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【教育と消費はなぜ別物なのか】「学校について考えよう その2」

教育連載の転載、その2です。


勉強が未来を創る 第10回
「学校について考えよう 2」

「先生が偉くなくなってしまった」のは、学ぶ側の「消費主体」としての行動が強まってきてしまったから。

ここまでが前回の内容でした。

学ぶ側というのは学校に行く子どもたち、及びそこに子を通わせる私たち大人のことです。

では、消費主体としての行動とはどのようなものなのでしょうか。

消費行動というのはその言葉通り「お金を出して物を買う」ということです。  

消費者は自分の持っている「お金」をそれに見合う「商品」と「交換」しようとします。 

価値の等しいと思える取引、つまり「等価交換」です。

現代に生きる私たちは何でも「お金」を「それに見合う商品」と交換しようとする「思考の癖」のようなものが身についてしまっています。

数ある教育論の指摘によれば、この「等価交換」思考が、学校や社会における学びに大きな弊害をもたらしていると言われています。

特にこの傾向は高度経済成長期以後の社会において顕著です。


ひと昔前の私たちの出発点は「労働」でした。

小さい頃を思い起こしてみてください。

私たちは親に命じられて「家でのお手伝い」をしていました。 いわゆる「家事」です。

子どもが何らかの社会環境の中で一番最初にする行動は「労働」的なものだったわけです。

家事には消費における取引のような概念は存在しません。子どもたちが受け取れるものは「ありがとう」といった親からの感謝の言葉くらいでしょう。部屋の掃除がいくらで、お風呂掃除がいくらで、というような取引目線だとか消費者目線は存在しない。

なぜ私が掃除をし、なぜ私がお風呂を洗うのか、というように意味や目的すら考えることもないでしょう。

ただ親の「しなさい」という指示に、意味など見い出さないうちに「ただ行う」のです。


その見返りは「がんばったね」「ありがとうね」といったねぎらいや感謝であり、それによって子どもは自己を形成していく。 

こうした「労働」を起源とする自己形成が、以前の私たちのあり方でした。


(つづく)


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