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台湾まぜそばを食べながら考える「大丈夫です」

先日、出張があったので帰りに台湾まぜそばの店に寄った。個人的に台湾まぜそばが好きなのだが、巷にはあまり店がない。台湾まぜそばの店は私とっては一軒一軒どれも貴重なのである。


午前から2件の訪問をこなした後だったので、かなり空腹だった。普段のデスクワークとは違う仕事をすると、精神的に疲れる。その疲れを補うためにも、私は台湾まぜそば大盛りに唐揚げとご飯が付いたボリューミーなAランチをとることにした。

この店ではニンニクの有無を選べるらしく、注文時に店員さんが機械的に聞いてくれる。午後から仕事があったので、私は「抜きでお願いします」と答えた。


注文を済ませ、石油備蓄放出のニュースをスマホで見ていると、右斜め後方に1人の男性客が着席した。すかさず店員が食券を取りに来て、同じく機械的にニンニクの有無を聞いた。すると男性は「大丈夫です」と小さな声で答えた。おばちゃん店員はその言葉からではニンニクの有無がわからなかったので、もう一度聞くと、「入れておいてください」とまた小さな声で答えた。

これは多くの人に経験があるだろう。そう、「大丈夫」はどちらの意味にもとれてしまうのだ。日本語の厄介なところである。


例えば最近ではレジ袋が有料化されてしまったが、店員さんが「レジ袋有料ですが?」と聞いてきた時に咄嗟に「大丈夫です!」と言ってしまうことがあるが、確かにその度に聞き返される。自分ではわかっていても、店員さんには私の心の内は知りようがない。

確かにこの文脈では「レジ袋が有料ならば大丈夫(結構です)です」というパターンと「レジ袋は有料でも大丈夫(構いませんよ)」というパターンの2つが考えられる。日本語は婉曲やハッキリ言い切らない言葉だと言われるが、その特徴は日常生活にも顕著に現れる。

我々の心理には「透明性錯覚」というものがあり、「これくらい言わなくてもわかるだろう」という思い込みがあるのだ。そういった心理的作用も働いて、自分だけにわかる「大丈夫です」を言ってしまうのかもしれない。


また、同じような例には「すいません」がある。とある本に「すいません」には「ごめんなさい」と「ありがとう」の両方の意味があると書いていた。また「すいません」はどちらの意味にもとれるのですいませんではなく先述の謝罪や感謝の言葉を使おうということが書いてあった。


確かに、良くも悪くも日本語には言い切らない、婉曲、多義語という性質がある。やはりコミュニケーションという観点から考えると、ハッキリと「要りません」「欲しいです」などという言葉が必要なのではないだろうか。確認が必要な曖昧な言葉ではなく、ハッキリとして答えを出す方が良い。

それがある種のカッコ良さ、潔さ、礼儀ではないだろうか。相手に確認をさせてしまうよりも、一発でハッキリと伝える方が良い。それがコミュニケーションの基本である。

そう、台湾まぜそばを食べながら思った。



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