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『複雑化の教育論』内田樹・著/ホンダアツシの「読むべし!」

今回ご紹介するのは、内田樹さんの『複雑化の教育論』です。


言わずと知れた思想家、内田樹さんの著作ですが、氏はこれまでも教育に関するものを多く書かれてきています。

気になる方はお読みいただくとして、
今作は、2022年に書かれた、時代をより反映させたものであるという点で、注目されるべき著書となるでしょう。

現代だからこそ語る内田論、特に教育論がどのようなものであろうか。期待を裏切らない作品になっていると言っていいでしょう。

特に、タイトルにある通り、「複雑化」のくだりは、今の学校教育関係者に是非一読願いたいものになっています。

では、大枠(章立て)での目次をご紹介しておきます。
(なお、当書籍は氏の3回分の講演をまとめたものになっているということです)

第一講 複雑化の教育
第二講 単純化する社会
第三講 教師の身体

以上が、いわゆるいわゆる大きな章立てになります。

では、注目すべき箇所を見ておきましょう。

まずはなんと言っても、複雑化についてです。

第一講から、引用、転載します。


学校は子どもたちの成熟を支援するためのものです。
それ以外のことはどれも副次的なものに過ぎません。

僕が考える「成熟」というのは「複雑化」ということです。

でも、僕が言う「成熟」というのは量的に何かが増えるということとは違います。成熟というのは複雑化することです。昨日とは違う人間になるということです。

見事です。これまでの書籍や文章をお読みの方には、スッと飲み込める内容なのではないでしょうか。
学びの真髄に迫るものですね。


次に、同じ第一講に、「実践的な賢さ」について述べられた箇所があります。(小項目として立てられています)

話の中に、(賢さを持った方の)実例として、神戸大学の岩田健太郎教授が登場します。

ですから、僕と話していても、僕がどんなにつじつまの合わない、へんちきなことを言っても、その非合理な言明の背後にも、それを語らせるような現実的根拠があるに違いないという風に推論する。そうなると、頭ごなしに「そんなことあるはずないでしょう」というような対応をしない。まず最後まで話を聴く。

たぶん頭の中で、「内田はどうしてこのようなことを力説するに至ったのか?」という問いについて二つか三つの仮説を立てて、それを走らせているんだと思います。結論を急がない。黙って人の話を聴くのは、別に我慢しているわけじゃなくて、観察しているんですね。どの仮説が妥当するか吟味している。

僕はこういう知力の使い方ができる人が「実践的に賢い」と思うんです。

ふむふむ。そう、それです。このくだり、よくわかります。


この小項目に続いて、「格付け機関化する学校の弊害」というのがあるんですが、これなんかは、不登校についても言及しています。


それは学校が子どもの成熟と、複雑化を支援する場であればいいと僕は思います。そのことを嫌う子どもはいないと思うんです。
でも今の学校はそうではない。文科省はたぶんそんなことに何の興味も持っていない。文科書は国民の市民的成熟など全く望んでいないように見えます。むしろ幼児のままでいて欲しいとさえ思っている。

この辺り、ずばり核心をついてますね。

続けて、

今の文科省が学校教育を通じて子どもたちに教え込もうとしているのは、上位者の言うことに絶対抗命しないイエスマンシップです。上位者に言われたことはすべてそのまま実行する。どれほど無意味なタスクであっても、「これに何の意味があるんですか?」というような問いを発しない無意味耐性を身につけること、これを文科省は最優先に、あらゆる領域で追求しています。

現場レベルの教育を見ても、これはまさにズバリなんですね。

わずか、これだけをご紹介しても、まさに今の教育の状況を反映していていることがお分かりになろうかと思います。

ご興味のある方は、ここから先は、ご自身でどうぞ読まれてくださいね。

ということで、
教育関係者は、マストバイ、な本、
内田樹さんの『複雑化の教育』をご紹介しました。


それでは。


(おわり)







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