ドイツが先に原爆を手中に収めれば全世界がファシズムに支配されてしまうという危機感を強く抱きました。

彼らは、そうした破局的な事態を避けるためには、米国が是非先に原爆を完成させなければならないと真剣に考え、彼らは、ドイツを追われアメリカに移住していたアインシュタインを訪れ、彼の名前で核分裂研究への国の支援を促す手紙を書き、ルーズベルト大統領に送付しました。

ドイツのファシズム支配への危機感は、ユダヤ系の亡命科学者にとどまらず、放射線や原子核物理の研究にかかわっていた米国の科学者の間にも広まっていきました。

特に、サイクロトロンの発明で1939年にノーベル物理学賞を受賞したカリフォルニア大学バークレイ校のアーネスト・ローレンスや、ガンマ線と電子の相互作用に関する研究で1927年にノーベル物理学賞を受賞したシカゴ大学物理学部長アーサー・コンプトン、ワシントンのカーネギー研究所長バネバー・ブッシュ、ハーバード大学総長ジェイムズ・コナントら米国科学アカデミーの主要メンバーは、国防への科学研究の貢献の重要性を強く認識しはじめていた。

彼らはワシントンのブッシュを通じ大統領に直接働きかけ、1940年6月国防研究委員会を組織し、さらに1年後には科学研究開発局を設置し、原爆研究への政府の支援と関与を強化していきました。

2.マンハッタン計画
こうして1942年9月に、米国の原爆開発は「マンハッタン計画」として本格的な国家軍事プロジェクトとなったのですが、その前年に起きた二つの出来事がそうした政府の決定を促す大きな要因となったといわれています。

その一つは、ドイツから英国に亡命した二人の科学者、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの提言をもとにした、MAUD委員会報告(英国、原爆フィージビリティ検討委員会の暗号名:Military Application of Uranium Disintegration)と呼ばれた英国政府の調査報告書が1941年夏に米国に手渡されたことです。

この報告書は、初めてウラン235を用いた原爆の具体概念を提示し、また天然ウラン中に0.7%しか含まれないウラン235の濃縮法を示すことにより、原爆の実現の可能性を明らかにしました。ウラン235の濃縮法については、既に米国でも、重水の発見でノーベル化学賞を受賞したコロンビア大学のハロルド・ユーリーらがガス拡散法や遠心分離法についての研究を開始しており、またカリフォルニア大学のローレンスは、サイクロトロンの原理を応用した電磁分離法の研究を進めていました。

もう一つの出来事は、1941年春、カリフォルニア大学バークレイ校で、グレン・シーボーグらが、中性子照射したウラン中に生成するプルトニウムの分離に成功し、さらにそれがウランと同様に核分裂を起こすことを確認したことでした。この発見により、天然ウランの核分裂連鎖反応炉(すなわち原子炉)でプルトニウムを生産し、それを化学分離することによっても原爆を作ることが可能となりました。

こうして同年7月、コロンビア大学のフェルミらは、黒鉛と天然ウランからなる体系での核分裂連鎖反応に関する本格的な研究を開始しました。

これらの研究が進む中、1941年12月、科学研究開発局のブッシュは関係者をワシントンに集め、原爆に関する研究開発の目標明確化と体制強化を図りました。

ウランの濃縮法に関しては、ガス拡散法、電磁分離法、および遠心分離法の3種類の方式の開発を進めることとし、それぞれ、コロンビア大学のユーリ、カリフォルニア大学のローレンス、およびスタンダード・オイル社の研究者エジャー・マーフリーが責任者となりました。

原爆に関する設計研究と、新たに有望なオプションとなってきた連鎖反応炉によるプルトニウム生産に関する研究はシカゴ大学のコンプトンが指揮をとることとなりました。

折しも日本軍のハワイ真珠湾攻撃(1941年12月)により米国自身も第二次大戦に加わることになり、軍事研究の優先度は一層高くなっていきました。

年が明けてまもなく、コンプトンは、それまでコロンビア、プリンストン、シカゴの3大学に分散していた連鎖反応に関する研究をシカゴ大学に集約し、「冶金学研究所」(Met Lab.Chicago’s Metallurgical Laboratory)を発足させました。

こうしてフェルミやシラード、ウィグナーらがシカゴ冶金学研究所に結集し、連鎖反応に関する研究や、プルトニウム生産炉の概念の検討に拍車がかかります。また、カリフォルニア大学バークレイ校からシーボーグらもシカゴに招聘され、プルトニウムの分離研究も本格化しました。

そして1942年12月2日、フェルミの指揮下で、天然ウランと黒鉛からなる人類最初の原子炉 CP-1(Chicago Pile-1)が初臨界を達成しました。

原爆の製造は、単なる研究にとどまらず、様々な大型施設の建設と運転が必要となることから、科学研究開発局のブッシュらは、これを陸軍の建設プロジェクトとして推進することを大統領に提言し、1942年6月に大統領はそれを了解。

こうして、9月にはその実質的な推進責任者として、巨大な国防省ビル(ペンタゴン)の建設に手腕を振るったレスリー・グローブズ准将(後に将軍)が指名され、彼の強力な指揮下で原爆開発は本格的な国家プロジェクトとして急速な進展を始めました。

この計画推進の事務所がニューヨークのマンハッタンに設けられたことから、この計画推進組織は「マンハッタン工兵管区」と呼ばれ、計画そのものは「マンハッタン計画」と呼ばれることとなったのですが、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理が行われる一方、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入されました。

最終的には延べ60万人(ピーク時雇用約13万人)と約20億ドルの国家資金が投入され、この計画の存在についてはルーズベルト大統領や陸軍長官のヘンリー・スティムソンら限られた関係者のみに知らされており、議会への報告などは一切行われなかったといわれています。

3.原爆の製造
グローブズは、就任すると直ちにコンプトンやローレンス、ユーリーらから開発状況を把握し、各種プラントの建設に必要な民間企業の協力とりつけや用地の買収など、計画の立ち上げに奔走しました。

プルトニウム生産関連施設の設計・建設はシカゴ冶金学研究所の協力のもとで化学会社デュポン社が担当。

CP-1が初臨界を達成した2ヶ月後には、テネシー州オークリッジ(Oak Ridge,Tennessee : SITE-X)で、プルトニウム生産実証用の原子炉X-10と化学分離パイロット・プラントの建設が始まった。

原子炉は1943年11月初臨界を達成し、その年末には燃焼済みのウランからグラム・オーダーのプルトニウムの回収試験が開始されました。オークリッジでのこうした成果が出る前の同年6月には、ワシントン州ハンフォード(Hanford,Washington : SITE-W)で本格的なプルトニウム生産炉と化学分離回収工場の建設が開始され、これらは1944年秋から翌年春にかけ次々と完成し、原爆の原料となるプルトニウムの生産を開始しました。

電磁分離法によるウランの濃縮に関しては、カリフォルニア大学のローレンスの指導のもとでストーン・アンド・ウェブスター社が設計建設を担当し、1943年春からY-12と呼ばれた工場群の工事がオークリッジで開始されました。主要工程は巨大な電磁石を楕円形に配列したカルトロン(184inchサイクロトロン)と呼ばれる電磁イオン分離装置( 図5 参照)で、電磁石はミルウォーキーのアリス・チャルマー社で製造されました。工程の一部は1943年末に完成したが、その後いろいろなトラブルや障害にあい、全体が完成し、安定した運転ができるようになったのは1945年春ころからでした。

一方、ガス拡散法によるウラン濃縮工場は、化学プラント・メーカーのケロッグ社が専用の子会社ケレックスを作って担当し、オークリッジに1943年秋から建設を開始した。K-25と呼ばれるこの工場は、地上3階、地下1階建てで、長さ約800m、幅約400mのU字型配置の巨大な工場で、1945年春から部分運転に入り、夏には全操業に入りました。

ガス拡散法による濃縮工場は一時目標期日までの完成が危ぶまれたため、熱拡散法による濃縮工場S-50の建設も急遽進められ、これも1945年夏には完成しました。

こうして、1945年6月ころからS-50とK-25で低濃縮ウランを生産し、それをY-12で高濃縮ウランに仕上げるという方式が確立し、7月中旬までに原爆に必要な量の高濃縮ウラン生産に成功した。

原爆の理論研究は、コンプトンの指揮下のシカゴ大学で、グレゴリー・ブライトや、カリフォルニア大学バークレイ校のロバート・オッペンハイマーらによって1942年始めころから開始されました。

マンハッタン計画が本格化すると、原料生産の拠点としてのオークリッジやハンフォードと別に、原爆の研究開発と製造を集中的に行う研究所の設置が必要となりました。

こうして、1943年3月、ニューメキシコ州の人里から隔離された台地にオッペンハイマーを所長とするロスアラモス研究所(Los Alamos,New Mexico : SITE-Y)が設立され、エドワード・テラーやハンス・ベーテ、リチャード・ファインマンなどの第一線級の科学者が多数集められました。

ロスアラモス研究所は、1945年夏には1300人の科学者及び技術者を含む約6700人の研究組織に膨れ上がります。彼らは、その家族も含めて移住し、郵便物の検閲、名前の変更など外部との接触は厳しく制限されましたが、戦争勝利のための重大任務を遂行するという意識と、オッペンハイマーの優れた指導により、極めてモラルの高い研究者社会が形成されました。

1943年暮からは、米英の協力協定に基づき、英国からオットー・フリッシュら20名以上の研究者がロスアラモスの原爆研究開発に合流し、ドイツに併合されたデンマークを脱出して英国に渡ったニールス・ボーアも重要メンバーの一人としてロスアラモスに滞在しました。

原爆の型式については、当初「砲弾型」(Gun-type)とよばれるものの研究が中心であったが、プルトニウムの場合この型式が適用できないことが判明し、「爆縮型」(Implosion-type)という方式が考案され、後半はその研究に力が注がれました。

1945年7月16日にプルトニウムを原料とする最初の爆縮型原爆が完成し、ロスアラモスから南に約300km離れた砂漠の地アラモゴード(Alamogordo)でトリニティ(Trinity)実験と呼ばれた人類初の核実験が成功裏に行われた。

4.原爆投下
プルトニウム生産が始まり原爆製造の目処がたち始めた1945年4月12日、ルーズベルト大統領が急逝し、副大統領のトルーマンが新大統領に就任。トルーマンは、大統領に就任してはじめて陸軍長官スティムソンからマンハッタン計画の詳細を知らされた。

5月には原爆開発の関係者が競争相手として恐れていたドイツが降伏し、原爆の役割は日本を降伏させるための切り札的存在へと変っていきました。

科学者の中には原爆使用の反対はあったものの1945年8月6日に高濃縮ウランを用いた砲弾型原爆リトルボーイ(Little boy)が広島に、またその3日後の8月9日にはプルトニウムを用いた爆縮型原爆ファットマン(Fat man)が長崎に投下されました。

この2都市は原爆により、一瞬にして文字通り灰燼に帰し、多くの命が失われました。

これを機に日本国政府は無条件降伏を求めるポツダム宣言受諾を決意し、8月15日に終戦を迎えたのです。

※以上は原子力百科事典ATOMICAからの引用です。

原子力百科事典ATOMICAにおける原著において列記されている参考文献は、この note での引用では省略させていただきました。原著を参照してください。

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|原子爆弾の投下によって失われた命の数

1. 広島市
参考資料: https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/48/9400.html

放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計(※広島市による)。
爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が亡くなられた。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が亡くなられたと推定。

2. 長崎市
参考資料: http://city.nagasaki.ajisai-call.jp/faq/show/3705?site_domain=default

死者 73,884人 負傷者 74,909人
(1945年12月までの推定 長崎市原爆資料保存委員会調査による)
67町が焼失 半径1050m以内に遮蔽物がないところの致死率はほぼ100%

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|核分裂の発見にまつわるもう一つの物語

ご興味があるかたは、より専門的に1939年当時の核分裂発見に至る論文を和訳した形で、それでも優しくかみ砕いてお話しくださっている下記の科学読み物を読んでみるのもいいのではと思います。

サイエンスよみもの|核分裂発見80周年
混乱,高揚そして沈黙までの7年間

吉田 正, 核分裂発見80周年, 日本原子力学会誌ATOMOΣ, 2019, 61 巻, 12 号, p. 852-856, 公開日 2020/04/02, Online ISSN 2433-7285, Print ISSN 1882-2606, https://doi.org/10.3327/jaesjb.61.12_852, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/61/12/61_852/_article/-char/ja
「80年の時を経た今となっても,核分裂発見の物語は分かりにくい。ここで扱う両大戦のあいだの7年間(1934〜1940年)はナチスの全権掌握から開戦までの苛烈な時代に一致し,発見に至る経緯はこの時代背景ぬきには理解しにくい。いつ,誰が,どう決定的なことを成したのかに焦点をあわせ,核分裂の発見という現代の我々にも計り知れない影響を与えた出来事を,人々の果たした役割や時代推移の節目ふしめに注意を払いながら見てゆく。」

ワタシの印象に残ったのは、まだ平和だった時代の共同研究者ハーンに、マイトナーが送ったちょっとしたメールです。

ハーンとマイトナーは同じ学会(というのかな?)、「カイザー・ウィルヘルム・ゲゼルシャフト」に所属していて、その学会は戦後「マックス・プランク・ゲゼルシャフト」に改組され、ハーンはその初代会長となりました。

マイトナーが1969年に89歳で亡くなる50年前、38歳の時、そのマックス・プランクの自宅に招かれたときのことです。マイトナーがハーンとともにプロトアクチニウム231(Z = 91)を発見したばかりの頃でした。

手紙を引用します。

ハーン様

昨晩はプランク先生のお宅に伺いました。

(家庭音楽会の)演目は,シューベルトとベートーベンの三重奏。
見事でした。
バイオリン(を弾いた)のはアインシュタインでした。。

ハーンはマイトナーが亡くなる3か月前、1968 年10月にマイトナーと同じ89歳で生涯を閉じました。甥のフリシュはハーンの死を叔母にあえて伝えなかったといいます。

ハーンの1944年のノーベル賞化学受賞に関しては、核分裂の発見に対するマイトナーの貢献を、当時の情勢の中、一切否定したハーンの態度やノーベル化学賞に物理学者の受賞を想定(優先)しなかった当時の選定のやり方などに批判もあるようです。

イノベーションテクノロジーの隆興を見るときのその方向に向けた科学者たちの執念とすさまじいスピードによくある華やかでまるで鳳凰が飛び立つときの羽ばたきのような風圧のある空気感が感じられると同時に、ひととして、科学者として生きるためには、後悔さえ忘れなければいけないような、なんとも辛い時代であったことが窺えます。

山口青邨先生が、その革新技術の夜明けを、「春の闇」と詠った当時、ドイツに残った科学者、アメリカに亡命した科学者、彼らもまた、それぞれの祈りにも似た歌をどこかで奏でたのかもしれない。そう思いました。

マイトナーが元の共同研究者ハーン教授とシュトラスマン教授と一緒に1956年の式典で話している写真がありましたのでその記事をリンクしておきます。

1956年にマインツのマックス・プランク・ゲゼルシャフトのオープニングでフリッツ・シュトラスマン教授(左)とオットー・ハーン教授と会話しているリーゼ・マイトナー。ullsteinbild / Getty Images

4 women whose work won the Nobel Prize for their male colleagues|Medical News Today March 19, 2021

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|最新の科学的知見がオープンデータであることの重要性

前述の引用の通り、プルトニウム生産が始まり原爆製造の目処がたち始めた1945年4月12日、ルーズベルト大統領が急逝し、副大統領のトルーマンは新大統領に就任してはじめて陸軍長官スティムソンからマンハッタン計画の詳細を知らされました。その後、引き続き秘密裏にマンハッタン計画は進行して、1945年7月16日にプルトニウムを原料とする最初の爆縮型原爆が完成します。ロスアラモスから南に約300km離れた砂漠の地アラモゴード(Alamogordo)でトリニティ(Trinity)実験と呼ばれた人類初の核実験が成功裏に行われました。

一方、1945年5月には原爆開発の関係者が競争相手として恐れていたドイツが降伏し、原爆の役割は日本を降伏させるための切り札的存在へと変っていくと同時に、ALSOS Mission(アルソスミッション)が決行されていきます。

ALSOS Missionは、英国と米国の軍事、科学、および諜報要員のチームによって主催され、敵の原子力プロジェクトおよび化学兵器と生物兵器の発展を発見する目的の任務でしたが、その ALSOS Mission のメンバーによって、オットー・ハーンと、マックス・フォン・ラウエ、ヴェルナー・ハイゼンベルク、カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツサッカーを含む他の主要なドイツの物理学者は、拘留され、1945年7月から1946年1月までイギリスのゴッドマンチェスターのファームホールに抑留されました。

ファームホールで、ドイツの科学者たちは、広島と長崎にアメリカの原子爆弾が投下されたことを知りました。ハーンは、核分裂の発見が何万人もの無実の日本人の死と苦しみにつながったと感じ、絶望の危機に瀕していたといいます。

(でも、付け加えると、ハーンは第一次世界大戦にも従軍していてその際、毒ガス兵器の開発に関わっていた人なので、絶望するのはこれが最初というわけではないかもしれません。推測ですが...。兵士ではなく一般の市民が大量に死んだことに対しては、ハーンを含むすべての科学者が慚愧の念に堪えない気持ちにはなったことでしょう。とても悲しい出来事でした。1939年というタイミングで発見された核分裂を、神の与えたもうた賜物とは言えないとしても、一体、誰の仕業ということができるでしょうか。)

参考資料:Otto Hahn Nuclear Chemist, Germany|Atomic heritage foundation https://www.atomicheritage.org/profile/otto-hahn

参考資料:Wikipedia

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ここからは推測になりますが、
おそらく、資料は事実としてあるとは思いますが、ドイツの科学者を「ソビエト連邦に渡さないために」拘束、連行し様々な情報を得たアメリカ合衆国と英国の部隊および「国家」は、その7月の時点で核弾頭を保有している国は、おそらく、アメリカ合衆国だけであることが可能性としては高いことを確信していたのではないでしょうか。

戦争下という特殊な状態だったことは理解できますが、いくら疑心暗鬼になっていて敵から核爆弾を落とされるかもしれないという懸念から、核爆弾の開発を秘密裏に勧めていたとしても、彼らには、もう一つの選択肢があったのではないだろうか、とワタシは空想するのです。

確かに1945年の時点で、原子力を用いた兵器の開発に関しては、各国が各国に対してドン・キホーテのように春の闇を見ていた。そこには風車しかないのかもしれないのに、巨大な怪物を見ていた。

でも、彼らは(米国のマンハッタン計画におけるロスアラモス研究所とその関連施設は)ウランの濃縮、プルトニウムの分離、そして核爆弾の開発において、全人類で一番になったのです。

なぜ、それを、例えば、Nature などの科学雑誌に速報として掲載しなかったのだろうか。

たった2行の速報でいいのだから。

ウランの濃縮とプルトニウムの分離に成功した。ウランとプルトニウムを原料とする原子爆弾の製造が完了した。ロスアラモス研究所とその関連施設 1945年7月

日本には英語だってドイツ語だって読める科学者がいました。科学雑誌における2行の速報を読めば理解できる科学者がいた。

そのオープンデータが書かれたなら、もしかしたら、当時44歳であらせられた昭和天皇もまた、その「Nature」にかかれた2行のレターをお読みあそばされたかもしれない。

それで1975年7月に戦争が終わるとは、当時、だれも考えなかったのだろうか、そんな風に思ってしまうのです。

戦争とは、本当に特殊な状態なのだな、と思います。

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徒然(いい加減に書いているので根拠のない人物描写をしまーす):

今回、「ハーン、シュトラスマン、マイトナー、フリッシュによる核分裂現象の発見」について少し調べて詳しくなって、もちろん、本人を知っているわけではないけれど、ハーンとマイトナーの生い立ちや分岐点での立場やその時のふるまいをざっと文献で読んで、ああ、こういったプロフィールの人たちだろうなーって勝手に(自分の、企業のR&Dにいた頃や、学生時代の薬学部でとか、学会での)人間観察の延長で、思ったのです。

結論から言うと、おそらく、ハーンという化学者は、典型的な化学(ばけがく)の人で、ものとり(分取)屋さん。

静かに実験室に座っている、プラッテには何本か、白い粉体やら結晶やらが瓶に入って並んでいる。

実直にものを収集する人(コレクター)で、仕草は優し気です。多くの友人は、彼を大人しく優しい友達だと言うでしょう。

ただし、権威筋や強面の方にちょっとだけ「おい、こーしろ!あーしろ!」と言われた途端、(優しい性格の人だと思い込んでいたこっちから見ると)「ウゲー( ゚Д゚)」となるような残酷で非情な裏切りの行為を何の葛藤もなく感情も見せず速攻で実行して、虎の威を借るキツネのようにうまいポストに収まり、権力のトップの椅子につく。

決して、バケモノのような顔はせず、いつまでも、静かに大人し気に上機嫌に優しく微笑んでいる。あの微笑は単なる顔の筋弛緩で、慈悲深さに由来しないのだなーと初めて気づいたときの驚愕( ゚Д゚)。

第1級の化学者を、人事管理の緩すぎる某製薬会社の、単なる素人同然の科学分野で合格点が取れない俗な「なんちゃって化学者・分取屋」と同レベルで語ることは間違っているのは承知の上で語ると、そうですね、例えば3人兄弟の末っ子で上2人がお姉さんのような、お得感と虚栄心と独占欲のある甘え上手の媚び上手なバランス感覚の人物像が想像できます。

それでも、マイトナーが亡命のためベルリンを立つところを見送りに行って、彼女と最後のお別れのハグをしているハーンの背中から伝わってくる何らかの不条理感、無常感がワタシにはかすかに理解できてその寂しげな背中が、人間の背中そのものであるように見える。

マイトナーは、オーストリア ウィーンの文化的な環境下で、ユダヤ人の弁護士の家に生まれ育ち、ウィーン大学を優秀な成績で卒業して、ベルリンで苦労の末、ハーンの共同研究者になった経緯があり、当然、生まれて成人を迎えるまで、敬虔な態度を重んじ、思いやりが深く理性が高く、知的で文化的でカタイ人たちしか、周りにいない環境で育っているので、少し、自分の財産を人と共有することに対する、ナウい感じの警戒心とかセキュリティ管理がない。育ちのいい、ロジカルで理知的な賢くて真面目で品の良いご婦人です。キレッキレの物理学者だったのでしょう。

彼女が絶対の規範であると常識的に思っていたことは、全て何もなくなってしまった。戦時下だったからです。

それでも、彼女の名前は、核分裂を発見した4名の名前のひとりとして永遠に歴史に刻まれる。

89歳まで生きたという、まぁ、あの時代、戦争を生き延びた人は、たいていは長生きしました。良い人生だったのでしょう。

第2次世界大戦の後、日本がアメリカ合衆国占領下におかれて、まるで、脊椎動物が背骨を引き抜かれて丁寧に骨を抜かれて、「それって、脊椎動物ですか?」という状態で独立して、今建国50周年くらいの国になっている。

日本の長い歴史による社会システム、経済的、統制的秩序が失われて、今の時代、単なる暴力嗜好性や病的殺人嗜好性を持つバケモノが、周りに普通にあるはずの社会的防御のセーフティネットが存在しないままに、弱い者いじめのようなノリで、いきなり襲いかかる。薬物中毒者のような輩が働かなくても食べていけるのか24時間、365日、暇つぶしにビデオでも見るくらいの認知で、何の因縁もない人間を「国立大学出を虐待」だとか「博士をいじめる」だとか言って享楽のために襲う。警察は、一般市民の上品な大人しい女性に対して、重罪の犯罪者にするような態度で、口をへの字に曲げてにらみ威嚇しながら「証拠がない」などと得意げに人をじろりとねめつける。治安のために訓練されていないのだろう。

茨城県に大学卒の学歴で住むことは危険が非常に多い。住むために投資しても、その住む場所という財産が脅しと嫌がらせと盗難のターゲットになるだけなので、住むこと自体があり得ないことになってしまっている。脅せば、ただで住む家が手に入るとか、女性の持ち物を脅して盗みたいとか、平日の日中にそれだけをやっている異常なひとたちを誰も止めないのはなぜなのだろうか。

力尽きて50代で生きる機会を失う。残虐な戦後生まれは、自分に利益供与する人間以外は、同じ日本の人の未来をつぶすことにためらいがない。多すぎる。ひどい時代です。

脊椎がないのです。あるいは、何時代の🐊?が一斉に囲い込んでくる。

考えてみれば、日本が歴史ある国家だなんて幻想であるレベルになった。日本は建国50年の国。アメリカ合衆国が建国230年くらいだということは、遥かな尊敬に値する。

日本の歴史的建造物は残っているだけで、それは社会システムではない。

ワタシの祖父母の時代、親の時代が、日本の失われた「歴史ある国家」のレガシーの中で、その寿命を全うすることを人権として生きる環境として残され施された最後の世代だと、あらためてふと、また、思い返しました。

次世代には、次世代の適応の仕方があるのかもしれない。
祈るしか、ない。

閑話休題

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|中性子の測定方法とその原理

なお、中性子は物質と相互作用して電離する能力がないことから、速い中性子の場合は、原子核との弾性散乱をしてできる荷電粒子(H などの反跳核)を利用して測定します。

また、遅い中性子では中性子による核反応((n、p)、(n、α)など)に基づく荷電粒子を利用して測定します(特別な場合では(n、γ)もある)。

つまり、中性子(neutron)は非荷電の粒子線なので、それ自体は光りません💦

また、中性子検出器には、イメージングプレート、放射化箔、写真乾板などを使う時間積分型と、ガス検出器やシンチレーション検出器など中性子を1個ずつ計測する時間微分型の検出器があります。

中性子の検出には、中性子と物質との捕獲反応によって生成される荷電粒子が、捕獲物質とクーロン力により起こす相互作用を利用します。つまり荷電粒子が捕獲物質中で起こす衝突の産物として生成される励起原子あるいはイオン対を用います。

そして中性子の検出は、物質との相互作用によって起こる物理現象により、大きく 3 つに分けられます。

1. 電離作用を利用した検出

2. 発光現象であるシンチレーションを利用した検出

3. シンチレータと類似に入射放射線を光に変換
すぐには蛍光を発光せず、レーザーで刺激すると蛍光を発生する輝尽性蛍光体(イメージングプレート)

つまり、中性子科学の進歩は、新しい計測技術の開発と一体となってきた場合が多く、これは新しい現象の発見やその解明には新しい装置技術の存在が不可欠であることに他なりません。中性子検出器技術の開発はその典型的な例です。(※ref. 2)

※ref. 2 J-Stageより
曽山 和彦, 中性子検出器への入門, 波紋, 2009, 19 巻, 4 号, p. 242-245, 公開日 2018/04/13, Online ISSN 1884-636X, Print ISSN 1349-046X, https://doi.org/10.5611/hamon.19.4_242, https://www.jstage.jst.go.jp/article/hamon/19/4/19_242/_article/-char/ja, 抄録:
An introduction to neutron detectors that includes neutron detection principle, detector types, and how to choose a detector is described.

薬学生、薬剤師の皆さん向けの余談でした。。

山口青邨工学博士が、揺らめき立つ春の闇の奥に見た一筋の走る水は、果たして...
どの検出器による光だったのか。

気になります。🙄

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春の季語から、春宵、春灯、そして春の闇について、この一見全ての人にとって穏やかに春めき浮き立つ気分で暮れていくその日の風景の奥のさらに深く暗い闇を、山口青邨先生の優れた4つの短歌から学ばせていただいた、

今日はそんな日でした。

 風車春宵の闇に翼をひたし

| 風車まはり春灯その下に

 ドンキホテ春の闇より出づべくや

 一筋の水走りたり春の闇
              山口青邨

引用|
https://zassoen24.exblog.jp/page/10/

春の闇に一筋の水が走る。☢☣

春の闇という季語をワタシはこの春、初めて知りました。
青邨先生の句からは、その季語は、なんというか、中国4000年の文明を小さな島国に導入し2000年以上にわたって紡いできた日本人の文化と心と「春」とその先生の佇まいが圧縮された言葉として、私の中にある解凍アプリを通して徐々に伝わってきます。

そして、世界の人類が「核分裂」という学術用語をテキストとして初めて知ったのは、1939年2月10日の事だったのです。その日から人類はこの効率的に熱エネルギーを産生する革新技術を実証し、様々なことに応用していき、今の私たちはその実証と応用の結果と人類の辿った歴史を知っているから、この圧縮された言葉を80年の科学の歴史と共に解凍して理解することができる。

日本の言葉、俳句、季語の凄いところは、数千年に渡る様々な歴史と気持ちを数語の言葉に圧縮し、共通の文化レベルであれば、例えば、日本人ではなくてもアジア大陸の人にでも、俳句が好きなヨーロッパ大陸の人にでも届けられ解凍できるところです。

その圧縮解凍アプリは、自分で手に入れるしかないのだけれど...
日本人っていいな、って思いました。

この春の日の贅沢な時間を持たせてくださった山口青邨先生、
そして日本現代詩歌文学館 @shiikabun on Twitter & ホームページ https://www.shiikabun.jp/ の皆さまに感謝します。

どうもありがとうございました。

滝沢幸穂
"(-""-)"

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|スペイン政府観光局 @SpainInJapan さんの
ラ・マンチャの風車

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|都立浮間公園 @ParksUkima on Twitter さん
のオランダ風車(2021.1 - 2021.4)

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地球温暖化の影響か、都立浮間公園 @ParksUkima on Twitter 2021年1月12日【浮間公園情報🌨️】今朝の様子からは初春の予感が伝わってきます。

昭和14(1939)年、アムステルダムを発ってハーグへ向かわれた山口青邨先生がライデンを通過したのは、1月12日、夕方5時少し前。

オランダは冬、日本よりも日没が早いので、春宵の闇はいかほどのものだったのであろうかと思います。1月12日の日の入りはオランダでは17時頃。

「早春オランダに遊ぶ 四句」と前書のあるうちの最初の2句

  |風車春宵の闇に翼をひたし
  |風車まはり春灯その下に

ref. 雑草園さんのブログ 
https://zassoen24.exblog.jp/page/10/

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実は、春の季語「春の闇」を使って、ワタシ Mats(@YukihoTakizawa on Twitter, 滝沢幸穂)も、この春、気になっていた俳句・短歌、というか単に自由な短い詩なのですけれども、そんな雑💦な詩を読んでみたのでご紹介します。

ご照覧くださいませ😲

|ベネディクトゥスを歌うチェロの弓や、春の闇

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無題(いのち)

@YukihoTakizawa on Twitter


言葉出でで
祈り探しぬ

ベネディクトゥスを
歌うチェロの弓や

春の闇
明くれば

あめの音かな

地獄の蓋に花
紫に咲きたるは

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©2021松廼屋 All rights reserved. 滝沢幸穂

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古文はそんなに頑張った記憶が無くて(理系クラスだったので...)英語と同じくらいには、共起表現を調べたくなったりします。
今回、詩を作るにあたっても、古文の共起のサーチはざっくりやりました。

そして、思い出すというか(記憶にない。。)枕草子の有名な一節にたどり着き、春を伝えるには良い文章だなあと思って、表現の仕方を少しおさらいしました。わかっちゃうかなー💦

ご参考までに、清少納言中将のネイティブで流ちょうかつシャレオツな原文を抜粋して、ご紹介しておきます。スノビズムの極み。。

深読みし過ぎの感はありますが、それぞれの木と花が、唐時代の中国文明に遡る漢文と日本での主に貴族の由来などを包摂して、それぞれの家紋にデザインされたのはいつの時代の事でしょうか。

桐の木の花を語る清少納言中将のプレゼン能力には感動を覚えます。
さすがネイティブです。高級官僚らしい嫌味のない上品なスノッブはやはり古典の最高峰ゆえなのでしょう。
この文章は学校で習うらしいです。記憶にはありません。

ところで、桐の木の葉と花をデザインした紋章をご存知ですか。

桐花紋(とうかもん)|室町幕府など、小判などの貨幣に刻印されました。これ以来、室町幕府のほか皇室や豊臣政権など様々な政権が用いているデザインです。現在は日本国政府の紋章として用いられる。
十大家紋のひとつです。(Wikipediaより引用)
五七の桐

500円硬貨にも桐花紋

画像1

枕草子の「木の花は」、
勉強になりました。(数分のお勉強。。。頑張った(;´∀`)。。)

古典におけるスノビズムな表現を速習しました。
言葉っていいですね。圧縮されていて、洗練された時間軸を持っている。

持っていたいものですね。。

It's very sophisticated that is very Japan!

|枕草子「木の花は」の原文

木の花は、濃きも薄きも紅梅。

桜は花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。
藤の花はしなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。

四月のつごもり、五月のついたちのころほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたるつとめてなどは、世になう心あるさまにをかし。

花の中より、黄金の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露にぬれたる、あさぼらけの桜におとらず。
ほととぎすのよすがとさへ思へばにや、なほさらに言ふべうもあらず。

梨の花、よにすさまじきものにて、近うもてなさず、はかなき文つけなどだにせず、愛敬後れたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめてあいなく見ゆるを、唐土には限りなき物にて文にも作る、なほさりとも様あらむと、せめて見れば、花びらの端にをかしきにほひこそ、心もとなうつきためれ。

楊貴妃の、帝の御使ひに会ひて、泣きける顔に似せて、

「梨花一枝、春雨を帯びたり。」

など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは、たぐひあらじとおぼえたり。

桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、葉の広ごりざまぞ、うたてこちたけれど、異木どもと等しう言ふべきにもあらず。
唐土にことごとしき名つきたる鳥の、選りてこれにのみ居るらむ、いみじう心異なり。

まいて琴につくりて、さまざまなる音の出でくるなどは、をかしなど世の常に言ふべくやはある。
いみじうこそめでたけれ。

木のさまにくげなれど、棟の花、いとをかし。
枯れ枯れに、さま異に咲きて、必ず五月五日にあふも、をかし。

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あとがき

最近、2CELLOS のチェロの曲をよく聴いています。

そのひとり、Hauser が、彼のFacebookでこんなことを言っていました。
ワタシの Facebook でシェアした Hauser の post を。。

Who would have thought that just a few notes can create so much music! 🙏🎻
#lessismore
https://m.youtube.com/watch?v=f_RjlIPuqyc

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https://www.facebook.com/Yukiho.Takizawa/posts/1131714097267571

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2CELLOS - Benedictus (by Karl Jenkins) [LIVE at Arena Zagreb] https://youtu.be/f_RjlIPuqyc @YouTube

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"Less is more"
The words of the architect Mies van der Rohe.
I think it's exactly what Hauser says.
"
This video appears on their stunning new DVD "Live at Arena Zagreb" - the complete exhilarating concert filmed on 12th of June, 2012
"
from YouTube, 2CELLOS ♪official
Benedictus (Karl Jenkins, The Armed Man)
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Soprano: Benedictus
Tenor: Benedictus
Alto: Qui venit in nomine Domini
Bass: Benedictus qui venit in nomine domini
Tutti: Hosanna in excelsis

Hosanna in excelsis
Hosanna in excelsis
Hosanna in excelsis

Benedictus qui venit in nomine domini

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🙏🎶

2CELLOS Luka Sulic and Stjepan Hauser had a "Triumph" concert at Stjepan's hometown of Pula, Croatia on the 3rd of July, 2013. The first song was also Benedictus.

They play at home, as it is called home and away. The atmosphere of the audience in his hometown is amazing‼😇
from YouTube, 2CELLOS ♪ official
2CELLOS - LIVE at Arena Pula 2013 [FULL CONCERT] https://youtu.be/Sk5zxA9UP2Q

|祈りと慈悲と救いについて

様々な文化にその地域にフィットしたエンタープライズとしての祈りと神と宗教があった。数千年の歴史を保管した宗教を有する文明は、人類の人であることへの慈悲を包摂する。

祈る言葉は、そんなに違わない。
ワタシは祈る言葉を知らないけれど、祈ることを決めました。
祈ると不思議と、神様や仏様や観音さまの特別の慈悲の心とその存在の空気感が、その気配が、身近に感ぜられ始め、ワタシの心が静かになっていられるのです。それが自分にとっての救いであると気づきました。

心暗きときはすなわち遇うところことごとく禍なり、眼明らかなれば途に触れて皆宝なり
(性霊集巻第八 招提寺噠嚫文)😌🙏

せめて他の人に迷惑をかけない人生としたい。合掌し思いがけなく膝に涙を落としました。

雲上の国宝展VR t02 プロモ動画0327
https://youtu.be/P7z0-boMQ68 YouTube 総本山仁和寺

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京都・総本山 仁和寺 VRプロモーションビデオ 観音堂 https://youtu.be/GTrRSuT3n_k @YouTube 総本山仁和寺

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仁和寺の VR プロモーション映像は一見の価値ありです!
https://twitter.com/Mats_blnt_pharm/status/1378117293008248833?s=20

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Nスペ5min.「高野山 千年の襖(ふすま)絵 空海の世界に挑む」

「高野山 千年の襖(ふすま)絵 空海の世界に挑む」

1200年ほど前に僧侶・空海が開いた高野山金剛峯寺。真言密教の総本山の寺の白ぶすまに、千住博氏が史上初めて襖絵(日本絵画)を入れたというドキュメンタリーを見たのですが、山口青邨先生のオランダでの4句の最後の句を読みながら、ワタシには、その千住博氏の日本画の黒と白のコントラストが連想されました。

日本人の心には、信仰と祈りの行為を通して、同じ心象風景が浮かぶのだろうなあと思います。

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禅語を味わう...002 RT
@kyouchuuzenkut1 on Twitter
古川周賢老大師のご高話 #note

|安禅不必須山水、滅却心頭火自涼

禅語をわかりやすく心に染み入る穏やかな文章で読み解いていらっしゃいます。有難いご高話に、土曜日の朝の Twitter メンテナンスのためにログイン(苦行💦)した早朝の行の時間の中で出会いました。

人権侵害と女性差別と暴行、盗みへの嗜好性からの女性への凌辱という、本来なら地獄へ落ちていてもらっうことが相当なことが常時、彼ら輩の形質学的に脳が欠けているからであろう依存性を抱えた異常者の欲望の垂れ流しの中で大量に、無差別に日々続く、日本にいながら、自らの心の平安のために祈る以外の手段を持たない日々が続きます。

この Twitter での言葉へのたどり着きをもまた、何らかの天上の智慧のお導きか、と最近、ことに出家したい気持ちでいっぱいになります。

"生命を賭けてまで守るべきものはそこにあったのか?そんな問いとは無関係に、荒れ狂う戦場の狂気は..."

古川周賢老大師のご高話へのリンクをシェアします。

禅語を味わう...002:心頭滅却すれば 火も自ずから涼し|古川 周賢
 #note https://note.com/myoukishuken/n/n9535f9305f96

「何のために、生命を捨てるのか? 何に対して生命を賭けたのか? 生命を賭けてまで守るべきものはそこにあったのか?
そんな問いとは無関係に、荒れ狂う戦場の狂気は人の生命をいとも簡単に踏みにじります。そして、戦場とまでは行かずとも、わたしたちは長い人生の中で、望まずして自分の身の丈を超えるような出来事に巻きこまれ、人生を賭して立ち向かわなければならないことに向き合わされるのではないですか? 
自分の身一つのことであれば、覚悟はつく。しかし、仕事にしろ家族にしろ、大義にしろ何にしろ、自分だけのことでは済まないものを人は背負って生きていきます。
抱えきれないほどの思いと、背負いきれないほどの責務に押し拉がれながら、わたしたちはただ茫然と立ち竦む時がある。道場など行かなくとも、出家などしなくとも、自分自身と向き合う修行においては、誰もが時として、自分の身の丈を超えたものに否応なく向き合わされるのです。」

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禅語を味わう...001:花発けば風雨多し 人生別離足る|古川 周賢 #note https://note.com/myoukishuken/n/n6c6bab0e79c6

君に勸む金屈巵(勸君金屈巵)
 きみにすすむ きんくつし
滿酌辭するをもちいず(滿酌不須辭)
 まんしゃく じするをもちいず
花發けば 風雨 多く(花發多風雨)
 はなひらけば ふううおおおく
人生 別離 足る(人生足別離)
 じんせい べつりたる

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命二つの中に生きたる桜かな 松尾芭蕉

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@Mats_blnt_pharm on Twitter から。。

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恵林寺のみどころ|乾徳山 恵林寺

恵林寺ホームページで山門と信玄公墓所、そして武田不動尊にお参りすることができました。

由来によれば武田不動尊像は京から仏師康清を招聘し信玄が対面して彫刻させ自らの剃髪した毛髪を焼き漆に混ぜ彩色させたものであるという。
右に、左に羂索忿怒の形相の不動明王。

羂索(けんさく)は、仏様が衆生を救済するときに使う「投げ縄」のような武器です。それは、ワタシには御仏の慈悲であるとともに法律、法令、制度・倫理の枠組みのあるべき姿ようにもまた見えてきます。そして、右手に剣を持ち、憤怒の形相で衆生を救済する不動明王のお姿に、人間の業と人としての救い、そして世の秩序との間にある定理を見るような気持ちになりました。

『生誕500年 武田信玄の生涯』展(山梨県立博物館)が、丁度、2021年3月13日(土)から、5月10日(月)まで開催されているそうです。

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『武田不動尊像』は、4月12日(月)までは、恵林寺に、そして4月12日の『快川国師・信玄公忌』が終了した後、4月14日(水)から展覧会にお出ましになられるとか。

お出かけ前にご確認を、と恵林寺 古川周賢 @kyouchuuzenkut1 on Twitterに書かれていらっしゃいました。

展覧会後、長期にわたる本格的な修復に入り、武田不動尊像が恵林寺にお戻りになるのは、数ヶ月先となるそうです。

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恵林寺 古川周賢 @kyouchuuzenkut1 on Twitter から引用

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山梨県立博物館 @kaiseum_ypm on Twitter から引用

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これら全ての縁起に感謝しつつ。祈りました。

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|春の夜

       蘇 東坡

 春宵一刻 直千金
 花に清香有り 月に陰有り
 歌管楼台 声細細
 鞦韆院落 夜沈沈

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春の宵の一刻は千金の値打ちがあるほど素晴らしい。
花は清らかな香りを放ち、月はおぼろにかすんでいる。
歌声と笛の音が賑やかだった高殿から微かに声が聞こえる。
乗る人の無いブランコがある中庭に夜は沈んでいく。

千金 | きわめて高価なこと
歌管 | 歌声と管絃の音
鞦韆 | ぶらんこ
院落 | 建物で囲まれた中庭
夜沈沈| 夜が静かに更けていくさま

参考資料:漢詩紹介|公益社団法人 関西吟詩文化協会 春夜

蘇 東坡(1036-1101)は北宋の政治家で詩人/文章家です。およそ千年前に生まれた人ですから、これは、日本では平安時代にあたる時代に読まれた漢詩です。
蘇 東坡は四川省眉山県の生まれで父 洵(じゅん)、弟轍(てつ)とともに三蘇といわれた名文章家だそうです。中央、地方の官を歴任し官は礼部尚書(れいぶしょうしょ=今の文部科学大臣)に至るというエリートコースの国家官僚。享年65歳。

二十四節季のうち、陰暦3月清明節の前後3日間ほどの節会の宴の後を歌った詩。美しい夜の風景ですね。
清明は春分から15日目、2021年の春分は3月20日でしたから、清明は今では4月4日の頃です。

お祭りのために着飾って艶やかな色のひらひらした衣装をまとった女官たちが、明るい春の日差しと春風の中ブランコに乗る様子は、天女が舞う風景にも似て、華やかなものだったろうと想像できます。
清明節のお祭りの「儀式」の一つとしてブランコがあったということらしい。ブランコ(鞦韆)は、そのため俳句では春の季語となっています。

宴が終わり、春宵、誰も乗る人のないブランコが、春の花香る朧月夜の中庭にある。女官たちの華やかな残像が残る夜の風景ですね。その夜は更けてゆき、高台からはまだ微かに暖かな声が聞こえてくる。

清明の春祭は、豊穣を予感してその実現を祈願するためのお祭りだったのでしょう。この漢詩から伝わってくるメタファーも「豊穣への予感と願い」に満ちているように思います。

三島由紀夫の最後の小説のタイトル「豊饒の海」において彼は豊穣への憧憬のメタファーとして「海」を使いました。三好達治は彼の詩集「測量船」の中の詩「郷愁」で、「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」と詠いました。日本は国境を海に囲まれたちいさな島国です。日本の豊穣の根本には常に海が存在する。海は日本の母です。他方、この美しい漢詩「春の夜」において使われた豊穣への予感と憧憬のメタファーは清明の春祭が終わったその春宵の「ブランコ(鞦韆)」、「春の花の香り」、「朧月」でした。それは、様々なことを乗り越えた後に予感される秋における豊かな実りと収穫への切望でもあったことと思います。秋になれば、その豊かな実りを感謝するお祭りがまた開催されることでしょう。

中国の春祭の風景が日本の春の懐かしい原風景と重なります。

今の日本においても、私たちはこの千年前に詠まれた美しい風景を、日本が向かうべき令和の麗しき時代のその心象風景として、青邨先生が詠んだ風車の風景と共に、持つことができるような気がする漢詩です。

もしかしたら、山口青邨先生の心象風景にはこの漢詩に表された春の夜があったのかもしれない。それは、「春の闇」が明けた後の日本のあるべき姿、そこへの憧憬のような心象風景ではなかったでしょうか。

オリンピック Tokyo2020 のエンブレムのモティーフに使われている市松模様は末広がり、子孫繁栄や事業拡大を表す縁起の良い文様ですが、豊穣と繁栄との間には、時間軸上にずれがあることはお気づきですか?

豊穣の「実現」があって、人類の文明、文化の繁栄が可能となる。豊穣は繁栄の要件です。

豊穣なくして繁栄なし。

そこに、人間の社会のあるべき姿における時間軸上の秩序と順序がある。
ワタシはそう思います。

値千金とは、何物にも代えがたい、得がたい価値があるという意味があります。

春宵一刻値千金

ここには、その春宵一刻を何よりも価値があるものとして、得難いものとして尊ぶという気持ちと価値観が現れています。

何を尊び、何を失ってはいけないものとして守り通すのか。その実現のために何を最優先とするのか。そして、その実現を基盤として最終的に何の実現を目指すべきなのか。

そんなことを考えさせられました。

|三好達治が詠った海

三好達治は、海を題材にした詩を多く書きました。彼の代表的な詩集「測量船」の中でという言葉を34回使っています。

三好達治「測量船」|青空文庫

それ以外にも海にまつわる美しい詩があります。三好達治の詩を2つ、青空文庫からご紹介しておきましょう。

三好達治「海よ」|青空文庫

海よ

     三好達治

門を閉ぢよ 心を開け……
それで私は 表を閉めて
裏の垣根を越えてきた
蜜柑畠の間を拔けて
海よ お前の渚に
かうして私は一人できた
ああ陽炎のもえる初夏(しよか)の小徑
眩(めくるめ)く砂の上で
海よ 私は何を考へよう
思出のやうにうすぐもつて
藍鼠色(あゐねずいろ)にぼんやりした 遙かなお前の水平線
私はお前に向きあつて
私は世間に背中を向ける
門を閉ぢよ 心を開け……
それで私は表を閉めて
裏の垣根を越えてきた
海よ お前の渚に
かうして私は腰を下ろし
かうして私は甲羅を干す
天と 地と
岬の鼻の鴉の群れと
膨らみ上る ああまるく高く膨らみ上るお前の浪の數々と
胸のしんにずんと響く そのお前の歌聲と
きらめくばかり眞白な 季節の新らしいそれらの帆の
二つ三つと
海よ
海よ
やがて私は旅だつだらう
海よ
お前のこの渚からも
やがて私は旅だつだらう
人の不實を憤ることも
自らの眞實に醉ふことも
その時私はやめるだらう
その日がやがて來るだらう
ああその
お前と別れる日のために
今日私はお前を謳ひ
今日私はお前と遊ぶ
お前の渚に
私は今日お前と遊ぶ

底本:「三好達治全集第一卷」筑摩書房
   1964(昭和39)年10月15日発行
底本の親本:「定本三好達治全詩集」筑摩書房
   1962(昭和37)年3月30日
初出:「婦人公論」
   1939(昭和14)年8月
入力:kompass
校正:杉浦鳥見
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

三好達治「海から昇る太陽」|青空文庫

海から昇る太陽

     三好達治

ああ海から昇る太陽
太陽
今しののめの
藍と薔薇との混沌を
蹴破つて昇る太陽
かの紅の かのまるく大きなる
かの重たげなるもの
虚空のうちを押渡る
かのまぶしきもの
かの團々たる
黄金光(わうごんくわう)の聖母胎(せいぼたい)
ああかの 今わが涙にまで
そのほのかなる暖かみもてもの言ひかくるもの
太陽
おお太陽
海から昇る太陽
われ永く
おん身の朝ごとにそこに在りて
かくまるく 大きく 赤く
われらが遊星の空高くはるばると
さし出で給ふを
不覺や
忘れてゐたりき
久しくも忘れてゐたりき
しかしてこの日
雲深き水平線を押昇る
何たる大いなる
何たる美しい太陽だらう
わがいとけなき
わがけがれなき日の
なほそこに今もあるかに
ああげにかくもまぶしく
海から昇る太陽
おお太陽
太陽

底本:「三好達治全集第一卷」筑摩書房
   1964(昭和39)年10月15日発行
底本の親本:「定本三好達治全詩集」筑摩書房
   1962(昭和37)年3月30日
入力:kompass
校正:杉浦鳥見
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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今日のところは、この辺で。

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マガジン|matsunoya diary

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その中で紹介した曲を一つ、ここにのせておこうかなと思います。

フレディが日本語で「夢のよう」と歌っているフレーズを、もう一度聞きたくなって。

YouTube|Freddie Mercury Solo
La Japonaise (New Orchestrated Version)
https://youtu.be/THDBBvjOc4M


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Queen のことなど。。

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滝沢 幸穂

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