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松野志部彦
2023年4月16日 11:48
小川のほとりで少年たちが決闘している。枯枝を剣に見立て、いかにも幼いごっこ遊びだが、本人たちはいたってまじめだ。お姫様役の少女は樫の木に登って腰かけ、退屈そうにあくびをする。早く帰ってネイルを塗り直したい、と考えている。 その少女の頭上に、じつは蜂の巣がぶら下がっていることを誰も知らない。知っているのはあなただけで、だから、あなたはページをめくる手を止められない。この物語が悲劇の結末を辿るのか
2023年4月15日 15:14
夜明けの海辺は、銀色の朝陽が昇るにつれて饒舌になり、まるで世界中のすべての音がここから生まれてくるかのような賑やかさだった。僕たちは靴を脱いで波打ち際に立ち、まだ冬の余韻を残す白波で足首を洗う。「ねぇ、ここに名前を書いてみない?」 彼女が提案し、僕も頷いて屈みこむ。波が引いた砂浜にふたりで指を走らせる。彼女の名前と僕の名前。親から授かった、というよりは、世界から与えられた識別子。良くも悪くも
2023年4月14日 11:51
「旅の途中なんです」とペンギンの店長は言う。「故郷の北極を出て、南極に行こうと思い立ちまして。ほら、温暖化で氷も少なくなってますから」「ペンギンは南極の動物じゃなかったでしたっけ」 ヒヒが指摘すると、ペンギンは笑顔のまま黙り込む。サイとゾウは声を潜めてお喋りしている。みんなが僕を見ている。それもやや非難を込めた眼差しで。 海面からクジラの子が顔を出し、「ママを返して」と叫んでまた潜る。 人
2023年4月13日 12:22
幼い兄妹が森を駆け、一心不乱に町を目指している。たったいま、大嫌いな継母のスープに毒薬を盛ったばかりだ。継母がそれに口をつけたところは見届けていない。兄と妹、どちらが先に怖気づいたのかわからないが、どちらかが先に恐怖し、もう一方も伝染して恐怖したという顛末だった。 町に着くと、二人はすっかり途方に暮れてしまった。継母の死をあれほど願っていたはずなのに、いまでは継母が無事であることを祈っている。
2023年4月12日 11:13
終電が過ぎた新宿の街を、僕たちはあてもなくさまよう。友人は子供がやるようにして、車道の縁石の上を歩いている。酔っ払っているのかと思ったが、その横顔に酩酊の気配は見当たらない。彼の切り揃えた短い金髪と、コンバースのスニーカーが、奇妙な輪郭を伴って僕の視界に迫る。「すごい秘密を教えようか」彼は微笑んで僕を見る。「ぜひ知りたいね」僕も微笑む。「始発まで時間もあるし」 ふわりと歩道に着地すると、彼
2023年4月11日 10:20
気難しそうな、あるいはやや気の違っていそうな髭面の男が、薄暗い部屋で腕組みしている。私を台に立たせて、もう小一時間もそうしている。私は私で、気持ち良く寝ていたところを無理やり連れてこられたものだから、多分に腹が立っているのだけども、男はなぜか私より不機嫌な顔つきで、文句を言えそうな雰囲気ではまったくなかった。 ずいぶん経って、日が暮れたあと、ようやく男が私に触れようとしたが、すぐにその手を引
2023年4月10日 08:39
ある夏の日にきみは自殺した。第一発見者は僕。放課後、教室の窓辺に器用に縄を引っかけて、まるで見せびらかすようにして首を吊っていた。 それからというもの、きみは僕に付き纏っている。 僕がトイレに行けば必ずきみが廊下の暗がりに佇んでいるし、風呂に入っているときも脱衣所からきみの気配が伝わる。僕、一応、男子なんだけどね。死者とはいえ、女子に生活の一部始終を覗かれるのはどうも落ち着かないな。 僕ら
2023年4月9日 10:40
初デートの途中、彼女がくしゃみのツボに入った。間の悪いことに映画館での出来事である。くしゅん、くしゅん、と連発し、周囲の迷惑そうな視線を集めるのにたいして時間はかからなかった。 僕は彼女を促し、追われるようにして席を立つ。その間も彼女のくしゃみは止まらない。彼女は謝ろうとしたが、なにせくしゃみのツボに入っているから会話もままならない。 街中に出ても、くしゃみは収まるどころかひどくなる一方だ。
2023年4月8日 11:16
仕事を終えてアパートに帰ると、恋人たちが雁首揃えて待ち構えていた。状況を察した俺は逃走を試みるが、襟を掴まれてあえなく取り押さえられてしまう。「最低。あなた、浮気していたのね」 恋人たちに囲まれ、俺は必死に弁明する。 違う、誤解だ。俺は浮気なんてしていない。一人一人と真剣に付き合っていて、軽薄な気持ちによるものではけしてないんだ。世の中には誰からも愛されない人が大勢いる。俺が持つ愛の量は人
2023年4月7日 09:35
姉様と屋根の上で星を眺めていると、そのうちの一つが青い尾を引いて、沼地のほうへと落ちてきた。鈴のような音色が夜の大気に響き渡った。 川を渡って見に行くと、潰れた葦原の中心に裸の男が眠っていた。滑らかな肌が青く燐光を放っている。星が人になったんだ、とわたしは直感した。 男は目を覚ますと、まるで乙女のように恥じらい、千切った葦の束で体を隠した。姉様はくすっと微笑み、腰巻をほどいて青年に手渡す。わ
2023年4月6日 12:39
出張途中の新幹線で僕は母の訃報を受け取る。会社のことも取引先のことも頭から吹っ飛び、居ても立ってもいられなくなるが、なにせ新幹線の中だからどうにもならない。時速二百キロをのろく感じたのは生まれて初めてだ。 幼い頃の愛情、反抗期時代の疎ましさ、大人になってからの後悔が、車窓の景色に流れていく。この世のどこに行ったってもう母には会えない。哀しみが胸を潰し、僕は声を立てずに泣く。まるで迷子の子供のよ
2023年4月5日 10:22
可愛いフウちゃんへ お手紙ありがとう。フウちゃんのお手紙は無事に未来へ届きました。とても嬉しいです。いまこうしてペンを握りながら、なにを書こうか迷っています。あなたには話したいことがたくさんあるからね。 過去の時代の人にお手紙を書くのは初めてだから、すごく緊張しています。過去へお手紙を送るのはとても難しく、失敗したらやり直しが利きません。ちゃんと届くといいなぁ。 未来のことは、残念だけど
2023年4月4日 09:54
薄々気づいてはいたが、この町の住民は気が狂っているらしい。 今朝、公園の広場で猫の死体が見つかった。その数、十体以上。どの死体も腹を裂かれ、綺麗に内蔵をくり抜かれていた。昔読んだ、猫の心臓を食べる怪人が登場する小説を僕は思い出す。「知ってる。村上春樹でしょ」 そう話す彼女の口もとは血にまみれている。彼女だけではない。レストランの客の全員が同じような姿だ。みんなで猫の臓物を食べたのだ。いま
2023年4月3日 10:42
幼馴染が劇団を立ち上げたと知り、わたしは驚いた。彼女は筋金入りの恥ずかしがり屋なのだ。高校の演劇で、台詞の無い通行人役すら満足にこなせなかったほどである。そんな彼女が、あろうことか劇団を主宰するなんて俄には信じられなかった。 公演には多くの観客が集まった。ネットでも話題になっているらしく、おおむね好意的な評価のようだ。ポスターに映る幼馴染は昔から変わらない内気な笑みで、わたしは夢を見ているよ