#3 持っている気質や色彩による職業選択だよ
前回からの続きになります。
5.200年前の気質と色の職業分け
まずはこちらをご覧ください。これは1794年付近に文豪ゲーテとその友人である歴史家シラーが描いた気質の職業分けです。
作られたのは今から約200年前です。だから職業や言葉がやや取っつきにくいとおもいましたのでこれの2023年版を作ってみました。こんな感じです。
この表を見た時
「自分の気質にあった職業を選べばいいんだ!」と思うのが多血質
「あきらめるな!例え向いてなくても努力しろ」って言うのが胆汁質
「興味ない。自分のやりたいことやります」ってのが粘液質
「・・・・これの根拠は何なんだろう?」って考えるのが憂鬱質
ざっくりとした反応がこんな感じになります(反応はイメージです。もちろん年代、立場の差は出てきますが)私はそもそもゲーテとシラーが作った表を見た時「多血質が最高の恋人ってなんだよ」って思いました。
この表は「あくまでイメージ」です。世の中にある全部の職業をフォローしているわけではありません。例えば公務員を取り上げた時、多血と粘液の間にありますが、公務員の業種にもよります。事務なのか技術系なのか、それとも介護系なのかです。
1つの見方、として言語に着眼してみます。
この職業はコミュニケーションの中でどのくらいの量の言語を必要としているのか?という着眼点です。この場合の言語は日本語、英語、フランス語という言語の種類の量ではなく
「仕事上必要になる日本語を話す量、伝えなくてはいけない量です」
ぱっと見た時、粘液質と憂鬱質の職業ってそんなしゃべる職業ではないような気がしませんか?代わりに粘液質は作品でしゃべる、憂鬱質は研究結果でしゃべる。みたいな捉え方でいいと思います。
逆にインフルエンサーは毎日、配信や投稿をしますし「いいね」とか「スキ」とか「登録」とかをしつこく催促します。ラジオもテレビも沈黙を嫌うというか沈黙の時点で放送事故という重い罪をつけています。 赤と黄色が多弁で世界を表現しているのならば、緑と青は一つが雄弁に表現するみたいな感じです。
多弁が悪いわけじゃありません。ですが多弁の赤は成功すると「自己啓発系」の本を必ず出します。内容が多弁です。そして役に立つと思って購入して読んでも役に立ちません。
10年前の自己啓発の本なんか誰も買わないでしょ? 買わないのはなぜか?古いからです。古いということは流行を使っているということです。流行を使っているということは「最初期に始めないと意味が無いこと」ばかりです。
でも10年前の車を買う人はいるんです。なんで買うのでしょうか?「動いて車として機能する」からです。使えるから買うわけです。
自己啓発が書ける人は基本、胆汁質で
「偶然掴んだ成功者」
か
「未来や時代を読むことに長けている人」
のどちらかです。
なので先手をうつことが出来るのですが、その先手はどうしてうてるのか?という所の疑問まで本を買った人は辿り着くことが少ないです。なぜならこの手の本を買って「勉強になった」と表面上理解するのは多血質だからです。
あと、何よりも胆汁質は自分が成功出来たからそのやり方を文章で解説することで全員にわかってもらえるって勘違いしています。なので私がこうやって書いてきた#1からのnoteも「わかってもらえる」と思って書いてしまっています。私も胆汁質なので。
一方、緑と青は一枚の絵とか一つの作品を長い時間をかけて出します。
少し余談ですが、当然私は未来や時代を読むことに長けていません。ですが、未来や時代は一体何が作っているのか?ということは知っています。
「未来も時代もいつでもそれは人が作っています」
つまり、未来や時代を読みに行くことはイコールで人を知ることに繋がります。人を知ることを気質と色彩という見方を用いてみることで、私としては未来や時代が何となく見えるのではないか、少なくとも個人レベルではそれが可能になると考えています。
ここでいう個人レベルというのは
「自分の色を知って、自分が自然体で生きていく」
ことは可能だということです。
そしてお互いの世界の言語は同じ日本語を用いてますが、言語が違うということが起きます。
「何べん言ったらわかるの!」
という誰かの口癖を聞いたことがあると思いますが、これは赤い世界の住人の口癖です。言えばわかる、話せばわかるというのはこっちの言語を理解できていることが前提です。もちろん言っている言葉の意味はわかります。そりゃ日本語ですからね、学校でも習いますし。ですが、その意図する事をくみ取れるかどうかは色によって変化するということです。
「言ったこと、言われたことが出来ない」
ということは単に頭が悪いとか要領が悪いということだけではありません。クリエイターと経営者、インフルエンサーと研究職では「言葉が通じない」という表現は通じないかもしれないですが 「住んでいる世界が違う」 という表現なら伝わるかもしれません。
「イチロー選手や大谷選手と私達では住んでいる世界が違う」
住んでいる世界が違うと、使っている言語が同じでも通じるかどうかは別になります。
6.重要な課題は「認めるだけ」
頭の良い人はこう思うかもしれません。
「自分とは違う世界の言語を学ぶ必要があるのではないか?」
日本語以外の言語を学ぶ感覚で「他の世界の言語」を習得しようとすると最悪の場合、落とし穴に落ちて帰ってこられなくなります。そうはならなくても他の世界の言語を学ぶということは
「自分は黄色や赤なのに、いったん青い世界、緑の世界に行く必要が出てきます」
どうしてそうなのか?と言いますと、青い世界、緑の世界の住人たちが使う言語は言語化されていません。だから写真や絵画、詩や音楽で表現されているのです。そういう言葉に出来ない世界で生きることに適していないと、非常に辛いです。赤や黄色は言語化を好み、緑や青は言語化が難しいから別のことで表現する。という違いがそこにはあります。
だから言語が違うことを認めるだけでいいのですが、それって結構むつかしいっていうのを次に書きますね。
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