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はじめましての自己紹介

最初なので、増田ソフィが何者なのかという自己紹介をします。
私はパートタイマーとしてデータ入力の仕事をしながら子育てをしていた、ひとり親でした。しかし、コロナ禍での休園や小学校に上がってからの不登校により、会社を辞めざるを得ない状況に追い込まれました。それをきっかけに私は自分の生き方や働き方を見つめ直すようになります。

私は10代の思春期に入ってから生きづらさを抱えるようになり、人間関係で失敗ばかりし、パートを10社以上辞めてきました。それまでは少数派の自分が多数派の社会に合わせないと絶対いけないと思っていました。そして自分がダメだから合わせられないのだと思っていました。

しかし、個性の強い子どもを産んだことで、少しずつその考えが変わり始めました。
息子は生まれた時からちょっと周りの子とは違っていました。ズレてるというか、「今それじゃないよね?」みたいなことが、常日頃からありました。ちょっと不思議くんみたいな感じでした。
小学校に入ると、1年生初っ端から厳しい先生で、息子は書字が苦手だったのですが、ちょっとでも枠からズレていたりトメハネができていなかったりすると全部やり直しにする先生でした。それで、やり直しの宿題とその日に出た宿題で、書字が苦手な息子はどんどん雪だるま式に宿題が膨れ上がり、毎日深夜0時まで起きてやっていました。「体に悪いからもう寝よう」と声をかけても、先生が怖いからかずっとやっていました。
保育園まではどんなぐちゃっとした工作でもひらがながちゃんと書けていなくても保育士さんが「よくできたね!」と言ってくれて、彼の自信は傷ついていませんでした。しかし小学校に上がると「できる!」と信じて頑張って書いたものも、「ここが良くない」と悪い点ばかりが指摘されてしまうようになってしまいました。
1年生は3学期までは頑張って通い続けましたが、2月に入ると本格的に足が向かなくなりました。不登校をきっかけに市の教育相談に通うようになり、そこの心理士から発達障害の可能性を示唆され、WISCを受け、病院も紹介してもらうことになりました。結果、息子がADHDとASDの両方の特性を持つということが判明しました。

学校教育は運営をスムーズに行うために、どうしても多数派向けにできています。列を乱すものは疎まれます。
学校やそこで働く人たちにはもちろん感謝もあるし、学校は必要な場所だと思いますが、息子が多数派からあぶれた途端、疑問に思うこともたくさん出てきてしまいました。

そして、まずは私が少数派の生き方を見せる必要があると思いました。言葉でうわべだけで言っても子どもには見抜かれてしまう。近くの大人が態度と行動で示す必要があると思いました。
私自身も、パートの仕事を続ける50歳とか60歳の自分の姿が全く思い浮かびませんでした。考えようとすると鬱のように暗く表情が沈んでしまいます。「無理だ…」
ちょうどよく(と言ったらおかしいですが)息子が不登校になったのをきっかけに会社にいれなくなり、私は幼少期からの夢だった絵描きを目指すことを思い立ったのです。
(しかしもちろん絵の世界にも障壁は色々とあり…それはまた後ほど書こうと思います)

この記事を書いている現在で、本格的に絵の道を志して1年8ヶ月となります。

両親が揃っている家でもどちらかが急に事故で死ぬかもしれないし、子どもがいじめに遭って不登校になるかもしれない。精神や身体的な疾患で今までの日常が送れなくなるかもしれないし、戦争が起きるかもしれない。
たまたま自分がひとり親で、たまたま子どもが発達障害でしたが、先々のことに不安を抱いていてもしょうがない。不登校になり出した頃はそれはもうお先真っ暗な気持ちでしたが、1年を経てようやく自分が変わってきました。すると息子も変わってきて、今では1日おきに学校に通っています。

とにかく「今」にフォーカスして生きる。
「現在」を大切にして生きようとすると、私の場合はやっぱり自然と絵の仕事に結びつくんだと思います。
これが増田ソフィという人間の一部です。
拙くて長い文章ですが、どうぞこれからよろしくお願いいたします。

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