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禅語を味わう...001:花発けば風雨多し 人生別離足る


花発けば風雨多し 人生別離足る...

    花發多風雨 人生足別離

(はなひらけば ふううおおし じんせい べつりたる)

毎年4月頃になると、ここ峡東はいっせいに桃の花の見頃を迎えます。
小高いところから遠望すれば、見渡すかぎり煙るような桃色に染まる景色は絶景というほかはなく、「桃源郷」という言葉にふさわしい見事なものです。

今年は花の開花が全般にとても早く、桜の開花がお彼岸の頃に始まり、3月後半には桃の花まで咲き始めました。遅咲きの梅もあわせると、梅、桜、桃が同時に咲き乱れるという豪華な春となりました。
しかし、桜の花はとても繊細で、先日の雨もあり、瞬く間に盛りは終わってしまいました...
ピンク色のまだ瑞々しい桜の花びらが水面に漂い、あるいは流れ去っていく姿は、美しくもまた切ないものです。

今回、新しく「禅語」のシリーズを始めるにあたって、第1回目は「花と別離」を詠う有名な漢詩から題材を選びました。


君に勸む金屈巵(勸君金屈巵)
 きみにすすむ きんくつし
滿酌辭するをもちいず(滿酌不須辭)
 まんしゃく じするをもちいず
花發けば 風雨 多く(花發多風雨)
 はなひらけば ふううおおおく
人生 別離 足る(人生足別離)
 じんせい べつりたる


晩唐の詩人、于武陵(うぶりょう)の『勸酒(さけをすすむ)』という名作すが、この作品を日本で更に有名にしたのが、井伏鱒二の翻訳です(訳詩集『厄除け詩集』)。


コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトへモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ


遠方に旅立つ友人との別れを惜しんでの歌...あまりにも広大で、過酷な中国の大地...
しかも昔のことですから道中は危険も多く、二度と生きて会うことができないような別離も珍しくはなかったのですから、中国の漢詩の別れの歌には心を動かされる名句が多いのです。
とっておきの杯なのでしょう、「金屈巵(きんくつし)」という杯に、なみなみと別れの酒を注ぐ...溢れるほどの万感の思いをもって注がれて、零れんばかりのこの一杯の酒を、どうか断らないで欲しい...


待ちに待った花の季節がやっと巡りきて、妍(けん)を競うかのように美しい花が咲きそろっても、しばしば無常な風雨に曝されて、瞬く間に散っていってしまう...
そして私たちの一生も、生まれてから命尽きるまで、素晴らしい出会いも沢山あるけれども、それ以上に、辛い別れの何と多いことであろうか...
美しさを競い合う花々さえも、そもそもそんな風に咲くことさえなければ、無残な散り姿を見せずに済むのに...


私たち人間も、素晴らしい出会いがあるからこそ、別れが辛い...その出会いが素晴らしければ素晴らしいほど、別れの辛さはひとしお。
沢山の出会いを経験することができるのはとても幸せなことだけれど、その素晴らしい出会いの数だけ、別れの厳しさに耐えていかなくてはならないのです...
井伏鱒二の翻訳は、そんな人生の深みを、見事に浮かび上がらせてくれる名訳です。


しかし、この句を「禅語」として見るとき、ただ別れの辛さ、人生の無常を詠ったものだ...そう済ませてしまうわけにはいきません。
仏教の基本の教えは、例えば「諸行無常」。
すべてのものは、儚く過ぎ去っていく。過ぎ去り、滅んでいかないものは無い。
そして、「一切皆苦」。
生きるということは本質的には「苦しみ」なのだ。というところにあります。ですから、「花発いて...人生別離に...」というのは、まさしく仏教が教える根本のところのことなのです。
そして、「別れと苦しみ」が私たち人間の在り方の本質であり、真実の姿であるのならば、私たちは一体、どのように生きていけば良いのか?
どのようにして「諸行無常」と「一切皆苦」に向き合って行けば良いのか?
ここのところをしっかりとしていなくては、本当の意味で自分の人生に向き合っていると言うことができません。
井伏鱒二の言葉でいえば、「サヨナラダケガ人生ダ」だというのであれば、その「サヨナラダケガ...」をどのように受け止め、自分のものにしていけば良いのか、ということへと踏み込んでいかなくてはならないのです。
ただ単に、表面的に「ハナニアラシノタトヘモ...サヨナラダケ...」と流してしまうのであれば、
「いまは順風満帆、幸せな人生でも、いつか必ず、思わぬ不幸に出逢うものだぞ。人間は最後は誰もが絶対に死ななくてはならないんだから、人生なんて所詮は「さよなら」に尽きるのさ...」
という月並みで冷めた見方にすべてが収まってしまうことになります。
しかし、たとえ「所詮...」の人生、「さよならに尽きる」人生であっても、それは一度しかない、自分自身の人生です。どれほど儚く、ちっぽけで、ささやかなものであっても、それを生きていく私たち自身にとっては、それだけが唯一の人生、しかも、じっさいに格闘しながら生きている私たちにとっては正真正銘自分の、切れば血が流れる本物の人生なのです。
その人生を「所詮...だけ」のものと、つまらないものに引き渡してしまうのか、それともあくまで自分自身の人生として引き受けて、生ききるのか、それは自分次第。
井伏鱒二の訳文にしても、実はそれほど単純ではありません。
「サヨナラダケガ人生ダ」と割り切っているかのように見えて、決して冷めた目で傍観者となっているのではないのです。
「コノサカズキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ」
と、溢れんばかりの思いをもって友に呼びかけているのです。
すべてのものは、過ぎ去り、滅び行く...「サヨナラ」だけが「人生」だからこそ、その一瞬の命、儚いけれども一度きりの自分の命を燃やし尽くさなくてはならない。
その燃やし尽くす命の尊さを知っているからこそ、自分の生き方を貫いていく者同士、万感の思いで別れの杯を酌み交わすことができるのです。自分の人生をあきらめに引き渡し、情熱を失って冷めた人に、なみなみと酒を注いでくれる仲間はいないのです。


さて、「花発いて...人生別離に...」という句に触れるとき、仏教の開祖、釈尊の姿が頭に浮かびます。
八〇歳といいますから、病弱ながら当時としては驚くほどの長寿を保ち、命尽きるまで、自分の足で歩きながら教えを説き続けた釈尊も、いよいよ人生最後の旅に出ます。
これが多分最後になるであろうと、釈尊は知りつつ出掛けるのです。そして旅の途中で、お供をしているアーナンダに向かって、こんな風に語りかけます。


「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい。ゴータマカ霊樹は楽しい。サッタンバカ霊樹は楽しい。バフプッタ霊樹は楽しい。サーランダダ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい」(『大パリニッバーナ経』)


「老い朽ち」「老衰」した病身を引き摺りながら、釈尊は自分の歩き、教えを説き続けてきた街、王宮、農園、邸宅...山や河...数限りないさまざまな場所を振り返り、「ああ、素晴らしい」と賛嘆しながら回顧するのです。
無理解や迫害もあり、決して楽でも幸福でもなかった生涯...
「人生は苦である」と説き続けてきたその人が、最後に「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と、「無常」なはずの「世界」を「美しい」と讃え、「いのち」を「甘美」だと肯定するのです...
人生は「無常」だから空しく、つまらないのではないのです。
空しくし、つまらなくしているのは、自分自身です。無常で儚くとも、いや、無常で儚いからこそ、尊く、素晴らしいのです。
人生にしても、友情にしても、何にしても、大切なことは、その最後の瞬間になって、初めてその「真の姿」を現します。
友と別れ、自分の人生と別れ、この世界と別れるとき、余計なもの、無駄なもの、なくても良いものはすべて消え去っていく...そして最後の一瞬、消滅する最後の一刹那、物事は「真の姿」を閃かせる。
この時、この「真の姿」に長いも短いも、儚いも儚くないもないのです。得失是非、善悪邪正もない。ただ、その生きてきた生の姿が、そのまま剥き出しで現れるのです。
この時、「ああ、良かった...やるだけのことはできた、素晴らしかった、さようなら...」そう言えるかどうか。
それはひとえに私たち自身にかかっているのです。
自分のありのままの姿を肯定できなければ、そう言うことは絶対にできません。そして、自分の生きてきたありのままの姿を肯定することができるためには、ひたすら精一杯生きるほかはないのです。拗ねたり、妬んだり、僻んだり、あきらめたりしている余裕はないのです。
「人生別離足る」...私たちの人生は、「出会い」とそして「別れ」に尽きるのです。最後にやって来るのは、いつも別れ。
しかし、自分自身の生き方に対して、しっかりと向き合うことができれば、どれほど辛い別れであっても、その出会いを感謝し、肯定することができる。
私たちも、真っ向から、しっかりと自分の道を歩みながら、別れの中にも「感謝」の気持ちを持ち続けていきたいものです。

(写真:工藤憲二氏)

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