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【1000字】セカンド・ロスト

 出張途中の新幹線で僕は母の訃報を受け取る。会社のことも取引先のことも頭から吹っ飛び、居ても立ってもいられなくなるが、なにせ新幹線の中だからどうにもならない。時速二百キロをのろく感じたのは生まれて初めてだ。
 幼い頃の愛情、反抗期時代の疎ましさ、大人になってからの後悔が、車窓の景色に流れていく。この世のどこに行ったってもう母には会えない。哀しみが胸を潰し、僕は声を立てずに泣く。まるで迷子の子供のように。
「大丈夫ですか?」
 隣席の女がハンカチを差し出す。僕は礼を言って受け取り、母が死んだことを教える。「お気の毒に」と女も肩を落とす。
「あたしも、息子が死んだらきっと泣くでしょうね」
 僕は唐突に、女の正体が母であることを直感する。女も僕が気づいたことを察し、悪戯っぽい笑みを浮かべる。年齢も容姿も違うが、笑ったときの目の形は母その人だ。
「ここでなにをしてるんだ?」
 僕は泣き顔を見られたきまり悪さを覚えながら訊ねる。
「家から逃げてきたのよ」と母は言う。「お母さんね、再婚するの。でも、この歳で再婚なんて、いろいろと面倒なこともあるでしょう? だから、死んだことにしたの」
「なんだよ、それ。親父は知ってるのか?」
「知るわけないでしょう。あの人が離婚してくれないから、こうしてひと芝居打つことにしたんじゃない。あたしが生きていること、教えないでね」
 次の駅で、「じゃあね」と母が席を立つ。ホームから窓越しに手を振る笑顔には、惜別の念が微塵も感じられない。あっけにとられているうちにベルが鳴り、新幹線は僕だけ乗せて発車する。こうして僕は母を喪失する。
 
 目的の駅を過ぎ、僕はまっすぐ故郷の街へ向かう。数回乗り換え、ローカル線の懐かしい駅に降り立つと、我が家の葬儀案内の看板が目に入った。母の葬式だ。喪服の親戚たちが沈痛な面持ちで歩いている。僕はその黒い波に逆らうようにして、通りを風のように駆けていく。
 実家では、父が目を腫らして酔い潰れている。母の遺影と共に棺が置かれているが、そちらを覗く勇気が僕にはない。
「母さん、死んじまったよ。これからどうすりゃいいんだろうな」
 父は机に突っ伏してまた泣く。そんな弱々しい父を、僕はこれまで見たことがなかった。
「母さんには苦労ばかりかけちまったよなぁ」
 僕は黙ってうなだれる。泣く演技をしたいのに涙は一滴も出てこない。
 ポケットの中では、会社からの電話がひっきりなしに鳴っている。



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