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立たなかった先生

小学校の時、H先生という50代後半の女性の先生がいた。H先生は先生の中では高齢な方だが、かなり活気のある先生だ。テニスをやっているので、半ズボンの時はムキムキのふくらはぎが露わになる。

普段は優しいが、怒る時はいつも「コラッ!!」という出だしから始まる。私は何度怒られたかわからない。頭をはたかれたり、廊下に立たされたりしたこともあった。確かに私の方がそれなりの理由のあることをしているのだが、今では大問題になるようなこともよくある昔ながらの先生だった。

そんなH先生と僕はなぜがご縁があり、2年生、5年生、6年生時の担任はH先生だった。「小学校生活の半分はH先生とあった」と言っても過言ではない。多くの時間を過ごし、多くの授業をしてもらい、たくさん怒ってくれた。そんなH先生に疑問を持ったのは6年生の時の卒業式だった。

我々は卒業式の成功のためにリハーサルを数度行った。私は卒業生集団の1番左端の列にいて、その真横には教職員の席があった。先生たちの真横ということで緊張しながらリハーサルをこなしていた。

卒業式では校歌に加えて、国歌や市歌を歌うのが通例である。だが、リハーサルではその都度歌っていると時間がかかるので、「国歌斉唱。はい、歌いました」という感じで飛ばしながらの進行だった。


そして、卒業式本番を迎えた。多くの保護者や来賓の方が来ていた。担任のH先生はたいへん華やかな和装を着ていて、普段のジャージ姿との対比に驚かされた。

式は進んで、国歌斉唱の場面になった。「一同、ご脱帽のうえ、ご起立ください」という感じのアナウンスが流れた。我々はリハーサル通りに起立した。その他、保護者や来賓の人も一斉に立ち上がって国家が流れ始めた。

私は教職員列の真隣の席だったので、教職員の顔がよく見えた。その時に気づいたのだが、H先生だけは起立していなかった。他の先生も生徒も誰もが起立しているのに。私は「あれ、先生は脚を怪我したのだろうか?」と思ったが、そんな話は聞かないし、さっきも普通に歩いていた。また、起立していないだけでなく、歌も歌っていない。口元は閉じられていた。「なんで歌も歌わないんだろう」とも思った。

歌は中盤の「いわおとなりて~」くらいにさしかかった。H先生の隣の巨体のT校長はむしろ大声で歌っていてその姿に私は笑いそうになった。曲が終わるまでチラチラとH先生を見ていたが、ずっと、とても恐い顔をして座ったまま、口をギュッと閉じて前を見ていた。我々を叱る時の顔と同じだった。

式が終わってからはみんなで写真を撮ったり、別れの言葉を交わしたが、H先生はとても笑顔で皆に接してくれた。H先生は定年の年だったため、「皆と一緒に卒業や~」と笑い泣きながら言っていた。国歌斉唱の時の怖い顔はそこには無かった。「なぜ、起立しなかったのか」は聞けなかった。


中学に進んでからもどこかではあの卒業式の時のH先生の振る舞いが気になっていた。「なぜ、起立しなかったんだろう、国歌を歌わなかったんだろう」と。そんなモヤモヤを抱えていた時、卒業して2年後に、巷で話題になったのは次のニュースだった。

ニュースを見ていると、起立しない先生は一定数いる、橋本さんは国歌斉唱では起立をさせたい、学校の先生は起立しなけれないけない、思想や信条には自由がある、国歌には悪い意味を見出す人もいる、などということを中学生の私は断片的に知った。加えて、国歌を起立して歌うことには重大な意味があるのだということに気が付いた。

別に起立くらいすればいいんじゃないか、口パクや小さな声で歌えばいいんじゃないかと思う人も多いと思う。実際に私もそう思った。多くの人が起立して国歌を歌う中、それに抗うように起立をしないのはとても目立つ。そして現に私のように疑問や不信感を抱く人もいると思う。

特に私の場合、ずっと一緒に過ごしてきた担任の先生が怖い顔をして起立しなかったので、単純にとてもビックリした。そして、小学校を卒業した後でもそのH先生の姿は私の中にモヤモヤとして残り続けた。

生徒に不安や不信感を抱かせたという面ではH先生の振る舞いはよく無かっただろう。今になるとそう思う。それは別に公務員だからとか、税金がという意味ではなく、「生徒に対する先生として」「担任の先生」としては起立すべきではなかろうかと思う。いくら自由があるとはいえ、個人的な思想・信条が卒業式を迎える生徒より先行してしまうという現実は、その光景を見た者としては非常に遺憾だ。平易な言葉で言うなら、自分勝手な振る舞いだ。

だが一方、大人になった今、H先生はどんな苦しみや憎しみを背負ってきたのだろうかとも思う。調べれば色々と出てくるが、「君が代」の持つ意味や歴史は我々が思う以上に複雑で多義的だ。この歌は見方によっては憎しみや悲しみの象徴となる時もある。

多くの人が少なくともは起立し、国歌を斉唱する中で、たった一人であってさえも起立できないほどの想い、また険しい顔になってしまうほどの思想・信条とはいったいどんなものなのだろうか。私にはそれが推し量ることができないが、そういった態度を見せる教職員が一定数いるということは、君が代に軍国的主義的な背景が込められているということは否めない。


この君が代の不起立問題は実に様々な意見が飛び交う。専門家の間でも意見が割れている。そんな複雑な問題なのである。我々には君が代を聴く、歌う場面が日常の中にも幾度かある。ただ、その時にただ一つの歌として捉えるのではなく、どんな歌でどんな背景があるのかということくらいは関心を持ってもよいかもしれない。

教科書に出てくるキリスト教の踏み絵という行為があるが、「そんなものとりあえず踏んでおけばいいじゃないか」と思うかもしれない。だが、この君が代不起立問題はこの踏み絵にかなり似ている。要は真の思想・信条というのは簡単に偽りや出し入れができないという真正性を持つということだ。ある特定の思想・信条があれば、君が代は単なる歌では無くなってしまうのである。

教職員や学校という公共性と思想・信条の自由という個人的な側面のぶつかるこの君が代不起立問題。今となってはH先生に対して「なぜ立たなかったのか?」ではなく「立てないくらいの何があったのか?」という想いで胸がいっぱいである。


歌えない歌






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