現代哲学による「正しい歴史認識」入門

はじめに

 「正しい歴史認識」この言葉はこの数十年のトピックであり続けた古くて新しい時事問題です。

 2021年4月現在の状況では2020年より更にニュースがフェイクニュース化しもはやニュースというものを信じられない状況になりました。

 これはとても面白い状況です。

 更に現代思想の考え方にぴったり合う考え方です。

 現代哲学をベースとする現代思想ではもともとニュースだけでなく文字通り全てをシミュレーション、シミュラークル(紛い物)として捉えてきました。

 ですから現代思想から見ればニュースと言うのは本質的にフェイクニュースでしかありえず、それが周知となって社会の多くの人がニュースを懐疑的に見るのが常識で、ニュースを疑いなく信じていた人々が大多数を占めていた今までが異常であるように見ていました。

 ようやく時代が現代哲学に追いついたわけです。

 そういう現代哲学からみれば「正しい歴史認識」という言葉は突っ込みどころが満載です。

 「正しい」も「歴史」も「認識」も3つとも全て現代哲学のメインテーマだったからです。

 学問の自由がある日本では学がある人であればその人の政治信条に関係なくこの言葉自体を使う人はいないでしょう。

 現代哲学ではこの言葉は突っ込みどころ満載過ぎて全てを書き尽くすことはできませんが、いくつかの方向からこの言葉を分析してみたいと思います。


第一章 現代哲学の歴史の見方

 現代思想において構造主義の四天王と言われた思想家にミシェル・フーコーというフランス人がいます。

 フランスでは20世紀中盤以降に構造主義が流行しその後のポスト構造主義と併せてフランス現代思想と呼ばれました。

 この時代は色々な分野の学問が構造主義で再構成されて行きました。

 フーコーは構造主義の四天王と言われ文献学、書誌学、歴史学の分野を構造主義で再構築しましたが彼自身は自らを構造主義者ではないとも述べています。

実際に彼の思想はポスト構造主義でもあり文献学、書誌学、歴史学の基礎理論を構築し直しています。

歴史とは文字で記された過去の出来事です。

ですから文字で記録が残されている時代を歴史時代と言い、文字記録がない時代を先史時代と言います。

併せてヒストリーと呼んで過去の出来事の正確な理解、認識を目指す学問と考えましょう。

このフーコーは「歴史の終わり」「人間の終わり」という考え方を提示しました。

他に「近代の終わり」というのを提起した思想家もいます。

現代哲学は素朴実在論の同一性批判を行った哲学です。

認知科学の仮説で「同一の記憶を想起することはない、同じことを思い出している様に感じても思い出される記憶はそのたびに新たに構成されたものである」というのを聞いたことがある方もおられると思います。

近代まで他に代替案がないために無意識に絶対的な前提とされていた素朴実在論では時間の同一性というものを無意識に想定しています。

例えば自己同一性と言うのは自己と言うのは連続な存在であり、一瞬前の自分は一瞬後の自分と多少の変化はあっても同じ存在であるということを前提としています。

現代哲学ではこの前提を排除します。

否定するわけではありませんが学問的に実証も証明も出来ず再現性もないため前提とは出来ないと考えます。

これは自己同一性や記憶の同一性の批判になりますが、自己や記憶にだけ当てはまるわけではありません。

全ての物事に当てはまります。

すなわちヒストリー、または歴史の同一性の批判にもなります。

過去の出来事と言うのは連続性をもって存在していないかもしれないし、もっと言えばある瞬間の過去の出来事、あるいは全ての過去の出来事は存在していない可能性もあります。

何となく量子力学を思い浮かべる人もいるでしょう。

もう一点、近代は理性や知性、科学技術を万能と見なす傾向がある時代でした。

過去の歴史が実在するとしてそれを解き明かす方法はないかもしれないのですが、近代においては知性と理性、科学技術によって過去の真実に到達できるという考え方が強固にありました。

簡単のために文字資料で過去の出来事を研究する歴史に限定してみましょう。

ある世代以上の皇国史観や唯物史観などで思弁的理論研究ばかり行い資料を読み込む実証研究を軽んじた時代はともかく、現役世代の歴史家は丹念に過去の文献を読み込み実証を目指す地道な実証研究を行っていると思います。

この様な地に足の着いた研究をした人であれば同意されると思いますが、書誌文献から歴史を再構成するということは困難極まりないというよりはむしろ不可能とさえ感じられることです。

第2章 文献・書誌研究

 ざっと各種領域の文献書誌研究を見てみましょう。

 儒教においては中国宋の時代に朱子学というものが発生しそれが江戸幕府の正当な学問になりました。

 朱子学は理と気で世の中の全てを説明する究極理論のようなものですが、証明も実証性もないのはもちろん古代の儒教とのつながりが全く不明であり儒教の正統思想とする根拠が特にありませんでした。

 そこで朱子学内部からは山崎闇斎や浅見けいさいが幕府朝廷簒奪論を説き、陽明学が生まれ、中国の考証学の先駆けとなる古学と言う文献学と思想が生まれます。

 伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠などで古義学と言ったり古文辞学と言ったりしましたが、文献研究からは孔子の授業と朱子学は別物で関係がないとする説です。

 一方仏教では大阪の私塾懐徳堂の富永仲基が大乗仏教の多くの仏典が仏典結集などで残されたオリジナルの原始仏教の古典とは関係がない事を音韻学などを用いて立証します。

 中医学の考証学は幕末の江戸医学館の研究が世界のトップで数々の事件で元の形が遺っていない中医学の書誌学、文献学研究などで中医学の変遷を当時最も的確に理解していました。

 本邦以外でも20世紀に入ってからは聖書の文研研究を行う聖書学が起こり、現在では聖書は複数の時代の複数の著者の複数の思想の混入や思想の進歩、改変などが分かるようになってきています。

 このようにさらっと書くとあたかも研究により各分野の歴史の真実に近づいている様に読む方もいらっしゃると思いますが、そもそも過去の出来事を現代に正確に再現することは不可能です。

 再現できたと思っても正確に再現できていることを証明も実証も出来ません。

 歴史記述は純粋な学問探求を行っていれば通説はしょっちゅう変わるのが普通です。

 そしてそれ以前に現代全ての科学の基礎になっている現代哲学の観点から見れば「真実の過去の出来事」なるものは先ほども書いた通り原理的に存在を実証できません。


第3章 認識とは

 「正しい歴史認識」の歴史についての現代哲学の見解を前章で書きました。

 「歴史」とともに「認識」というのも現代哲学では重要な言葉です。

 そもそも西洋哲学は存在論と認識論が主で他は雑学のようなものです。

 「過去の出来事の認識」は困難に違いありませんが、そもそも現代哲学では現在の出来事の認識」も簡単にできるとは考えません。

 現在の認識どころか、自分の今目の前で起こっていること、体験していることの認識ですら複雑な問題をはらんでいると考えます。

 「歴史の認識」となると現在体験できない過去の出来事だけでなく、書誌文献を通して行われます。

 書誌学や文献学自体が難解な学問ですが、もう一点、言語学や記号論の問題も関わってきます。

 「テクストをどう読むか」と言う問題は書誌の成立年代や文献の改変などとは別にそれ自体が基礎固めからしっかりしないと学問の体裁を整えられません。

 そもそも構造主義は数学の記号学的研究や言語学を母体として生まれた学問です。

 記号論こそが情報の科学技術産業、ということは全ての学問は突き詰めれば情報の研究ですので全ての科学技術産業の基礎になっているわけです。


第4章 正しさについて

 「正しい歴史認識」を形成する最後の要素が「正しい」です。

 「正しさ」「確かさ」は終始一貫西洋哲学の主題でした。

 これは「存在論」と「認識論」が西洋哲学の主題であったと先に書いた事とは違う側面からの見方です。

 何か実在するものがある、物事には実体があるという考え方に立てば存在する物事には実と虚、嘘の姿と本当の姿があるという考え方になるのかもしれません。

 これに則れば「正しい歴史」がある、「正しい歴史を正しく認識できる」という論法が成り立つでしょう。

 近代哲学以前の古い哲学では何となくこれで話が通じたのかもしれませんが、現代哲学ではこれでは話の意味が通じません。

 「正しい」の定義を問われることになります。

 この場合は思想の自由が認められている国では「正しさ」を科学的な方法で定義しようとするでしょう。

 現代哲学でブラッシュアップされた歴史学や文献学、現代哲学でアップデートされた認識論で正しいを定義します。

 それ以外には公正と思える方法がないからです。

 この科学的に「正しさ」を決めることを否定する場合には2つのパターンが考えられます。

 意図的ではなく科学的は方法を取らない場合と意図的に科学的な方法を取らない場合です。

 更に分類すると意図的ではなく科学的な方法を取らない場合は知能が足りないか学問の自由が保障されていないか何かの理由で科学的であることを禁じられておりそれに従っている場合です。

 意図的に科学的な方法を取らない場合は政治的なプロパガンダか知性や理性を超える感情や情動に打ち勝てない場合でしょう。


おわりに

 「正しい歴史認識」「差別」「自己責任論」などが新たな形でここ数十年認知されるようになりました。

 問題自体は昔からあると言えばあるものです。

 ただ考察や議論の質が劣化している様に見えます。

 一つにはこれらの概念が通年化しつつあるのは戦前派、戦中派の人が減少し発言力が無くなってきたことが考えられます。

 昔でしたら現代哲学が登場する前でもお話にもならず論破されて終わりだったかもしれません。

 他には教養主義の終焉とメディアの変質があるのかもしれません。

 本を読まなくなった時期とインターネットが普及する時期の間に新聞やテレビが大きな力を閉めていた時期があり、この時期には日本社会が変質したように見えます。

 インターネットは情報集めには向いていますが、やはり教科書にはならず、基礎的な学問の習得には向いていないようです。

 ある程度体系的で習得に脳のエネルギー消費による脳疲労や集中的持続的な学習時間を要するような理論の習得には主となる教材にはやはり本がいいようです。

 「正しい歴史認識」なるものを唱える人は現代哲学は知らないのは仕方がないとしてモダニズム的な脳の持ち主で近代哲学に基づくイデオロギーに固着している可能性があるため接触や関わるのには注意が必要かもしれません。(字数:4,407字)

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